珍しく、家の近所の純喫茶店に入った。そこは60年ほどやっている店らしい。
今、喫茶店でコーヒー1杯は500円である。それもブレンドのやつ。
500円払うのだから、少なくともファーストフードや外資系や日本系のチェーン店でいるようにガサつきたくないので、岩波文庫版の萩原朔太郎「猫町」を取り出して、紫煙くゆらせながらページをめくっていた。
その方が格好がつく、こんな古ぼけた店と岩波文庫のカバーを外した昔ながらの赤茶の本はよく似合うからと思う、ミーハー極まりない理由からだけのことだが、本というもの読む場所によってカッコつけで終わらなくなるようだ。
西日が強く入る店で、本のページと日照の角度が時の流れに比例していくのがよかった。
煙草吸う、コーヒーすする、大詩人の遺した行間に夕暮れの色が差し込んでくる。
店はBGMなどいっさい流さない。
3本めの煙草に火を点けて、本を閉じ、漫然と窓の外を眺める。
人と車が行き交い、変哲のない営みがそこにあり、ぼんやりの度合いが進むと読んでいた本の効果もあって、いろいろな場所へ空想の中に旅できる。
4本目の煙草にさしかかる。客は私以外誰もいないようだ。
私だけの夕日を静けさが侵食していくと思われるほど静かだ。
時の流れの差配する帝王になれた気分。
時の流れが私の中のへんてこな空想を時制を変えてしまうにまかせて広げていく。しかしその限界を知る…
どこにいても結局、人は時間に対して王にはなれなくスレーブのままでいるしかないのかもしれない。
そんな時なすすべもなく、ただ夕暮れの街、それも自宅近所の、を行き交う人をぼんやりと見守ることしか為す術がないのだ。