前回の「ひきこもり」の記事に関係ないとは言い切れないことを書いてみる。
人は安易に他人を励ますな、人は他人にそう簡単に自分の弱気(弱さではない、それについては後述)を悟られるな、ということ。
苦労や苦悩を自分以外の者に訴えたところで、他人には責任がないから好き勝手なことを言いたがるもので、その中でも「頑張れ」は一番便利な言葉で世の中には「頑張れ」があふれかえっている。
天災や事件、重篤な病気、身近な人の死などのアクシデントに巻き込まれ途方にくれている人に「頑張れ」と言うことで自分の一抹の良心のアリバイ作り、自分はいい人でいたがる人にとってはこんなに安直で便利な言葉はない。
だからこそ「いったい何を頑張るんだ?」と虚ろな目で問い返されたら答えにつまる。
御気楽に投げ与えた言葉が安っぽいものだから、早くもそれが上滑りしているのだ。
だから私は「頑張れ」の安売りはしないし、「頑張れよ」に安直にすがりつきたくない。
挨拶代わりの、たとえば「今度、俺市民マラソンに出るんだわ」といった楽しいシチュエーションに対する「まあ、頑張れや(頑張ってくれ)」は交わしあう。それまで否定すれば社会生活が成り立たないからね(笑)。
畢竟人間は強くなければならない。強さは正義である。
喧嘩の腕っぷしの強さ自慢はただのバカであるのは言うまでもない、「つよい」は「頸い」と書くがふさわしい。精神の「頸さ」である。
頸草の人となれ。自身に対する冷酷の刃をやわらかい心の布で包み隠しもち挫けそうになった時、それであえて心に傷をつけて鍛える。
「優しさ」や「癒し」に助けを求めるな。求めたがるな、それはただの怯懦の人だ。そうなれば人間おしまいである。ゴミといっしょに世界から放り出されてしまう。
負けを認めるな。自分が悪い、間違っていたとひそかに思っていても絶対に口に出すな。
素直に謝るのは美徳でもなんでもない。謝った時点で白旗を上げた敗残の兵に過ぎない。
「素直に謝れるなんてなんて器量の大きい人なんだ」とそれほど言われたいのか。
器量度量の大きい人のイメージが出来てしまえば後が大変だ。
生来の性格がよほど豪放磊落に出来て自然体で人を大きく包み込める者でいない限り、人間の器の大きさを気にして生きていくのはしんどいことだと思い知れ。
グズグスと往生際悪く卑怯千万未練たらしくふるまい「こいつ、なんとまあちっちゃいやっちゃな、やること汚いのう。クズだわ」と謗られて「はい、そうですよ、わたいの性分でんのや、すんまへんあ」とヘラヘラ笑っていられる奴こそ、私から見ればよほど懐深い人間だと思う。こいつ出来る奴だと思う。むしろこういう奴の方が怖いのだ。
つまらないプライドにこだわるな。男なら後で後悔するような男気などいい格好して出すな、そんなことくらいなら最初から逃げておく方が、人に過剰な期待を抱かさないだけでも気が利いている。
時には死に体のふりをして、あるいはあえて露悪的に弱さを見せるという擬態の下に鋼の鎧で覆った心を持ちしぶとくヌケヌケと厚かましく抜け目なく世渡りする。頸く生きていくことはこういうことだ。
ああ、今日も朝から暑い暑い、記事まで暑苦しく脂っこいものになってしまった。