2017年07月

なんであの時、牛丼なんか食べたのか、2日経った今でも慚愧に耐えない。


一昨日のことである。散歩に出た某所にある某量販型古本店の店先の100円均一の棚を眺めていたら、1973年刊行の新潮社「安部公房全作品集全15巻」のうち7~12巻6冊があったのを見つけた。


「おおっ」と手に取り入念に子細を調べる。40年近く前に刊行された本である。


各々さすがに経年焼けは致し方はないにしても、箱入り月報付きでさほどの汚れもなく、開きや折り癖、書き込みなど一切なし。函もほとんど傷みもなく完本に近い状態。


全巻揃いではなくいわゆる全集物の端本の集合ではあるが、これはやりようによってはAmazonやヤフオクに出品すればかなりの高値で売れるのではないか。


これだから量販店古本屋の店舗外陳列商品眺めは止められまへんわ、うひひひひひひとほくそ笑む。


しかし、この暑い中歩いて腹も減り喉も乾きに乾いている。


とりあえず虫養い、水分補給、汗乾かししようと、その店の近所にある牛丼屋に牛丼とビールを相手に、じっくりこの掘り出し物の販売戦略を考えようと入ったのが間違いの元だったのだ。


牛丼屋にいたのは30分足らず。腹はふくれビールと冷房で汗もひき、値付けと売り出しのタイミングプランもばっちり立て「さて、では」と上機嫌で、再び古本屋におもむく。


さっきの棚を見やる。ないのである。安部公房が1冊残らず消えているのである。安倍公房どこ行ったのだ!


さては店員が棚の整理のために他に移動させたかと思ったが、安倍公房の6冊の本の前後左右の本は30分前と寸分違わない。つまりは30分の間にどこぞの誰ぞがお買い上げになられやがったのである。


自分のことはすっかり棚に上げて「んまにもう。これやから油断も隙もないねん。どうせオークションサイトか密林で売りさばきよるんや。100円で仕入れてその数十倍もの値段で転売する悪徳商人奴が、さもしいやっちゃ、と憤慨のあまり、ひいたばかりの汗がまた噴き出してきた。


「掘り出し物において『次』と『幽霊』は出ない」という鉄則がある。


これはと思った商品を見かけたら躊躇せず買う、あるいは店の人間に頼み込んで1000円でもいい手付金、前約金を払い、他人に売るのを抑えてもらうのが鉄板の法則である。


「後で買う、次に買うは掘り出し物という名の気まぐれな幽霊には通用しない」ということ。


それをけっして忘れたわけではないが、酷暑と食欲が私に気の緩みを生じせしめたのだ。


たかが「牛丼とビールの組み合わせ」の魅力に負けてしまったがゆえに。


ほんまに口卑しい自分が情けなくなる。同時になんで古本屋の近くで牛丼屋なんか開いたんや、○○家のくそったれが、と見当違いの八つ当たりもしたくなる。


悔やんでも悔やみきれない。一昨日と昨日はAmazonやヤフオクはじめオークションサイトを見る勇気がわかなかった。


私が買い損ねた本を誰かが出品して、それが高値で売られたり落札されたりと知れば、悔悟、懺悔、嫉妬、怨嫉、憤怒、悲嘆、愁嘆、ありとあらゆるマイナス感情に襲われ、懊悩する羽目に堕ちてしまうのが怖いからである。


今朝、ようやくおずおずとそれらのサイトをスマホでのぞいてみると、安倍公房の件の本、全15巻揃いのものは別として端本には高値もついていず、入札価格も持ってけ泥棒価格からスタートしている。


まずは胸をなで下ろしたのだが、これがもし私が見立てた価格かそれ以上の値付けになっていれば歯ぎしりのために口腔内の歯は全部なくなり、血圧があがりすぎて口からおろか耳、鼻、陰茎、肛門、毛穴、体のありとあらゆる場所から血が間欠泉の湯のように噴き出し、あえなく悶死していたであろう。


