2017年07月

なんであの時、牛丼なんか食べたのか、2日経った今でも慚愧に耐えない。
一昨日のことである。散歩に出た某所にある某量販型古本店の店先の100円均一の棚を眺めていたら、1973年刊行の新潮社「安部公房全作品集全15巻」のうち7~12巻6冊があったのを見つけた。
「おおっ」と手に取り入念に子細を調べる。40年近く前に刊行された本である。
各々さすがに経年焼けは致し方はないにしても、箱入り月報付きでさほどの汚れもなく、開きや折り癖、書き込みなど一切なし。函もほとんど傷みもなく完本に近い状態。
全巻揃いではなくいわゆる全集物の端本の集合ではあるが、これはやりようによってはAmazonやヤフオクに出品すればかなりの高値で売れるのではないか。
これだから量販店古本屋の店舗外陳列商品眺めは止められまへんわ、うひひひひひひとほくそ笑む。
しかし、この暑い中歩いて腹も減り喉も乾きに乾いている。
とりあえず虫養い、水分補給、汗乾かししようと、その店の近所にある牛丼屋に牛丼とビールを相手に、じっくりこの掘り出し物の販売戦略を考えようと入ったのが間違いの元だったのだ。
牛丼屋にいたのは30分足らず。腹はふくれビールと冷房で汗もひき、値付けと売り出しのタイミングプランもばっちり立て「さて、では」と上機嫌で、再び古本屋におもむく。
さっきの棚を見やる。ないのである。安部公房が1冊残らず消えているのである。安倍公房どこ行ったのだ!
さては店員が棚の整理のために他に移動させたかと思ったが、安倍公房の6冊の本の前後左右の本は30分前と寸分違わない。つまりは30分の間にどこぞの誰ぞがお買い上げになられやがったのである。
自分のことはすっかり棚に上げて「んまにもう。これやから油断も隙もないねん。どうせオークションサイトか密林で売りさばきよるんや。100円で仕入れてその数十倍もの値段で転売する悪徳商人奴が、さもしいやっちゃ、と憤慨のあまり、ひいたばかりの汗がまた噴き出してきた。
「掘り出し物において『次』と『幽霊』は出ない」という鉄則がある。
これはと思った商品を見かけたら躊躇せず買う、あるいは店の人間に頼み込んで1000円でもいい手付金、前約金を払い、他人に売るのを抑えてもらうのが鉄板の法則である。
「後で買う、次に買うは掘り出し物という名の気まぐれな幽霊には通用しない」ということ。
それをけっして忘れたわけではないが、酷暑と食欲が私に気の緩みを生じせしめたのだ。
たかが「牛丼とビールの組み合わせ」の魅力に負けてしまったがゆえに。
ほんまに口卑しい自分が情けなくなる。同時になんで古本屋の近くで牛丼屋なんか開いたんや、○○家のくそったれが、と見当違いの八つ当たりもしたくなる。
悔やんでも悔やみきれない。一昨日と昨日はAmazonやヤフオクはじめオークションサイトを見る勇気がわかなかった。
私が買い損ねた本を誰かが出品して、それが高値で売られたり落札されたりと知れば、悔悟、懺悔、嫉妬、怨嫉、憤怒、悲嘆、愁嘆、ありとあらゆるマイナス感情に襲われ、懊悩する羽目に堕ちてしまうのが怖いからである。
今朝、ようやくおずおずとそれらのサイトをスマホでのぞいてみると、安倍公房の件の本、全15巻揃いのものは別として端本には高値もついていず、入札価格も持ってけ泥棒価格からスタートしている。
まずは胸をなで下ろしたのだが、これがもし私が見立てた価格かそれ以上の値付けになっていれば歯ぎしりのために口腔内の歯は全部なくなり、血圧があがりすぎて口からおろか耳、鼻、陰茎、肛門、毛穴、体のありとあらゆる場所から血が間欠泉の湯のように噴き出し、あえなく悶死していたであろう。
しかし今後の予断と油断はゆめゆめ許されない。世の中には「こんなものでもいいの」みたいな物を高額で買ったり落札する物好き好事家がいる。
本の全集物、雑誌のバックナンバーなどを蒐集している人の中には一冊でも欠本があると必ず埋めないと気がすまない、死んでも死にきれないという人が結構いる。
いやそういう人の方が圧倒的に多い。この手のコレクションは全部揃えてこそ初めてコレクションと呼べるのだ。その情熱たるやすごいものがある。
自分が「こんなもの」と勝手に決めつけるのは禁物。人によってはそれが「これ、これが欲しかったんだ」という物が必ずある。
たとえ端本の集合であっても欲しければ金に糸目をつけず買いたい人が出てくるものだ。
それを考えるとまたまた「牛丼とビールで失われた30分」に対する口惜しさがむらむらとこみ上げてくる。
なんであの時、牛丼なんか食べたんや、ビールなんか飲んだんや、そんなもん後回しでもよかったやないか、なんでなんでなんでやね~ん、と頭をかきむしりながら悔し涙がボロボロとまではいかないけど、ああもったいなことをした。商機を逃してしまった。
当分牛丼屋に行かんぞ。

