先日、大阪の実家に父、介護施設に入居している母の機嫌伺いに行った際、生野区の方に足を伸ばした。
大阪市生野区小路東、古くは腹見町と呼ばれた地で私は生を享け数年間育った。
父の昔話を聞いているうちに自分のいわば揺籃の地を訪れてみたくなったのである。
父はかの地で吹けば飛ぶような自動車整備工場を立ち上げ、母はそれを手伝い、夫婦付随で町工場を営みながら私に餌を運んでくれていたのだ。
小路東から同区中川周辺に父のお得意先の多くが住んでいた。
差別的に使っていないことを断って書くが、生野区といえば全国屈指の在日コリアの街としても有名であり、鶴橋や猪飼野といったコリアタウンはここにある。
父の営業エリアには、とうぜん「チョーセン部落」と当時の周囲の日本人から蔑まれていた一角があった。
父は幼い私を時々そこへ同行させてくれ、父が商談と世間話で長引く間、私はそこで得意先の家の子と遊んでいるうちに、数名の子らと友だちとなり、それぞれの家にも招かれ「クルマ屋のボン」として、遊び友だちの親に歓待された。
キムチやチヂミとのファーストコンタクトもそうした友だちの家でのことだった。
友だちのお母ちゃんとお婆ちゃんが話す時は当然朝鮮語であり、それも大きな声でやりあうから、こう書くと失礼だが、その頃は子供のことであるから面白がって聞いていた。
50年以上前の部落は劣悪な環境で、どの家々もトタンの張りの掘っ建小屋同然。
強い風が吹いたら軒並み菱餅状態になりそうな状態であった。
集落の横に地面と吃水面がほぼ同じ高さのドブ川が、悪臭汚臭を放ちながら青大将のようにのたくっている。
流れはほとんどなく淀みに近い、覆いのない暗渠めいた水路には生活の澱と滓のありとあらゆるものが浮沈していた。犬猫のむくろの腐れ身から骨が見えていることもある。
日本の社会の汚いものと矛盾のすべてを一身に引き受けている、いや押しつけられているかのような川であった。
そんな街景は今はさすがに見られない。雑居ビルや小規模なマンションが区画整備された街路に沿うて高低雑然と並んでいる。
しかしそういった家並みの間の路地を通り抜けると、バラックではないが茅屋の家も何軒か身を寄せ合ってありその合間を、大通りからの路地よりいっそう細い路地がうねっている。
人間の潜在の記憶というものはたいしたもので、路地のちょっとした曲がり具合から、はるか昔の風景を再現できてしまうのである。
上述した部落の在りし日の姿の細部まで蘇り、粗末な家屋の前に干されていた洗濯物の白さを思いだし、その時吹いていた風の匂いが鼻腔の奥でつむじ風となる。
こういうものは思い出そうと意識的になればなかなか思い出せない。
たとえば昔通った店を探す。それが都会の繁華な場所であればあるほど街の変遷も激しいから、なかなか見つからない。
しかし必ずといっていいほど、ランドマークといえば大げさだが、記憶を取り出すピックのような変哲もない、昔流行った言葉でいうなら「トマソン的物件」みたいなものでもいい、そんなものがひとつでもあったら「ああ、あれあれ。あれまだあったのか」とたちまちのうちにそれをきっかけにもつれた記憶の糸がほぐれて、あの頃の街の光景をセーターのように編み上げていく。
父も母も余命はわずか。今のうちにその記憶を出来るだけ引き出して、私なりのセーターを文章として編み上げ、親たちが生きてきた証というものに着せてやりたい。
それも彼らにとって終生不肖の息子であった私のせめてもの拙いが孝行だと思いたい。