しかし今後の予断と油断はゆめゆめ許されない。世の中には「こんなものでもいいの」みたいな物を高額で買ったり落札する物好き好事家がいる。


本の全集物、雑誌のバックナンバーなどを蒐集している人の中には一冊でも欠本があると必ず埋めないと気がすまない、死んでも死にきれないという人が結構いる。


いやそういう人の方が圧倒的に多い。この手のコレクションは全部揃えてこそ初めてコレクションと呼べるのだ。その情熱たるやすごいものがある。


自分が「こんなもの」と勝手に決めつけるのは禁物。人によってはそれが「これ、これが欲しかったんだ」という物が必ずある。


たとえ端本の集合であっても欲しければ金に糸目をつけず買いたい人が出てくるものだ。


それを考えるとまたまた「牛丼とビールで失われた30分」に対する口惜しさがむらむらとこみ上げてくる。


なんであの時、牛丼なんか食べたんや、ビールなんか飲んだんや、そんなもん後回しでもよかったやないか、なんでなんでなんでやね~ん、と頭をかきむしりながら悔し涙がボロボロとまではいかないけど、ああもったいなことをした。商機を逃してしまった。


当分牛丼屋に行かんぞ。


昨日の記事の続きみたいだが、ああ、まあええか。大阪弁で書くわ。酔ってるしな。
さっきからたかじんばっかり、iPodで再生してるんや。
「生まれる前から好きやった」は名曲やな。河島英五のオリジナル、というより河島がたかじんに歌わせたようなもんやけど。
これ聴いていると、ちょっと泣けてきて古い涙と新しい涙がごっちゃになってくる。
俺はおそらく、たとえ誰の葬式でも泣かない自信があるが、こうして酒を飲んで気に入りの歌を聴いている時に鼻の奥でごく小さな痙攣ともに目からちょっと出てくることがある。
それが俺の本当の性根だと思いたい。
生まれる前から好きやった、って理屈ではありえへんけど、そういうしかない男と女の関係もあってええんちゃうか、と自問自答している。









夜半から払暁にかけて久しぶりにまとまった雨が降った。さすがに気温が下がったものの、湿気がひどく蒸し暑い一日となった。
安倍晋三内閣が瓦解し始めている。頭が頭ならそれに寄り添う「お友達」大臣も劣悪。お友達に足を引っ張られ、また「マブダチ」の加計某のために便宜はかりの口利きの結句、自分で自分の首を締めて5年にわたる我儘強権身勝手したい放題の政治運営に幕を下ろす時を迎えた。
自民党議員から反旗を翻す動きも出ている。沈みだす船のキャプテンと一緒に溺れ死ぬ気なんてないと言わんばかりに手のひらを返し始めた。
日和見風見鶏で鵺の公明党も都議選あたりから顔は安倍と自民に向けたまま少しずつ後じさっている。
政治家の本性がこういう時に現れる。所詮自分の議席可愛さ。連中の頭にはそれしかない。
自民党の支持率も下落の一途だが、かといって野党の支持率があがったわけではない。
日頃政治家に無関心な層、いわゆる無党派層がノーをつきつけている。声なき声の静かな怒りがそこにある。
安倍の祖父の岸信介が総理の頃、日米安保条約延長に反対する抗議のデモが連日国会議事堂を騒然とさせていた時、マスコミのインタビューに「安保反対安保反対と騒いでいるのは国民のごく一部。現に今、後楽園球場でナイターやっているでしょ。超満員のお客がいる。声なき声は別に反対と言っているわけでない」旨言い放った。
孫がその「声なき声」に葬り去られようとしているのは皮肉である。大方の国民はあんたたちから見たらバカだけど、あんまりナメたことをやっていると痛い目に遭う。ボンクラの孫も少しは骨身に沁みて…ないわなあ。
我が家の財務大臣が見場は多少悪いが鱧を買ってきてくれた。「鰻も鱧も」はかなわなかったが、私にとってこれで充分。
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正月に雑煮を食べなければなんとなく落ち着かないのと同じで、夏に一度は鰻か鱧を食べておかないと年経るの気分がわかない。
テレビで天神祭の中継を見ながら、鱧とたこ酢を友にケミカル焼酎をちびちびやる。昼間、大阪の実家に父を、某所の介護付き老人ホームに母を訪った疲れに酔いが快く廻ってくる。
今回の中継はヘリからの大阪の夜景撮りがよかった。こうして俯瞰的にわが生まれ育ちの街を見ていると、大阪にいた頃、大阪で働いていた頃のあれこれを思い出す。昼間にこの街の片隅で過ごしただけに里心のひとつも起きてくる。
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やっぱ好きやねん、自然にやしきたかじんの代名詞的な曲のタイトルが口をついて出てくる。たかじん自身は京都の生まれらしいが、やしきたかじんそのものが大阪を具現している。
JR環状線大阪駅の発車メロにも使われ、神戸線からの電車が到着する京都線のホームから環状線のホームに移動して、電子音にアレンジされたこれを聞くと大阪に帰ってきたんやと実感がわく。
東西線経由なら放出駅にダイレクトに、かつ時間を短縮させて行けるが、わざわざ神戸線と環状線に乗り継ぐのはこれが聞きたいがためである。