夜半から払暁にかけて久しぶりにまとまった雨が降った。さすがに気温が下がったものの、湿気がひどく蒸し暑い一日となった。
安倍晋三内閣が瓦解し始めている。頭が頭ならそれに寄り添う「お友達」大臣も劣悪。お友達に足を引っ張られ、また「マブダチ」の加計某のために便宜はかりの口利きの結句、自分で自分の首を締めて5年にわたる我儘強権身勝手したい放題の政治運営に幕を下ろす時を迎えた。
自民党議員から反旗を翻す動きも出ている。沈みだす船のキャプテンと一緒に溺れ死ぬ気なんてないと言わんばかりに手のひらを返し始めた。
日和見風見鶏で鵺の公明党も都議選あたりから顔は安倍と自民に向けたまま少しずつ後じさっている。
政治家の本性がこういう時に現れる。所詮自分の議席可愛さ。連中の頭にはそれしかない。
自民党の支持率も下落の一途だが、かといって野党の支持率があがったわけではない。
日頃政治家に無関心な層、いわゆる無党派層がノーをつきつけている。声なき声の静かな怒りがそこにある。
安倍の祖父の岸信介が総理の頃、日米安保条約延長に反対する抗議のデモが連日国会議事堂を騒然とさせていた時、マスコミのインタビューに「安保反対安保反対と騒いでいるのは国民のごく一部。現に今、後楽園球場でナイターやっているでしょ。超満員のお客がいる。声なき声は別に反対と言っているわけでない」旨言い放った。
孫がその「声なき声」に葬り去られようとしているのは皮肉である。大方の国民はあんたたちから見たらバカだけど、あんまりナメたことをやっていると痛い目に遭う。ボンクラの孫も少しは骨身に沁みて…ないわなあ。
我が家の財務大臣が見場は多少悪いが鱧を買ってきてくれた。「鰻も鱧も」はかなわなかったが、私にとってこれで充分。ham,o
正月に雑煮を食べなければなんとなく落ち着かないのと同じで、夏に一度は鰻か鱧を食べておかないと年経るの気分がわかない。
テレビで天神祭の中継を見ながら、鱧とたこ酢を友にケミカル焼酎をちびちびやる。昼間、大阪の実家に父を、某所の介護付き老人ホームに母を訪った疲れに酔いが快く廻ってくる。
今回の中継はヘリからの大阪の夜景撮りがよかった。こうして俯瞰的にわが生まれ育ちの街を見ていると、大阪にいた頃、大阪で働いていた頃のあれこれを思い出す。昼間にこの街の片隅で過ごしただけに里心のひとつも起きてくる。
osakayakeiやっぱ好きやねん、自然にやしきたかじんの代名詞的な曲のタイトルが口をついて出てくる。たかじん自身は京都の生まれらしいが、やしきたかじんそのものが大阪を具現している。
JR環状線大阪駅の発車メロにも使われ、神戸線からの電車が到着する京都線のホームから環状線のホームに移動して、電子音にアレンジされたこれを聞くと大阪に帰ってきたんやと実感がわく。
東西線経由なら放出駅にダイレクトに、かつ時間を短縮させて行けるが、わざわざ神戸線と環状線に乗り継ぐのはこれが聞きたいがためである。

今日も暑かった。午前中の曇り空は湿度の高さの尾を引いて巧妙に午後からの晴天に紛れ込んでいたのか、ねっとりとした熱気が余計に応える。
予報によると今月いっぱいこの猛暑、いや狂暑が続くという。
大食らい、ご飯派の私でもさすがに朝はサンドイッチや菓子パンにリンゴジュース、夕方は素麺を中心とした冷やし麺しか、このところ食が進まない。image
国会議員上西小百合の対浦和レッズおよびサポーターとの一連のトラブル。
特に「他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ」との彼女のツイート、あれだけは正鵠を射ているじゃないか。よく言ってくれたと喝采したい。
image他人の人生に乗っかるような生き方しか出来ないから、彼女の計算ずくの挑発にまんまと乗せられるのだ。ちぃとは頭を冷やせよ。
人に惚れたり人を愛したりすることは人生においてとても大切なことだが、20パーセントは惚れたはれたでのぼせ上がった自分を冷ややかに見つめる部分は残しておけよ、といいたい。
自分の人生の主役は我一人だ。他人が廻す舞台で猿廻しの猿のようにテンツクテンツク踊ってどうすんのよ。
もっともそこまで忘我の境地で熱狂できる対象があって羨ましいちゃあ羨ましいが。
俺はあかんわね、すこしでもオーバーヒートしだしたら、もう一人の俺が「あ~あ調子こいてバカやって」と水をかけてくれるから。
裏返せば自己中というのか自意識過剰というのか、だからこそ「自分の人生の主役は俺一人だけ」と言い切る自信があるわけで。
「人生の時間は限られている。他人の人生を生きることで時間を無駄にしてはいけない」。
これはスティーヴ・ジョブズが生前、スタンフォード大学の卒業式に招待された時に記念スピーチで語ったことだが、上西小百合と言っていることはほぼ同じこと。
ジョブズのは名言だと称えられ、上西のは炎上狙い(実際そのとおりなんだが)と叩かれてえらい違い。
言葉の送り手は死後もIT革命の象徴的存在で受け取る側がアメリカの名門大学生、片や…送り手があれで受け取る方も…、ま、知性の違いでしょうか。

猛暑が続く。先日日本各地の梅雨明けが揃ったのだが、いつ梅雨があったというのだ。晩春から一気に真夏へワープさせられた感ありの今夏である。
7月月初から猛暑日の連続。去年もそうだったが、8月半ば頃より台風が発生し、9月初めには初秋らしい空気の冷たさを感じた。
猛暑といえばいまだ2010年夏の記憶が強烈である。あの年は9月終わり近くになっても、あまりの太平洋高気圧の強さに台風がなかなか発生せず、今年同様7月から酷暑に見舞われ、その状態が2ヶ月も続いた。
今夏だが、一昨日より太平洋に複数の台風が発生、これはもしかして去年同様8月に入ってまもなく狂の字をつけてもいい暑さも一段落するのではと期待している。
明後日25日次の26日と仕事は休み。そして25日の大阪といえば「天神さん」、天神祭である。
休みの日と天神祭が重なるのは初めてである。大阪の放出の実家へ行った後、東西線での帰途に大阪天満宮駅がある。
と、ここまで書いただけで、かの日の宵闇以降の人群れと南北を貫く天満の商店街の軒先を借りた夜店出しのにぎわいが目に浮かんでくる。
前に勤めていた会社が天満宮を氏神とするエリアにあり、25日はあの辺の会社のほとんどが午後から開店休業状態。
午後3時に陸渡御が始まる。神輿渡御の行列が天満宮を出発、天神橋筋を西へ渡る。そこから老松通り。通りを牛車を伴い天満警察署前の大川の浜まで練り歩く。神事はそこで船渡御へと変わる。仕事なんかやれる気分ではない。
早やオフィスで缶ビールや缶チューハイなどで軽く出来上がった状態で、夕暮れの中やおら祭見物に繰り込む。
天神橋から船渡御のあかりと打ち上げられる花火のきらめきが川面に映り、それが万華鏡のように変化し、橋の上を浴衣姿の女性たちが川面の明るさに影絵となって行ったりきたりする姿を見るだけでも祭の興趣は極まる。
花火も終わり、商店街のアーケード下を天満駅方面にそぞろ歩きながら、我が社御用達のスナックへと。
お待ちしてましたとばかりにママとチーママがにこやかに渡してくれるお絞りで祭見物の汗と喧騒をぬぐい去る。お絞りの熱さがうれしい。
心得てますよと阿吽の呼吸でカウンターに並べられるのは、ガラスの小鉢に器用に渦を巻かせて盛りつけた一つかみ分の素麺、涼やかなる皿に敷き詰められた氷の細片を敷き布団にしている鱧の湯引き。鱧の白さと梅肉と刻み紫蘇との色合いがまたなんとも涼を呼び込んでくれる。
それらを肴によく冷やされた吟醸酒をあおればもうなにもいらない、と心底思う。
明後日の25日もそうしたいのだが、この暑さは夜とて同じで、うんざりするような熱気に人いきれが加わると余計に体感温度が上がる。
祭の余韻と酒の酔いがおりなす気だるさ、ある種の寂しさを遠く神戸の西端まで運んで帰るのは億劫きわまりなく一考を要してしまうのである。
それはともかくこの季節、呑んべえには鰻と鱧は欠かせない。DSCN0413
鰻は蒲焼きもいいが、うざくも格別だ。
胡瓜嫌いの私だが、刻んだ胡瓜と鰻を甘酢で和えたものは、こういう出会いものを最初に考えた人に拍手を送りたい。
胡瓜の青臭さ、鰻のそれが旨味であるがクドくもある脂の欠点を酢が見事に調和させて、格好の酒の肴となる。
鱧については先述したので略すが、これらを相手に奮発して買った大吟醸の冷やを飲りながら、エアコン涼しきリビングにて、テレビで中継される天神祭の模様を眺めるのも一興であろう。
鰻と鱧のコンビを誘致するには我が家の財務大臣の認可が必要だが、そこは一家の総理たる私の強いご意向を忖度してくれることにほのかに期待するしかない。

