出来うる限り端正で正確な文章を綴りたいと思う。
美文や名文でなくともよい。つか…、そう。この「つか」が問題である。
「…名文でなくともよい。というより三島由紀夫や志賀直哉のような美文、名文など土台書けるわけがない」と綴ろうとしたのだが、「というより」の部分で、つい「つか」が出てしまった。
ネットの普及で、たいそうおかしな日本語が氾濫している。
この「つか」や「~じゃね?」「とりま」「てか」「どうよ?」「ハンパない」「ぶっちゃけ」等々枚挙にいとまがない。
すべてがネット特有の言葉でなく、おそらく若者の話し言葉が由来のものもあるが、これらの語彙が耳目に触れれば気に障って仕方がない。
「とりま」など、最初さっぱり意味がわからなかった。
「とりあえず、まず」というのを短縮したものだと分かったのはつい最近のことである。
唖然とした。なんで…ああ、また出てきた。「なんで」。これもいい大人が口にしたり書いたりする言葉ではけっしてない。この場合「どうして」だろう。
「なんで」と話し言葉で遣ったり、地の文として書くことを赦されるのは高校生まで。
話を戻す。どうして「とりま」と短縮しなければならないのだろう。
今の若者はそんなに時間に追われているのかな、と皮肉っていればいいが、それなりに齢と経験、知識や見聞を積み重ねてきた大人が、平気で「とりま」などと遣っていると、こちらが気恥ずかしくなってくる。
これらのハズい…、噫々、また出てきた出てきた。「ハズい=恥ずかしい」言葉がふんだんに出てくる文章を目にすると、この人いいこと書いているのにまことに残念、と読むのをそこで止めてしまう。
一度、これらの語彙や言い回しをふんだんに遣って400字でいいから文章を書いてみたらいい。
そして読み返してみる。それで穴があったら入りたいと思わない中高年は、自国語に対し鈍感極まりないとしか言いようがない。
文章にも品格があることを知らずして、人生を終えてもいいのであろう。
と偉そうに書いてきたのは、自分のこのブログを読み返してみた上の自戒と反省の意味を込めて、である。
大人なら「少なくとも文章を書く時には死んも遣いたくない語彙や言い回し」を決めておくべきだと思う。
日本語は時代とともに変遷する。それはわかる。
しかし本を読んでいるうち、ゆくりべく美しい言葉に出会うことがある。
それらの言葉は何百年にも亘って生き残ってきたものばかりである。
今遣った「ゆくりべく」もその一つである。
初めて出会った時、辞書にあたりその意味を調べ、なんと雅な言葉だろうと、いにしへ人の豊饒な感性に想いを馳せた。死んだ後、生き返ってでも遣いたいと思った。