今日も暑かった。午前中の曇り空は湿度の高さの尾を引いて巧妙に午後からの晴天に紛れ込んでいたのか、ねっとりとした熱気が余計に応える。


予報によると今月いっぱいこの猛暑、いや狂暑が続くという。


大食らい、ご飯派の私でもさすがに朝はサンドイッチや菓子パンにリンゴジュース、夕方は素麺を中心とした冷やし麺しか、このところ食が進まない。
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国会議員上西小百合の対浦和レッズおよびサポーターとの一連のトラブル。


特に「他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ」との彼女のツイート、あれだけは正鵠を射ているじゃないか。よく言ってくれたと喝采したい。


image他人の人生に乗っかるような生き方しか出来ないから、彼女の計算ずくの挑発にまんまと乗せられるのだ。ちぃとは頭を冷やせよ。


人に惚れたり人を愛したりすることは人生においてとても大切なことだが、20パーセントは惚れたはれたでのぼせ上がった自分を冷ややかに見つめる部分は残しておけよ、といいたい。


自分の人生の主役は我一人だ。他人が廻す舞台で猿廻しの猿のようにテンツクテンツク踊ってどうすんのよ。


もっともそこまで忘我の境地で熱狂できる対象があって羨ましいちゃあ羨ましいが。


俺はあかんわね、すこしでもオーバーヒートしだしたら、もう一人の俺が「あ~あ調子こいてバカやって」と水をかけてくれるから。


裏返せば自己中というのか自意識過剰というのか、だからこそ「自分の人生の主役は俺一人だけ」と言い切る自信があるわけで。


「人生の時間は限られている。他人の人生を生きることで時間を無駄にしてはいけない」。


これはスティーヴ・ジョブズが生前、スタンフォード大学の卒業式に招待された時に記念スピーチで語ったことだが、上西小百合と言っていることはほぼ同じこと。


ジョブズのは名言だと称えられ、上西のは炎上狙い(実際そのとおりなんだが)と叩かれてえらい違い。


言葉の送り手は死後もIT革命の象徴的存在で受け取る側がアメリカの名門大学生、片や…送り手があれで受け取る方も…、ま、知性の違いでしょうか。


猛暑が続く。先日日本各地の梅雨明けが揃ったのだが、いつ梅雨があったというのだ。晩春から一気に真夏へワープさせられた感ありの今夏である。


7月月初から猛暑日の連続。去年もそうだったが、8月半ば頃より台風が発生し、9月初めには初秋らしい空気の冷たさを感じた。


猛暑といえばいまだ2010年夏の記憶が強烈である。あの年は9月終わり近くになっても、あまりの太平洋高気圧の強さに台風がなかなか発生せず、今年同様7月から酷暑に見舞われ、その状態が2ヶ月も続いた。


今夏だが、一昨日より太平洋に複数の台風が発生、これはもしかして去年同様8月に入ってまもなく狂の字をつけてもいい暑さも一段落するのではと期待している。


明後日25日次の26日と仕事は休み。そして25日の大阪といえば「天神さん」、天神祭である。


休みの日と天神祭が重なるのは初めてである。大阪の放出の実家へ行った後、東西線での帰途に大阪天満宮駅がある。


と、ここまで書いただけで、かの日の宵闇以降の人群れと南北を貫く天満の商店街の軒先を借りた夜店出しのにぎわいが目に浮かんでくる。


前に勤めていた会社が天満宮を氏神とするエリアにあり、25日はあの辺の会社のほとんどが午後から開店休業状態。


午後3時に陸渡御が始まる。神輿渡御の行列が天満宮を出発、天神橋筋を西へ渡る。そこから老松通り。通りを牛車を伴い天満警察署前の大川の浜まで練り歩く。神事はそこで船渡御へと変わる。仕事なんかやれる気分ではない。