「三次喫煙」の害が注目されている。
喫煙者本人が喫いこむことを一次喫煙、喫煙者の周囲にいる人がその煙を喫わされることを二次のそれ、三次というのは喫煙後の喫煙者の衣服に付着した発ガン性物質が空気中に拡散されて、喫煙者が移動するにつれて誰彼なしにそういった有毒物質を吸入させられていることを言うらしい。image
ハーバード大学医学部にある研究機関がこれを世に問い警鐘を鳴らしている。
まさに喫煙者そのものがガンの媒介、いわば病原菌をそこらじゅうにまき散らしているハエやゴキブリ、ドブネズミと同等いうわけで、ますます喫煙者は肩身が狭い。
私も去年あたりから、それまで長年やめていた喫煙癖を本格的に復活させてしまい、今それをまた葬りたいがためにあれこれ努力しているのだが、この「三次喫煙」のことを最近知り、こりゃいよいよ崖っぷち、ホントに止めなきゃいかんわいと思った次第。
周囲に迷惑云々もあるが、それ以前に煙草たるもの自分の体にとって害になれこそ何の益もない。
一本の煙草を喫うことによってイライラが鎮まり、頭の働きが活発になり、というのはニコチンの麻痺作用が一時的にそうさせているだけで、それが続けば依存状態となる。なんのことはない覚醒剤を吸引もしくは注射しているようなものだ。
そんなことは百も承知だと喫煙者はいう。わかってるんやったら止めんかいな、と私も自分に言い聞かせているのだが、これがなかなかうまいこといかないから困っているのだ。
同じ合法である依存性物質であるアルコール、酒なのだが、酒は適量であればむしろ血行を促進し、山海の恵み珍味酒肴の旨さを引き立ててくれるという功労の部分も大きい。
「酒をとるか煙草をとるか」と二者択一を迫られたら当然前者をとる。
JT煙草の「echo」「わかば」など3級品銘柄でもきょうび1箱300円前後する。
私は2日1箱の喫煙量だが、月にして4500円も煙となさしめ霧散させてしまっている。
霧散は周囲への拡散となり、おまけに衣服についた煙草の匂いや上に書いた有害物質をつけたまま動くから、三次喫煙を考慮に入れると月額4500円年額54000円も出して自ら悪者となっている。世に害なすしかないゴキブリと化している。こんな愚かしいことはない。
と書きながら、また煙草に火を点けてしまった。噫々…。

家内も娘も少女漫画が好きである。コミックスを買ってきて互いに交換しながら、暇さえあればむさぼり読んでいる。
それはいいのだが「俺も見せてくれや」と言っても彼女らはけっして貸してくれないどころか、読んでいる横からちょっと覗き見しただけで「見やんといて!もう!」と二人とも申し合わせたかのように本を閉じるのである。
なんともまあツレないことで。そういえば中学高校の時もクラスの女子が少女漫画誌やコミックスを読んでいる時に「なに読んでるの?」と雑誌や本を取り上げたら「やめて~返して!返せ!」と髪を逆立てんばかりに本気になって怒っていたなあ。
我が家の女連もそうだが、そんなに怒ることでもないと思うのだが、あの心理はまるで理解できない。
女連は勝手なもので私がこよなく愛する「ゴルゴ13」やら「こち亀」やら「野球狂の詩」(みんな古くてすまん。ちなみに里中満智子という偉大な少女漫画家の名前と作風は「野球狂の詩」で水島新司とコラボした時初めて知った)といったガチな野郎漫画を見ていると「ゴルゴっておもしろいのん。見せて」と来る。
私の「ええで」の答えも聞かないうちに、私が次に読むために机に積んでいたコミックスのうちから適当に持って行く。
そんなことをされても怒る気はないし、むしろ「おう、読め読め」と薦めたくなるのだが。
私は少女漫画の世界が嫌いではない。むしろ好きな方である。かといってさすがに単行本を揃
えるまでには至らないが。
斜めカットを多用した大胆なコマ割り、スクリーントーンはたいていパステルっぽさをなんとかモノクロで表現させたかのような、そうだな、春霞にその姿茫漠とした花畑模様みたいなやつが、って書いている私自身何がいいたいのかよくわからんが、要するにそういうのが使用される。
その中を主人公の女の子が両手のこぶしを口に当てて「・・・えっ!今のって。うそ、やだ!」とかなんとかつぶやく。(この箇所を書くためにいったん私はキーボードから手を離し、今書いたようなこぶしを作って口に当てて「うそ、やだ!」と口にしてみてイメージを喚起させた)
1頁2コマしか使わず、女の子は右上のコマ、左下にロンゲで体格やたら細く脚はすらっと長い、つまりは女の子が憧れる最大公約数的なイケメンのニイチャンの横顔のカット。垂れた髪で顔半分隠れている。口元はニヒルに歪んでいる。
で、次の頁で向かって右のコマでイケメンニイチャンは正面を向いている。
「だって、俺さ、なんつーかな、おまえのことをさ」
と言いつつ、その次コマでいったん髪をかきむしっている。そして次に女の子の頭の上の壁をドーンと突くわけです。「好きになったんだよな!」と決めのセリフとともに。
そして女の子の瞳がアップで描かれ、そうです瞳の中で星がきらめいているのです。少女漫画の肝です。
女の子の「んなこと急にいわれたって困るよ・・」ってセリフをものすごく小さなフキダシで言わせるか、フキダシなしで小さな手書きの字で書いてある。
少女漫画のこういうステロだが直球ど真ん中なパターンが好きで、少ないコマ数で女性の微妙な心理の綾を描くのは、こればかりは男性漫画家が束になってかかっても無理というものではないだろうか。
小説でいう行間を読みとれということに似たものがある。
そのテクニックに触れてみたいと、最近のコンビニは立ち読みさせてくれる店が減っているので、ブックオフあたりに出張って立ち読んでくるのである。
ところが気に入った少女漫画を手にしてもレジにそれを持って行く勇気がないのである。これがエロ本なら平気なのだが。
なぜに女性は男に少女漫画を見られることを極端に忌避するのか私なりに考えた結果は、登場人物の女性たちは自分たちの等身大のうつし身であり、それがため先述した微妙な心理の投影を男にさらけ出されてしまうからではないか。自分の裸を見られるよりもっとタイトなことであるからではないか。
このことに絡めて私が少女漫画をレジに持って行くのをためらわせるものは、男がけっして踏み込んではいけない女の心の襞の部分を冒そうとしていることへの自制が働いているのかもしれない。
ちなみに日本のフォークロックバンドであるチューリップに「ぼくがつくった愛のうた」という傑作があるが、あれを初めて聞いた時、ほとんど少女漫画の世界ではないか、揶揄的にではなく好意的にそう思った。
ラブリー、エミリー、ララララ~で始まる曲だが、ここまでラブリーでチャーミングなラブソングは他に知らない。「りぼん」や「マーガレット」の世界がここにある。

