「スポーツが嫌いな中学生を現在より半分減らす」。
スポーツ庁がこんな目標を掲げた。まったく余計なお世話。
子供の頃から現在も、観るのはともかく、スポーツをやることなど大嫌いな私のような人間にとって、国がこんなことを子供に押しつけてくるなんて、おぞましきこと以外の何物でもない。
中学の時は仮病、高校の時は授業エスケープで、とにかく体育の時間から逃げていた。
「運動音痴は練習すれば克服できる。そしたらおまえも嬉しいやろ」と高校の時などは、単細胞運動バカを絵に描いたような体育教師に職員室に呼ばれ、いかにも頭が悪そうなお説教めいたものをくらったが、(体育バカほど物の本質をまるで理解できていない、ハナから理解しようとしないし、そもそも理解できる能力に欠けている。まあそれだからこそ体育の教師になったのやろね、あんたは)と心の中で毒づきわらいながら、一応センセイの顔を立てて話だけは聞いてやっているふりをしていた。
運動音痴でもいいではないか。何が悲しくてしんどい思いをして走ったり跳ねたり、ボールを蹴ったり投げたり、プールで泳いだり、体育祭(学校行事で一番嫌いだった!)の時には組み体操などさせなければならないのだろう。
こんなことで時間を費やすなら、漫画でもいいから本の一冊でも読む、音楽を聴く、絵を鑑賞する、上質な芝居や映画を観る方がよほど人間形成に役立つ。
体育の授業など、スポーツ選手を目指す人間以外には、な~~~んの役にも立ちまへん、というのが今も変わらぬ私の持論。
たとえば8段の跳び箱を飛べたところで、お猿さんじゃあるまいし「それがどうしたん?」としか思えない。
あるいはスポーツを通じてチームワークを学ぶてか?。私、そういうの、チームワークというの大嫌いな人なんですぅ~。
「一人はみんなのためにみんなは一人のために」って?やめてくれ。
「一人は一人のために、みんなはみんなで勝手にやっといてくれ」な人なんです。いいでしょ誰に迷惑かけるわけでなし。
それにしても、ここ数年、国家は国民の日々の生活レベルの事柄、個人の生き方に至るまで何かと茶々を入れたがっている。
「結婚しない自由」「一人でいる自由」「子供を産まない自由」「無職でいることの自由」「「国家を愛さない自由」「国旗に背を向ける自由」「あえて過激派やテロ集団を支持する自由」「人に迷惑かけず刑法に抵触せず公共の福祉に反せずならば何をやっても言っても書いてもいい自由」その他諸々の、個人の心の中で決めることまで土足で入り込もうとしている。
そして心のヒダをそのつま先でめくり上げ、(国家が公認した)「愛国心」や「公徳心」という価値観を上から刷り込み、国家やそれに統べられた社会にとって都合のいい人間ばかりを生み出そうとしている。
物事を深く考えるのが苦手で邪魔くさい体育会系的人格、上が白いものでも黒といえば「黒です」と即座に答える単純な人格の持ち主を作るのに躍起となっている。
国家がスポーツに身を入れだしたら危険信号。
人間関係が上意下達であるのが基本のスポーツ育成は、そのまま軍隊教育に応用出来る。唯一体育の授業が役に立つとすれば、軍隊を通じた人殺し、だけであろう。
戦前の日本、ドイツ、旧ソ連など体育教育にやたらと力を入れていた。その結果は…