早やオフィスで缶ビールや缶チューハイなどで軽く出来上がった状態で、夕暮れの中やおら祭見物に繰り込む。


天神橋から船渡御のあかりと打ち上げられる花火のきらめきが川面に映り、それが万華鏡のように変化し、橋の上を浴衣姿の女性たちが川面の明るさに影絵となって行ったりきたりする姿を見るだけでも祭の興趣は極まる。


花火も終わり、商店街のアーケード下を天満駅方面にそぞろ歩きながら、我が社御用達のスナックへと。


お待ちしてましたとばかりにママとチーママがにこやかに渡してくれるお絞りで祭見物の汗と喧騒をぬぐい去る。お絞りの熱さがうれしい。


心得てますよと阿吽の呼吸でカウンターに並べられるのは、ガラスの小鉢に器用に渦を巻かせて盛りつけた一つかみ分の素麺、涼やかなる皿に敷き詰められた氷の細片を敷き布団にしている鱧の湯引き。鱧の白さと梅肉と刻み紫蘇との色合いがまたなんとも涼を呼び込んでくれる。


それらを肴によく冷やされた吟醸酒をあおればもうなにもいらない、と心底思う。


明後日の25日もそうしたいのだが、この暑さは夜とて同じで、うんざりするような熱気に人いきれが加わると余計に体感温度が上がる。


祭の余韻と酒の酔いがおりなす気だるさ、ある種の寂しさを遠く神戸の西端まで運んで帰るのは億劫きわまりなく一考を要してしまうのである。


それはともかくこの季節、呑んべえには鰻と鱧は欠かせない。
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鰻は蒲焼きもいいが、うざくも格別だ。


胡瓜嫌いの私だが、刻んだ胡瓜と鰻を甘酢で和えたものは、こういう出会いものを最初に考えた人に拍手を送りたい。


胡瓜の青臭さ、鰻のそれが旨味であるがクドくもある脂の欠点を酢が見事に調和させて、格好の酒の肴となる。


鱧については先述したので略すが、これらを相手に奮発して買った大吟醸の冷やを飲りながら、エアコン涼しきリビングにて、テレビで中継される天神祭の模様を眺めるのも一興であろう。


鰻と鱧のコンビを誘致するには我が家の財務大臣の認可が必要だが、そこは一家の総理たる私の強いご意向を忖度してくれることにほのかに期待するしかない。


「三次喫煙」の害が注目されている。


喫煙者本人が喫いこむことを一次喫煙、喫煙者の周囲にいる人がその煙を喫わされることを二次のそれ、三次というのは喫煙後の喫煙者の衣服に付着した発ガン性物質が空気中に拡散されて、喫煙者が移動するにつれて誰彼なしにそういった有毒物質を吸入させられていることを言うらしい。image


ハーバード大学医学部にある研究機関がこれを世に問い警鐘を鳴らしている。


まさに喫煙者そのものがガンの媒介、いわば病原菌をそこらじゅうにまき散らしているハエやゴキブリ、ドブネズミと同等いうわけで、ますます喫煙者は肩身が狭い。


私も去年あたりから、それまで長年やめていた喫煙癖を本格的に復活させてしまい、今それをまた葬りたいがためにあれこれ努力しているのだが、この「三次喫煙」のことを最近知り、こりゃいよいよ崖っぷち、ホントに止めなきゃいかんわいと思った次第。


周囲に迷惑云々もあるが、それ以前に煙草たるもの自分の体にとって害になれこそ何の益もない。


一本の煙草を喫うことによってイライラが鎮まり、頭の働きが活発になり、というのはニコチンの麻痺作用が一時的にそうさせているだけで、それが続けば依存状態となる。なんのことはない覚醒剤を吸引もしくは注射しているようなものだ。