前回の「ひきこもり」の記事に関係ないとは言い切れないことを書いてみる。
人は安易に他人を励ますな、人は他人にそう簡単に自分の弱気(弱さではない、それについては後述)を悟られるな、ということ。
苦労や苦悩を自分以外の者に訴えたところで、他人には責任がないから好き勝手なことを言いたがるもので、その中でも「頑張れ」は一番便利な言葉で世の中には「頑張れ」があふれかえっている。
天災や事件、重篤な病気、身近な人の死などのアクシデントに巻き込まれ途方にくれている人に「頑張れ」と言うことで自分の一抹の良心のアリバイ作り、自分はいい人でいたがる人にとってはこんなに安直で便利な言葉はない。
だからこそ「いったい何を頑張るんだ?」と虚ろな目で問い返されたら答えにつまる。
御気楽に投げ与えた言葉が安っぽいものだから、早くもそれが上滑りしているのだ。
だから私は「頑張れ」の安売りはしないし、「頑張れよ」に安直にすがりつきたくない。
挨拶代わりの、たとえば「今度、俺市民マラソンに出るんだわ」といった楽しいシチュエーションに対する「まあ、頑張れや(頑張ってくれ)」は交わしあう。それまで否定すれば社会生活が成り立たないからね(笑)。
畢竟人間は強くなければならない。強さは正義である。
喧嘩の腕っぷしの強さ自慢はただのバカであるのは言うまでもない、「つよい」は「頸い」と書くがふさわしい。精神の「頸さ」である。
頸草の人となれ。自身に対する冷酷の刃をやわらかい心の布で包み隠しもち挫けそうになった時、それであえて心に傷をつけて鍛える。
「優しさ」や「癒し」に助けを求めるな。求めたがるな、それはただの怯懦の人だ。そうなれば人間おしまいである。ゴミといっしょに世界から放り出されてしまう。
負けを認めるな。自分が悪い、間違っていたとひそかに思っていても絶対に口に出すな。
素直に謝るのは美徳でもなんでもない。謝った時点で白旗を上げた敗残の兵に過ぎない。
「素直に謝れるなんてなんて器量の大きい人なんだ」とそれほど言われたいのか。
器量度量の大きい人のイメージが出来てしまえば後が大変だ。
生来の性格がよほど豪放磊落に出来て自然体で人を大きく包み込める者でいない限り、人間の器の大きさを気にして生きていくのはしんどいことだと思い知れ。
グズグスと往生際悪く卑怯千万未練たらしくふるまい「こいつ、なんとまあちっちゃいやっちゃな、やること汚いのう。クズだわ」と謗られて「はい、そうですよ、わたいの性分でんのや、すんまへんあ」とヘラヘラ笑っていられる奴こそ、私から見ればよほど懐深い人間だと思う。こいつ出来る奴だと思う。むしろこういう奴の方が怖いのだ。
つまらないプライドにこだわるな。男なら後で後悔するような男気などいい格好して出すな、そんなことくらいなら最初から逃げておく方が、人に過剰な期待を抱かさないだけでも気が利いている。
時には死に体のふりをして、あるいはあえて露悪的に弱さを見せるという擬態の下に鋼の鎧で覆った心を持ちしぶとくヌケヌケと厚かましく抜け目なく世渡りする。頸く生きていくことはこういうことだ。
ああ、今日も朝から暑い暑い、記事まで暑苦しく脂っこいものになってしまった。

