人気歌舞伎役者の妻が足かけ3年にわたる乳がんとの闘いの末逝った。34歳の若さ。物心がつき始めた子を二人遺しての死は無念余りあるだろう。
以前から何かとネット上で話題になっていたこの人のブログを昨日初めて見た。
簡潔な、そしてとにかく努めて明るく明るく自分の日常を語る文章であるから、その精神力の勁さに圧倒された。
末期がん特有の症状である激痛に苛まれる中でも、なんとか自分に誠実に向き合っていたのだ。
不撓不屈という言葉はこの人のためにあるようなものだ。
事態この期に及んで、まだこの人とその夫を叩いている人たちをネットのあちらこちらで散見する。
死神というのは皮肉な奴で憑くべき者には憑かず、憑かなくていい人に憑いてしまう。
だからこそ死神と忌み嫌われるのだが。
相変わらずの、人様の死と哀しみでこの際思いきり飯米代を稼がんかなのマスコミの卑しさが目立ちすぎた。
哀惜の人にハイエナやハゲタカのように群がる。
権力者には腰が引けて、どころかへらへら尻尾を振って剝こうとしない怯懦と卑劣な牙を容赦なく向けている。
職業に貴賎はある。いわゆる芸能ジャーナリストである。
有名人のプライバシーを知りたい、あの俳優がどれだけ悲嘆にくれているか、「冥福を祈ります」とかなんとかいくら言い繕っても、所詮「他人の不幸は蜜の味」的な覗き見趣味だけがその根底に横たわる愚かなる大衆の欲望に応えることが仕事であり、崇高な義務であるかのように振る舞う下賤極まりない輩。
しかし人のことは言えない。私だって人の不幸をこうしてブログの記事のネタにしているのだから。
何か書くネタはないかと思ったら、ああこれがあったと。
あまりにも動機が不純すぎて自分で自分を「フン、どの口が記事冒頭の7行を言わせたのかい」と嗤っているのだが。
所詮他人事だから書けるのだ。他人の苦痛はいくらでも耐えられる。なぜならある程度想像できても実感がないから。遠い関係ほど想像>実感の>が広がる。
それゆえ、いけしゃあしゃあと身内でも友人でも知人でもない人の「ご冥福をお祈り」なんて出来ない。
私はそこまで厚顔に出来ていないことが小さな矜持でもある。