そんなことは百も承知だと喫煙者はいう。わかってるんやったら止めんかいな、と私も自分に言い聞かせているのだが、これがなかなかうまいこといかないから困っているのだ。


同じ合法である依存性物質であるアルコール、酒なのだが、酒は適量であればむしろ血行を促進し、山海の恵み珍味酒肴の旨さを引き立ててくれるという功労の部分も大きい。


「酒をとるか煙草をとるか」と二者択一を迫られたら当然前者をとる。


JT煙草の「echo」「わかば」など3級品銘柄でもきょうび1箱300円前後する。


私は2日1箱の喫煙量だが、月にして4500円も煙となさしめ霧散させてしまっている。


霧散は周囲への拡散となり、おまけに衣服についた煙草の匂いや上に書いた有害物質をつけたまま動くから、三次喫煙を考慮に入れると月額4500円年額54000円も出して自ら悪者となっている。世に害なすしかないゴキブリと化している。こんな愚かしいことはない。


と書きながら、また煙草に火を点けてしまった。噫々…。


家内も娘も少女漫画が好きである。コミックスを買ってきて互いに交換しながら、暇さえあればむさぼり読んでいる。


それはいいのだが「俺も見せてくれや」と言っても彼女らはけっして貸してくれないどころか、読んでいる横からちょっと覗き見しただけで「見やんといて!もう!」と二人とも申し合わせたかのように本を閉じるのである。


なんともまあツレないことで。そういえば中学高校の時もクラスの女子が少女漫画誌やコミックスを読んでいる時に「なに読んでるの?」と雑誌や本を取り上げたら「やめて~返して!返せ!」と髪を逆立てんばかりに本気になって怒っていたなあ。


我が家の女連もそうだが、そんなに怒ることでもないと思うのだが、あの心理はまるで理解できない。


女連は勝手なもので私がこよなく愛する「ゴルゴ13」やら「こち亀」やら「野球狂の詩」(みんな古くてすまん。ちなみに里中満智子という偉大な少女漫画家の名前と作風は「野球狂の詩」で水島新司とコラボした時初めて知った)といったガチな野郎漫画を見ていると「ゴルゴっておもしろいのん。見せて」と来る。


私の「ええで」の答えも聞かないうちに、私が次に読むために机に積んでいたコミックスのうちから適当に持って行く。


そんなことをされても怒る気はないし、むしろ「おう、読め読め」と薦めたくなるのだが。


私は少女漫画の世界が嫌いではない。むしろ好きな方である。かといってさすがに単行本を揃


えるまでには至らないが。


斜めカットを多用した大胆なコマ割り、スクリーントーンはたいていパステルっぽさをなんとかモノクロで表現させたかのような、そうだな、春霞にその姿茫漠とした花畑模様みたいなやつが、って書いている私自身何がいいたいのかよくわからんが、要するにそういうのが使用される。


その中を主人公の女の子が両手のこぶしを口に当てて「・・・えっ!今のって。うそ、やだ!」とかなんとかつぶやく。(この箇所を書くためにいったん私はキーボードから手を離し、今書いたようなこぶしを作って口に当てて「うそ、やだ!」と口にしてみてイメージを喚起させた)


1頁2コマしか使わず、女の子は右上のコマ、左下にロンゲで体格やたら細く脚はすらっと長い、つまりは女の子が憧れる最大公約数的なイケメンのニイチャンの横顔のカット。垂れた髪で顔半分隠れている。口元はニヒルに歪んでいる。


で、次の頁で向かって右のコマでイケメンニイチャンは正面を向いている。


「だって、俺さ、なんつーかな、おまえのことをさ」


と言いつつ、その次コマでいったん髪をかきむしっている。そして次に女の子の頭の上の壁をドーンと突くわけです。「好きになったんだよな!」と決めのセリフとともに。


そして女の子の瞳がアップで描かれ、そうです瞳の中で星がきらめいているのです。少女漫画の肝です。


女の子の「んなこと急にいわれたって困るよ・・」ってセリフをものすごく小さなフキダシで言わせるか、フキダシなしで小さな手書きの字で書いてある。


少女漫画のこういうステロだが直球ど真ん中なパターンが好きで、少ないコマ数で女性の微妙な心理の綾を描くのは、こればかりは男性漫画家が束になってかかっても無理というものではないだろうか。


小説でいう行間を読みとれということに似たものがある。


そのテクニックに触れてみたいと、最近のコンビニは立ち読みさせてくれる店が減っているので、ブックオフあたりに出張って立ち読んでくるのである。


ところが気に入った少女漫画を手にしてもレジにそれを持って行く勇気がないのである。これがエロ本なら平気なのだが。


なぜに女性は男に少女漫画を見られることを極端に忌避するのか私なりに考えた結果は、登場人物の女性たちは自分たちの等身大のうつし身であり、それがため先述した微妙な心理の投影を男にさらけ出されてしまうからではないか。自分の裸を見られるよりもっとタイトなことであるからではないか。