同僚の息子さんが「ひきこもり」で困っているらしい。また知人のお子さんもよく似たケースにいる。「ひきこもり」について書く。
「ひきこもり」の高齢化が何かと問題になっているが、誰にも迷惑かけずに親も承知で引きこもらせて、それで生活が成り立っているのなら放っておけばいいのに、余計なお節介や不要な親切をかけたがる国民性なのか、なんとか「ひきこもり」状態から脱出させて社会と接点を持たせたいと、お役所までが旗を振って様々な試みにアプローチしている。税金の無駄遣いとはこのことだ。この国は官民一体となって「ひきこもる」自由と権利を剥奪しようとしているのか。
人の数だけ生き方がある。
無職のまま仕事もせず日がな部屋でパソコンだけを江戸時代の長崎の出島よろしく世間との接点として暮らす。
それのどこが悪いのか。私はいまだによくわからん。まるで「ひきこもり」を犯罪者のように扱う風潮。
学校出たら働いて自分の食い口は自分で稼ぎ、多くの人と接して、やがて結婚して一家をなし子供を育て、という生き方もひとつの生き方に過ぎず、これが人生の本道だと決めてかかる方がどうかしていると思うのだが。
たいていの人は「引きこもっているうちに50や60になる。その時は親もいなくなるだろうから後はどうするつもりだ」と詰る。
「そんなに気になるならあんたがたが面倒みてやれや」と言えば「それとこれと話が別だ。人生のあり方としてそれはちょっといけないんじゃない?」と口を尖らす。
人様の「人生のあり方」などに他人があれこれ口出すことではない。
私なんか働かないと食っていけないから働いているだけであって、親にたっぷり金があって「小遣いくれ」と言えば「はいはいあげます。いくらでも遣いなさい」なんて言われたら、そりゃもう喜んで自分の好きな物の買物以外は家の外に出ず、いや待て各種ショッピングサイトも拡充している今のご時世、買物目的で外出する必要もないしな、日がなパソコンだけをコミュニケーションツールとしてのそのそ暮らしていたいですよ、いやまったく。
仮想現実のみの中で生活を完結させていたいですよ。
今こうしてテキストのやりとりをしている相手が生身の人間であろうとロボットであろうとAIであろうとなんだって構わないんですよ。
酒が好きなので、ちょっと酒の相手が欲しければネットの向こうに同じような思いの仮想人物(あるいはロボット)が相手してくれて、Webカメラとマイクを装着すればSMで使うラメ入りアイマスクかなんかで素顔を隠したままだが、互いにともかくも顔を見ながら「や。今夜は暑いですね。やっぱりビールが最高ですな」とかなんとかしゃべりながら、そのうちどちらかともなく飽きてきたら「落ちます」で切ればいい。後腐れなし。また別の相手を探すのもよし。そのまま独り酒を楽しむのよし。
こういう「ひきこもり」生活に恋い焦がれる。生まれ変わったら(生まれ変わりなど爪の先ほども信じちゃいないけど)、古い話だが鳩山由紀夫になりたい、黙って毎年9億円もくれる母ちゃんのお腹から生まれたい。
それじゃ人間ダメになるよ、と言われるが、その「ダメ」はあくまで社会的動物としての自分を規定する中での「ダメ」であって、ずっと部屋の中にいる人間に対してダメになるもなにもないだろうが。
誰ともつき合いがないから、変なシガラミとは無縁だし、結婚といういわば「赤の他人の人生を背負い込む」というギャンブルの必要もない。
人間関係に疲れるというのはどこの世界の出来事なのか、もともと誰とも関係していないのだからそんな症状が出るわけがない。
とまあ、ここまで書いているうちになんだか心が寒々としてきた。「ひきこもり」に憧れる理由を書いているのに、書いているうちにだんだん落ち込んできた。
おお、とうとう「やっぱり俺には出来んわ。ひきこもりは」と思いさえしてきた。
「ひきこもり」になれんわ。どう考えても。やっぱりリアルで生身の人間とふれあっていたいわ。
「ひきこもり」に徹することが出来るのはひとつの才能かもしれない。そしてああ見えて結構リキ入れて「ひきこも」っているのかもしれない。
なんてチャラけたことを書いているが、今だからこうして書けるのであって、娘も2年近くそうであった。
詳らかに書かないが、彼女は好きで引きこもっていたわけでないのだ。しかし「引きこもってばかりいるな!」は絶対禁句で好きなようにさせておいた。
このやり方が正解とはけっして書かない。放置した結果がたまたまいい方に進んだだけのこと。
「ひきこもり」生活にほとほと愛想が尽きたり飽きたりしたら出て来い、だけ言っておいてはいた。
自分の娘ですら心の奥底のメカニズムはわからないものだ。
だからこそ記事冒頭に戻るがそういう生き方もあっていいじゃないか、放っておいてやれよ、という持論(てなものでもないが)は確固としてある。

7月半ばにしてこの暑さ。ここ数年猛暑日続きが前倒し状態になってしまっている。
世界的に異常気象が常態化しているらしく、確実に地球全体がなんらの変動期に入っていると、専門家たちが警告を発している。
私の部屋は角部屋になっていて、朝は東、昼は南の窓は容赦のない日射を浴び、冬は恩恵となっていた良すぎる日当たりが夏には怨嗟の的となる。
カーテンを閉めても住宅全体が、強烈な夏の太陽光線になぶり続けられているので、壁から暑さがじわじわと滲みいるかのようで、エアコンを強にしても少しはましかという程度。
マシン本体の熱放出のためよけいに部屋の温度があがりそうなのでパソコンの電源も入れず、スマホでネットにアクセスしチェックすべきサイトはチェックし、それに倦んだら本を読んでいた。
先日来から開いているのは、新潮文庫の「Story Seller」シリーズという、どちらかと言えば若い世代向けの作家の短編を編んだものである。
去年だか垂水の古本屋で3冊100円で買ってきて積ん読状態になっていたものを、先週たまたま手に取って開いてみたのだった。
伊坂幸太郎、近藤史恵、有川浩、米澤穂信、佐藤友哉、道尾秀介、本田孝好といった執筆陣だが、いずれもライトノベル出身、講談社のメフィスト賞受賞作家、角川スニーカー文庫でデビュー、などといった経歴を書けばその傾向がわかる。
実は私はラノベやラノベ作家を軽くみていたきらいがあって、あんなもの若者が読むもの、コミック感覚の文字通り軽い読み物、まともな文学にあらず、大人の鑑賞に耐えうるエンタメの域にあらず、と見下していたのだが、なかなかどうして結構眼光紙背のひとときを楽しませてくれた。
有川浩「ストーリー・セラー」。文庫本のタイトルと同じだが内容は全く関係ない。もうすぐ60歳の爺さんビギナーの私に、さすがに号泣とまではいかないものの鼻の奥と両目の間をツンとさせてくれた、若い夫婦のラヴストーリー。
これは好評だったらしく、この短編の結末のその後のエピソードをくわえ長編化されたという。
有川は既読の作家で「レインツリーの国」を読んだ際、「お。読ませるではないか」と期待して次に選んだのが「阪急電車」。これが「なに?これ」と落胆させる出来でそのまま縁遠くなっていたが、こたびの短編に再び食指が動いている。
読まず嫌いで避けていた、該作家の世評高い「図書館シリーズ」や「三匹のおっさん」シリーズ。読んでみたくなってきた。
佐藤友哉「333のテッペン」。東京タワーのほぼてっぺんに近い場所での殺人。いわばほぼ空中の密室殺人といっていい不可能犯罪ものだが、この結末はちょっとひどいなあと推理小説の視点からみればまるでペケだが、主人公の内面の描き方が素晴らしく、後で解説をみたらジャンルの概念を無意味にする縦横無尽な独自な作風で知られ熱狂的なファンがいるらしい。純文学方面の賞も受賞している。この作家にはまた会いそうな気がする。
例としてこの二人の作家を採り上げたが、今の若い小説好きがどんなものを読みたがっているのか俯瞰できる短編集であり、文庫全体の宣伝文に新しい作家との出会いの場としてもどうぞとあったが、まさにそれに好適な作品集といえよう。
ラノベに対するアレルギーがほぼ霧散した。その分野の作家渉猟の旅が始まる。
こうして未知の作家と出会い、読書のフィールドが広がっていくのは本好きにはたまらない。気に入りの作家が増えれば増えるほど書店や図書館通いがいっそう楽しくなる。
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このブログのヘッダ部分の写真は昨日(正確には一昨日)散歩に行った夕暮れ時に近い頃の須磨海岸である。
前にも書いたが須磨海岸の海水浴場は東西に長く、須磨水族館前の浜を東エリア、JRの須磨駅直前の浜を西エリアと私は勝手に区分している。
西エリア。ここはとかく昔からやんちゃなニイチャン、ケバいネエチャンが東に対して圧倒的に多く、10年前から夜遅くまで騒音、喧嘩騒ぎがしょっちゅうあって、それだけならまだしもちょっとしたクスリやイリーガル煙草のやりとりもあったという、いわば水着を来たアメ村状態になっていたのである。
これじゃいかん家族連れが逃げてまうがな、と警察と行政が本腰を入れて、なにかと縛りをかませた結果、2~3年前から沈静化されて歩き煙草(もちろん合法の方ね)も禁止、足洗い場を作ったから砂を洗いさってから須磨駅に上がってくれ、駅のトイレで着換えすんなコラとばかりにJR西日本も手を焼いていた案件に自ら乗り出し整備した結果を昨日確認してきた。
たしかにきれいになった。何年か前よりきれいになった。動き始める快速待ちの各停電車の中もそれほど砂落ちてない状態になっていた。
海の家も昔ながらの野暮ったいよしず張りの店はなくなり、ヘミングウェイがタイプライターを叩きそうなコテージ風の店が出来て、かくいう私も相棒のpomeraをたずさえ夕暮れの潮風に吹かれながらイタイ文章のひとつも紡ぎたくなる店である。
しかしこの手の店は一人で入るには勇気がいる。あきらめて前から一度やってみたかった、ヒトカラ、独りカラオケと洒落こんだのだ。
結論をいえば、ヒトカラむっちゃ楽しいやん、である。部屋の中には当然誰もいないから、上手い下手気にせず唄える。エコー、音程の上げ下げ好きなようにやれる。他人の目にさらしたくない自我意識の充足を思う存分発揮できる。
好きな歌を他人の目を気にせず歌える。私は音痴でなく自由奔放にアレンジしながら唄っているのだという常日頃の持論をカタルシスできる。
ちょっとめずらしい歌を唄うと、こんな歌知らんわと必ず茶々が入ることもなく、ポーズをつけて歌ったところで当たり前だが誰も見ていないので思いきり自己陶酔にひたれる。
2時間ほど歌い続けて喉がいたい。50曲くらいは唄ったのではないか。精算すると税込み1000円ちょい。いや~安いレジャーでありました。
50曲くらいの中の1曲。


