SNSの「友人」が少ないせいか、タイムラインに流れてくる画像はどうしても同じようなものになってくる。
私以外は猫好きな人ばかりなので、それぞれの愛猫の写真が流れてくる。
猫という動物、見ている段にはどの猫も可愛いものだが、私のような無精星という星から横着という衣をまとってやって来たような人間にとって、あの猫特有の気ままさにはついていけないものがあるので、見ているだけでは飽きたらず、いざ猫を飼うとなればその決心だけで猫虐待の濫觴となろう。
いや猫のみならず、およそ地球上地球外問わず生きとし生けるもの、私なんぞに飼われた日には、はや暗剣殺に向かう運命を曳きあてたようなものだ。
人様の猫写真を眺むるか、街や公園を歩いたり寝そべったりしている猫を見れば気向き次第で写メを撮るくらいが、ちょうど猫にとっても私にとってもほどよい距離となる。
猫の写真がひとしきり続けば、あとは日々の食事の写真が多い。
これは猫画像よりも楽しめる。というのは今晩のおかずの写真が多いのだが、これを作っている人のあれこれを想像する。
菜の材料を刻む包丁の音が作る人の言葉や鼻歌となり、作る人のその日のご機嫌次第で、素材たちはまな板に引っかかりながら、あるいはするすると自分を切った包丁に素直に乗って鍋なりフライパンなりに落ちていく。
包丁でトントン、鼻歌ふんふんやっているうちに忘れていたはずの遠い昔の歌を思いだし、あの頃の自分がありありと浮かんできて、網膜に映像と浮かび上がり、ということもあり得るかもしれない。
料理というのはいろいろなプロセスを含んでいるが、プロの調理人ならいざしらず、毎日毎日の作業であり、食べる相手は勝手知ったる家族である。あるいは自分のためだけの個食である。
手を抜くところは手を抜いて能率最優先である。いきおい単純作業となるのだが、何もそれを責めているわけではない。
こう書けばフェミニストから叱られるかもしれないが、世界のどこでも「おうちごはん」を作る人のたいていは主婦であり女性である。
家庭内において、女性は男性と違って他にやることは山ほどある。いちいち炊事に時間をかけていられないのはわかるし、こんなめんどくさいことを毎日よくまあ出来るものだと尊敬する。
しかもその多忙という時の銃弾雨霰の中をかいくぐってそれなりに体裁を調えたものを食卓に並べていくのである。驚嘆に値する。
だから、流れてくる特に夕餉の食事の陣容のひとつひとつを入念に拝見する。
それぞれ、ほとんどネット上でしか見知り合いがないのに「あの人らしいな」という個性みたいなものが出ていて面白い。
他人のご家庭の夕めしなのに「味噌汁も少し濃いめに願えません?」「鳥の唐揚げいいですな、わたし的にはむね肉よりももも肉を使ってください」「ああ、サラダはいいけどトマトはいけない。ブロッコリーもやめて後生ですから~」「天ぷら!いいですねいいですね。ただしなす天とカボチャ天はのけといてください」「ビール下さいな」「ごはんお代わり」となんとかパソコンやスマホのディスプレイに向かって、ぶつくさ注文をつけているのである。
これだけでゆうに30分は楽しめる。いやしい。まことにいやしい。