このことに絡めて私が少女漫画をレジに持って行くのをためらわせるものは、男がけっして踏み込んではいけない女の心の襞の部分を冒そうとしていることへの自制が働いているのかもしれない。


ちなみに日本のフォークロックバンドであるチューリップに「ぼくがつくった愛のうた」という傑作があるが、あれを初めて聞いた時、ほとんど少女漫画の世界ではないか、揶揄的にではなく好意的にそう思った。


ラブリー、エミリー、ララララ~で始まる曲だが、ここまでラブリーでチャーミングなラブソングは他に知らない。「りぼん」や「マーガレット」の世界がここにある。





前回の「ひきこもり」の記事に関係ないとは言い切れないことを書いてみる。


人は安易に他人を励ますな、人は他人にそう簡単に自分の弱気(弱さではない、それについては後述)を悟られるな、ということ。


苦労や苦悩を自分以外の者に訴えたところで、他人には責任がないから好き勝手なことを言いたがるもので、その中でも「頑張れ」は一番便利な言葉で世の中には「頑張れ」があふれかえっている。


天災や事件、重篤な病気、身近な人の死などのアクシデントに巻き込まれ途方にくれている人に「頑張れ」と言うことで自分の一抹の良心のアリバイ作り、自分はいい人でいたがる人にとってはこんなに安直で便利な言葉はない。


だからこそ「いったい何を頑張るんだ?」と虚ろな目で問い返されたら答えにつまる。


御気楽に投げ与えた言葉が安っぽいものだから、早くもそれが上滑りしているのだ。


だから私は「頑張れ」の安売りはしないし、「頑張れよ」に安直にすがりつきたくない。


挨拶代わりの、たとえば「今度、俺市民マラソンに出るんだわ」といった楽しいシチュエーションに対する「まあ、頑張れや(頑張ってくれ)」は交わしあう。それまで否定すれば社会生活が成り立たないからね(笑)。


畢竟人間は強くなければならない。強さは正義である。


喧嘩の腕っぷしの強さ自慢はただのバカであるのは言うまでもない、「つよい」は「頸い」と書くがふさわしい。精神の「頸さ」である。


頸草の人となれ。自身に対する冷酷の刃をやわらかい心の布で包み隠しもち挫けそうになった時、それであえて心に傷をつけて鍛える。


「優しさ」や「癒し」に助けを求めるな。求めたがるな、それはただの怯懦の人だ。そうなれば人間おしまいである。ゴミといっしょに世界から放り出されてしまう。


負けを認めるな。自分が悪い、間違っていたとひそかに思っていても絶対に口に出すな。


素直に謝るのは美徳でもなんでもない。謝った時点で白旗を上げた敗残の兵に過ぎない。


「素直に謝れるなんてなんて器量の大きい人なんだ」とそれほど言われたいのか。


器量度量の大きい人のイメージが出来てしまえば後が大変だ。


生来の性格がよほど豪放磊落に出来て自然体で人を大きく包み込める者でいない限り、人間の器の大きさを気にして生きていくのはしんどいことだと思い知れ。


グズグスと往生際悪く卑怯千万未練たらしくふるまい「こいつ、なんとまあちっちゃいやっちゃな、やること汚いのう。クズだわ」と謗られて「はい、そうですよ、わたいの性分でんのや、すんまへんあ」とヘラヘラ笑っていられる奴こそ、私から見ればよほど懐深い人間だと思う。こいつ出来る奴だと思う。むしろこういう奴の方が怖いのだ。


つまらないプライドにこだわるな。男なら後で後悔するような男気などいい格好して出すな、そんなことくらいなら最初から逃げておく方が、人に過剰な期待を抱かさないだけでも気が利いている。


時には死に体のふりをして、あるいはあえて露悪的に弱さを見せるという擬態の下に鋼の鎧で覆った心を持ちしぶとくヌケヌケと厚かましく抜け目なく世渡りする。頸く生きていくことはこういうことだ。