理系頭に生まれたかった。我がオヤジとオフクロの子では、それは無理だと早や中学生の時悟った。
因数分解や連立方程式なぞまったくわからん。なにせ分数の足し算引き算レベルで挫折しているのだから、小学校レベルで悟るべきだったと訂正しておこう。
2/6+3/6=5/12と未だに答えてしまう私のあまりの非理系頭にはほとほと自分で呆れてしまう。
だから理系頭の人は文句なく私のリスペクト対象となりうる。理系頭の人は賢いんだ頭いいんだ俺はバカなんだああそうなんだはは~~恐れ入谷の鬼子母神(古いね)とばかりにその場でひれふしてしまう。
世の中、不思議な人もいるもので、私の同僚の一人は暇さえあれば「数学」という雑誌(こんな雑誌があることさえ知らなかった)を紐解いている。
大変失礼なことを書くが、この方の学歴は高卒、それも関西でその名を出せば誰もが「ああ、あそこな」と苦笑まじりで語られるという高校の出。
しかしながらこと数学に関しては造詣深く、かの雑誌を毎月購読熟読玩味もさることながら、大学入試のシーズン、各新聞に国立大学の入試問題が掲載されるが、例えば今年出題された京都大学理系の

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なんて問題をすらすら5分もかけないで解いてしまったのだ。私なんぞは問題文の意味すらちんぷんかんぷん。はあ?これナニ書いてあるんや、である。
件の方に訊けば東大京大ともに理系の過去問題集、世に言う「赤本」と呼ばれるあの分厚いやつ、のバックナンバーというのか年ごとのを家に揃えているらしい。ははあそうですか(そんなもん揃えてなにがおもろいねんやろ)と答えざるを得ない。
数学頭が突出した人物なのだ。この天賦才能が他の学科にも活かせたら、東大京大など鎧袖一触、屁の河童、それどころかマサチューセッツ工科大学やハーバード、カリフォルニア工科大学あたり行けたんじゃないかと思う。まさに天才レベルの人になっていたのに。
天は二物与えず、神はなにゆえさも残酷に振る舞われしか。類まれなる美形の私に文系頭それも悪い方を授けけ、しかも芸術センスなど皆無のただの見目麗しきだけのバカに仕上げたのと同じことではないか。お~まいが。
「学歴で人を判断してはいけない」というのはこういうケースがあるからだ。たいした学歴もないのに頭がいい人などいくらでもいる。そういう人ほど謙虚で奥ゆかしいのは皮肉といえば皮肉。
以前の仕事の営業先の担当者に東大出身者がいた。
なぜ彼が東大出身だとわかったのかといえば、商談の後の雑談で「それはそうと中津川さんは大学どこなの?」と訊いてきたからである。
この問い方には人は皆大学を出て当たり前という傲慢さがある。こちらは弱い立場なので、そのことへの怒りをひた隠し「いや~どうも。関西の名も知られん大学なんですよ、えへへ」と頭を掻いて媚売るように答えてやると「またまたご謙遜を。京大あたり出られたんでは」と笑っている顔には早く俺の出身大学訊けこのバカが、とありありと書いてある。(京大あたり~?あたりとはなんちゅう言い草や、あ、そうかこのおっさん東大なんや)と判断し「部長さんは失礼ですがどちらの大学のご出身で?」とボールを弾き返す。indexr
で、東大出身者のいつものあの定番の答えが返って来た次第である。「僕、一応東大だけどね」が。
(なにが、一応やねん、腹立つなあ)とむかっ腹を抑えつつ、「ほ~東大ですか、東京大学。もう私らには雲の上の存在です。だから余計に私の大学など申し上げられませんよ。部長さん、おからかいも程々に」と苦笑すると、「いやいや僕なんかたいしたことないですよ。まったく普通です。ただ周囲のレベルが低かっただけだったんですよ」とイケシャシャアとぬかしやがったのだ。
と同時に彼が哀れに思えた。この人はこれから先、学歴だけを矜持として生きていくんだ。それってなんかつまらん人生だなと。
私の周囲に誰も東大出身はいないが、みんなそれぞれの矜持と誇りをひそやかにして輝いている人ばかりである。そういう人たちに囲まれた私は幸せであるし誇りでもある。前述の数学頭のおやっさんももちろんそのうちの一人である。
理系頭への憧憬で始まり学歴のオチで終わる。相変わらず脈絡のない文章である。文系頭でも超悪頭の証である。