ああ、今日も朝から暑い暑い、記事まで暑苦しく脂っこいものになってしまった。


同僚の息子さんが「ひきこもり」で困っているらしい。また知人のお子さんもよく似たケースにいる。「ひきこもり」について書く。


「ひきこもり」の高齢化が何かと問題になっているが、誰にも迷惑かけずに親も承知で引きこもらせて、それで生活が成り立っているのなら放っておけばいいのに、余計なお節介や不要な親切をかけたがる国民性なのか、なんとか「ひきこもり」状態から脱出させて社会と接点を持たせたいと、お役所までが旗を振って様々な試みにアプローチしている。税金の無駄遣いとはこのことだ。この国は官民一体となって「ひきこもる」自由と権利を剥奪しようとしているのか。


人の数だけ生き方がある。


無職のまま仕事もせず日がな部屋でパソコンだけを江戸時代の長崎の出島よろしく世間との接点として暮らす。


それのどこが悪いのか。私はいまだによくわからん。まるで「ひきこもり」を犯罪者のように扱う風潮。


学校出たら働いて自分の食い口は自分で稼ぎ、多くの人と接して、やがて結婚して一家をなし子供を育て、という生き方もひとつの生き方に過ぎず、これが人生の本道だと決めてかかる方がどうかしていると思うのだが。


たいていの人は「引きこもっているうちに50や60になる。その時は親もいなくなるだろうから後はどうするつもりだ」と詰る。


「そんなに気になるならあんたがたが面倒みてやれや」と言えば「それとこれと話が別だ。人生のあり方としてそれはちょっといけないんじゃない?」と口を尖らす。


人様の「人生のあり方」などに他人があれこれ口出すことではない。


私なんか働かないと食っていけないから働いているだけであって、親にたっぷり金があって「小遣いくれ」と言えば「はいはいあげます。いくらでも遣いなさい」なんて言われたら、そりゃもう喜んで自分の好きな物の買物以外は家の外に出ず、いや待て各種ショッピングサイトも拡充している今のご時世、買物目的で外出する必要もないしな、日がなパソコンだけをコミュニケーションツールとしてのそのそ暮らしていたいですよ、いやまったく。


仮想現実のみの中で生活を完結させていたいですよ。


今こうしてテキストのやりとりをしている相手が生身の人間であろうとロボットであろうとAIであろうとなんだって構わないんですよ。


酒が好きなので、ちょっと酒の相手が欲しければネットの向こうに同じような思いの仮想人物(あるいはロボット)が相手してくれて、Webカメラとマイクを装着すればSMで使うラメ入りアイマスクかなんかで素顔を隠したままだが、互いにともかくも顔を見ながら「や。今夜は暑いですね。やっぱりビールが最高ですな」とかなんとかしゃべりながら、そのうちどちらかともなく飽きてきたら「落ちます」で切ればいい。後腐れなし。また別の相手を探すのもよし。そのまま独り酒を楽しむのよし。


こういう「ひきこもり」生活に恋い焦がれる。生まれ変わったら(生まれ変わりなど爪の先ほども信じちゃいないけど)、古い話だが鳩山由紀夫になりたい、黙って毎年9億円もくれる母ちゃんのお腹から生まれたい。


それじゃ人間ダメになるよ、と言われるが、その「ダメ」はあくまで社会的動物としての自分を規定する中での「ダメ」であって、ずっと部屋の中にいる人間に対してダメになるもなにもないだろうが。


誰ともつき合いがないから、変なシガラミとは無縁だし、結婚といういわば「赤の他人の人生を背負い込む」というギャンブルの必要もない。


人間関係に疲れるというのはどこの世界の出来事なのか、もともと誰とも関係していないのだからそんな症状が出るわけがない。


とまあ、ここまで書いているうちになんだか心が寒々としてきた。「ひきこもり」に憧れる理由を書いているのに、書いているうちにだんだん落ち込んできた。


おお、とうとう「やっぱり俺には出来んわ。ひきこもりは」と思いさえしてきた。


「ひきこもり」になれんわ。どう考えても。やっぱりリアルで生身の人間とふれあっていたいわ。


「ひきこもり」に徹することが出来るのはひとつの才能かもしれない。そしてああ見えて結構リキ入れて「ひきこも」っているのかもしれない。


なんてチャラけたことを書いているが、今だからこうして書けるのであって、娘も2年近くそうであった。


詳らかに書かないが、彼女は好きで引きこもっていたわけでないのだ。しかし「引きこもってばかりいるな!」は絶対禁句で好きなようにさせておいた。


このやり方が正解とはけっして書かない。放置した結果がたまたまいい方に進んだだけのこと。


「ひきこもり」生活にほとほと愛想が尽きたり飽きたりしたら出て来い、だけ言っておいてはいた。


自分の娘ですら心の奥底のメカニズムはわからないものだ。


だからこそ記事冒頭に戻るがそういう生き方もあっていいじゃないか、放っておいてやれよ、という持論(てなものでもないが)は確固としてある。





7月半ばにしてこの暑さ。ここ数年猛暑日続きが前倒し状態になってしまっている。


世界的に異常気象が常態化しているらしく、確実に地球全体がなんらの変動期に入っていると、専門家たちが警告を発している。


私の部屋は角部屋になっていて、朝は東、昼は南の窓は容赦のない日射を浴び、冬は恩恵となっていた良すぎる日当たりが夏には怨嗟の的となる。


カーテンを閉めても住宅全体が、強烈な夏の太陽光線になぶり続けられているので、壁から暑さがじわじわと滲みいるかのようで、エアコンを強にしても少しはましかという程度。


マシン本体の熱放出のためよけいに部屋の温度があがりそうなのでパソコンの電源も入れず、スマホでネットにアクセスしチェックすべきサイトはチェックし、それに倦んだら本を読んでいた。


先日来から開いているのは、新潮文庫の「Story Seller」シリーズという、どちらかと言えば若い世代向けの作家の短編を編んだものである。


去年だか垂水の古本屋で3冊100円で買ってきて積ん読状態になっていたものを、先週たまたま手に取って開いてみたのだった。


伊坂幸太郎、近藤史恵、有川浩、米澤穂信、佐藤友哉、道尾秀介、本田孝好といった執筆陣だが、いずれもライトノベル出身、講談社のメフィスト賞受賞作家、角川スニーカー文庫でデビュー、などといった経歴を書けばその傾向がわかる。


実は私はラノベやラノベ作家を軽くみていたきらいがあって、あんなもの若者が読むもの、コミック感覚の文字通り軽い読み物、まともな文学にあらず、大人の鑑賞に耐えうるエンタメの域にあらず、と見下していたのだが、なかなかどうして結構眼光紙背のひとときを楽しませてくれた。


有川浩「ストーリー・セラー」。文庫本のタイトルと同じだが内容は全く関係ない。もうすぐ60歳の爺さんビギナーの私に、さすがに号泣とまではいかないものの鼻の奥と両目の間をツンとさせてくれた、若い夫婦のラヴストーリー。


これは好評だったらしく、この短編の結末のその後のエピソードをくわえ長編化されたという。


有川は既読の作家で「レインツリーの国」を読んだ際、「お。読ませるではないか」と期待して次に選んだのが「阪急電車」。これが「なに?これ」と落胆させる出来でそのまま縁遠くなっていたが、こたびの短編に再び食指が動いている。


読まず嫌いで避けていた、該作家の世評高い「図書館シリーズ」や「三匹のおっさん」シリーズ。読んでみたくなってきた。


佐藤友哉「333のテッペン」。東京タワーのほぼてっぺんに近い場所での殺人。いわばほぼ空中の密室殺人といっていい不可能犯罪ものだが、この結末はちょっとひどいなあと推理小説の視点からみればまるでペケだが、主人公の内面の描き方が素晴らしく、後で解説をみたらジャンルの概念を無意味にする縦横無尽な独自な作風で知られ熱狂的なファンがいるらしい。純文学方面の賞も受賞している。この作家にはまた会いそうな気がする。


例としてこの二人の作家を採り上げたが、今の若い小説好きがどんなものを読みたがっているのか俯瞰できる短編集であり、文庫全体の宣伝文に新しい作家との出会いの場としてもどうぞとあったが、まさにそれに好適な作品集といえよう。


ラノベに対するアレルギーがほぼ霧散した。その分野の作家渉猟の旅が始まる。


こうして未知の作家と出会い、読書のフィールドが広がっていくのは本好きにはたまらない。気に入りの作家が増えれば増えるほど書店や図書館通いがいっそう楽しくなる。


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