松居一代の、夫に対する呪詛に満ちたおどろおどろしい動画を最後まで見てしまった。
くさいまでの芝居がかったそれは松居にとって失点であった。
動画の流れで彼女のブログも見た。また彼女の過去の、夫船越英一郎に対する妻としてのあざといまでの献身ぶりもあわせ、私に反感しか抱かせなかった。
この一連の離婚騒動、どちらに是非があるのかわからないしわかろうと思う気すらない。夫婦喧嘩犬も食わず。
ただ松居は大きな誤解をしている。
彼女が動画の中で強調していたが、夫婦も含めて男女の仲に「絶対」と「永遠」が成立するという誤解。
いや男女の仲のみならず、この世のありとあらゆる「出会い」には必ず終わりがあるということを知るべきである。
出会った時から別れが始まる、究極をいえば生まれた時から死出への旅への準備が始まる。
恋愛や夫婦愛、親子の愛、友情、あるいはペットへの愛、これ仏教用語でいうところの「愛別離苦」と一体である。
それをきちんと見据えていれば、別れを受け止められる。別れはたしかに悲しいことだが、別れをいつまでも追いかけてはいけない。
とくに男女の間の別れの際に往生際悪く振る舞うというのは醜い、これまた仏教でいう畜生界に生きている下等な動物の振る舞い以外のなにものでもない。
いや、畜生と人間が蔑んでいる動物たちの方が別れを哀しみの表情をたたえながらも冷静に見送っている。
彼らが別れを特に死別を受け入れる姿勢に高貴ささえうかがえる。
男があるいは女が自分から離れようとしている。それを追いかけたところでどうにもならない。来る者拒まず去る者追わず、サヨナラだけが人生だ。
別れ際の美学を、いい大人なら持つべきである。簡単なことである。「追いかけない」の一言に尽きる。
永遠の愛だの、絶対の愛だの中学生がノートの切れ端に書きそうな戯言にこだわっているからこそ、無様に追い続けてしまうのだ。
男と女の出会いはどんなカップルでもそうだが、互いの大いなる虚妄と幻想の発火で始まり燃えさかる。炎の盛りは必ずいつかその火照りに影なす。
それを埋み火として未練たらしく陰火となっても抱き続けるか、それともさっさと水をかけて消してしまうか、そのどちらでしかないのだ。
私の美学はもちろん後者にある。サヨナラだけが人生さ、と振り向きもしないで後ろ手を振るだけ。
手を振り消えた指先は狭斜の巷の紅灯をさす。一夜の酒の中。想い出は琥珀色の液体に、あるいは吐き出す一服の紫煙に託しておけばいい。
グラスの中の氷がひそかな音をたてて割れたとき、Good lack!とささやいていればいい。

家人の代理で、昼前に住まっている集合住宅の寄り合いに出る。
面倒くさいと思ったが、こんな昼日中に家にいるのはだいたいが専業主婦か定年後のオヤジか、自由業の人間か、中年ニート(ああいうのは何故か男ばかりだ)であるので、専業主婦つまりは人妻の顔を拝むのも一興とばかり鼻を伸ばして出席したらハズレ。
定年後の身をもてあますオヤジばかり。女性もいるにはいたが私から見ればお姉さまという年代と思しき人が2名であった。
集合住宅内の決め事の確認など、たいした内容でないルーチンワーク的な打ち合わせの後、時分時であるということで弁当が出た。
この住宅が棟ごと入っているケーブルテレビ会社の差し入れなそうな。
それはいいのだが、おかずが鯖の塩焼き。そのでかいのが他のおかず仲間に足を乗せてど~んとのっかり、sabaご飯を枕にして威張っているのである。これが本当のサバイバル……すまんの~笑えよ~生きよ~、ここで笑わな、この記事もう笑うとこないよ。
盛り付けもへったくれもないもので、他のおかずの面々も「差し入れ」にふさわしい陣容である。
ケチをつけちゃいけないのはわかっているが、私は鯖が「あかん」のである。大昔にこいつで蕁麻疹をヒットさせ一晩と医者へ行った次の昼間まで痒みにのたうち回っていた経験から、以後は食べないことはないが、よく火の通ったやつか、新鮮なそれをすぐに酢締めにしたのでないと引いてしまうのである。
しかし性根がとことんいやしく出来ているので、タダ飯とあらば全部いただきやしょう残せば失礼ってもんだ主義であるから、まあ塩焼きなので大丈夫だろうと口にしたのである。
これが美味かった。厚い身の中央に走る脂身の部分がこってりとして、白い身の部分に伝わりいかにも脂の乗った魚を食べているいう実感を得たのである。
他の人の話を聞くとはなしに聞いていると、やはり美味しいの声があって、今時の弁当用とか惣菜の鯖はだいたいがノルウェイ産らしいと。日本近海のものはここまで太っていず脂は乗らないらしいと。
逆にいうとそれは大味ということではないでしょうか、といらんことを口走りそうになったが、近隣住民の皆様につまらないことで目を付けられてもと思い、この際美味けりゃなんでもええわと黙って美味しゅうごさいましたと相成った次第であった。
食後、昼だけあってビールではなくペットボトルのお茶でのごく自然発生的な茶話会という流れになった。
私より年長者たちの話柄である。介護、健康、持病、飲んでいる薬、孫の自慢が一回りも二回りもしている。
いい加減うんざりしてきて、「マナーモードにしているスマホに突然かかってきた電話に慌てて出る」体(てい)の小芝居を演じ、中座を詫びて集会場となっている一室から脱出したのでである。
近所のスーパーに行き、ノルウェイの鯖を見つけようとしたが、近海産のものばかりだった。たしかに小さくて身も薄い。なるほどな。
蕁麻疹は今のところ出ず。病は気からという、出るぞ蕁麻疹出るそと思っているから出るのではないか。だいたいが鯖を食べてなんともない方が圧倒的に多かったのだから、鯖アレルギーでもなんでもないのだ。
ということは私は今時稀なるノンアレルギー体質、何を食っても腐ったものでない限り当たらないという幸せ者である。口いやしきことは良きことであるのだ。

先日、大阪の実家に父、介護施設に入居している母の機嫌伺いに行った際、生野区の方に足を伸ばした。
大阪市生野区小路東、古くは腹見町と呼ばれた地で私は生を享け数年間育った。
父の昔話を聞いているうちに自分のいわば揺籃の地を訪れてみたくなったのである。
父はかの地で吹けば飛ぶような自動車整備工場を立ち上げ、母はそれを手伝い、夫婦付随で町工場を営みながら私に餌を運んでくれていたのだ。
小路東から同区中川周辺に父のお得意先の多くが住んでいた。
差別的に使っていないことを断って書くが、生野区といえば全国屈指の在日コリアの街としても有名であり、鶴橋や猪飼野といったコリアタウンはここにある。
父の営業エリアには、とうぜん「チョーセン部落」と当時の周囲の日本人から蔑まれていた一角があった。
父は幼い私を時々そこへ同行させてくれ、父が商談と世間話で長引く間、私はそこで得意先の家の子と遊んでいるうちに、数名の子らと友だちとなり、それぞれの家にも招かれ「クルマ屋のボン」として、遊び友だちの親に歓待された。
キムチやチヂミとのファーストコンタクトもそうした友だちの家でのことだった。
友だちのお母ちゃんとお婆ちゃんが話す時は当然朝鮮語であり、それも大きな声でやりあうから、こう書くと失礼だが、その頃は子供のことであるから面白がって聞いていた。
50年以上前の部落は劣悪な環境で、どの家々もトタンの張りの掘っ建小屋同然。
強い風が吹いたら軒並み菱餅状態になりそうな状態であった。
集落の横に地面と吃水面がほぼ同じ高さのドブ川が、悪臭汚臭を放ちながら青大将のようにのたくっている。
流れはほとんどなく淀みに近い、覆いのない暗渠めいた水路には生活の澱と滓のありとあらゆるものが浮沈していた。犬猫のむくろの腐れ身から骨が見えていることもある。
日本の社会の汚いものと矛盾のすべてを一身に引き受けている、いや押しつけられているかのような川であった。
そんな街景は今はさすがに見られない。雑居ビルや小規模なマンションが区画整備された街路に沿うて高低雑然と並んでいる。
しかしそういった家並みの間の路地を通り抜けると、バラックではないが茅屋の家も何軒か身を寄せ合ってありその合間を、大通りからの路地よりいっそう細い路地がうねっている。
人間の潜在の記憶というものはたいしたもので、路地のちょっとした曲がり具合から、はるか昔の風景を再現できてしまうのである。
上述した部落の在りし日の姿の細部まで蘇り、粗末な家屋の前に干されていた洗濯物の白さを思いだし、その時吹いていた風の匂いが鼻腔の奥でつむじ風となる。
こういうものは思い出そうと意識的になればなかなか思い出せない。
たとえば昔通った店を探す。それが都会の繁華な場所であればあるほど街の変遷も激しいから、なかなか見つからない。
しかし必ずといっていいほど、ランドマークといえば大げさだが、記憶を取り出すピックのような変哲もない、昔流行った言葉でいうなら「トマソン的物件」みたいなものでもいい、そんなものがひとつでもあったら「ああ、あれあれ。あれまだあったのか」とたちまちのうちにそれをきっかけにもつれた記憶の糸がほぐれて、あの頃の街の光景をセーターのように編み上げていく。
父も母も余命はわずか。今のうちにその記憶を出来るだけ引き出して、私なりのセーターを文章として編み上げ、親たちが生きてきた証というものに着せてやりたい。
それも彼らにとって終生不肖の息子であった私のせめてもの拙いが孝行だと思いたい。

都議選の結果は大方の予想通りだが、自民があそこまで惨敗するとは実に喜ばしいことである。
選挙前日の秋葉原、安倍首相の応援演説へ浴びせられた怒号の野次「安倍辞めろ」の5文字が全てを物語っている。
同じ場所で5年前歓呼によって迎えられた男は此度も同じ礼遇を期待していたに違いない。それが、である。
図らずも私は1989年12月21日のルーマニアの首都の光景を思い出した。
ブカレストの王宮広場の群衆。ルーマニア共産党本部庁舎のバルコニーに立った独裁者ニコラエ・チャウシェスク大統領。
自分を称賛させる集会で演説を始めたとたん起きた爆発事件。
それに勇気づけられたように長年の圧政に耐えかねた民衆たちの怨嗟に満ちた反逆の野次と怒号の砲火。
こんなことはありえないと言いたげにたじろぐ独裁者とその夫人。そして取り巻き。 
この後事態は急速に進み、大統領夫妻は反政府軍によって逮捕監禁され、あっというの間の裁判の結果銃殺される。
安倍晋三もおそらく同じ心境であったに違いない。「こんなはずではなかった。拍手の嵐がボクちゃんを包んでくるはずなのにぃ」と。
それがいらつきを呼び、自分をやじる人たちを「こんな人」呼ばわりをした。関西弁でいえば「それは言うたらあかんやろ」なことを口走った。

「銃殺」を比喩的に使えば、安倍晋三は今回の都議選の結果をもって潔く銃殺されるべきである。
自民党の最高責任者として選挙の敗北の責任云々よりも国民に対する犯罪に近い政策をごり押ししてきた点で。
この無能かつ希代の暴虐宰相はその夫人も含めパフォーマンスやスタンドプレーに長けても、この国の富裕層にいい思いをさせただけで、それ以外に見事なまでになんの業績も残せなかった。
ルーマニアの独裁者もその夫人も至近距離から撃ち殺されて、驕り高ぶった者の哀れな果ての屍体が全世界にさらけ出されたという屈辱を後世にまで見られてしまう結果となった。
安倍晋三夫妻もこの扱いにふさわしい。
それにしてもマスメディア、特に週刊誌はよく頑張った。新潮砲も文春砲も国政選挙と同じウエイトがあるといわれる都議選直前に轟き渡った。
悪質な選挙妨害だという声もあるが、メディアは時の政権の足を引っ張ることにその意義がある。広報係にはけっしてなってはいけない。
われわれ国民もそうで国家のやることに万事逆らう視座を維持しておかないといいようにカモられるだけ。
「国全体がひとつにまとまって」。ぞっとする。いい意味でも悪い意味でも私はごめんこうむる。

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