男が多い職場である。
あっちの気(け)がある男を何人か見てきた。
あっちの気があるらしいという噂を含めたら、実にあっちの気の含有率が高い職場であると一見思ってしまうのだが、母集団がそも男が多いから子集団に含まれるあっちの気の人もそれだけ多くなるわけだから、率の高低(たかひく)を論じるても意味がないが。
文章ここに至るまで「あっちの気がある」という言い回しを何度も使ってきた。
こういうボカシ表現やもろに「ホモ」「オカマ」呼ばわりは差別やヘイトであると捉える風潮が高まっている。
LGBTの方たちの人権に配慮してのことだという。
またLGBTというひとつの価値観を、人間の他の基本的かつ普遍的な価値観として認めるべきだという考え方が世界的規模で敷衍されている。
そのこと自体は非常に大切なことではあると思う。
かの人たちの価値観を損なうあらゆる言説や動きにノーを突きつけることは知性主義のひとつの現れであり、揶揄的に語られる方ではない「意識が高い」ことの証左でもある。
しかし、LGBTそのもの、あるいはそういう生き方を選びとった人々の価値観は認めるにやぶさかではないが、個人の好みの問題でそれを拒否する自由も担保されてしかるべきであろう。
かいつまんで、ざっくばらんで、で言えば「男が男に向ける性愛の情(女性同士のそれもあわせて)を含んだ好意の視線がなんとも気色悪い。俺はごめんだ。俺はそんな趣味はない」と、慌てて手を振り否定し拒否する自由も担保されなければいけない。
LGBTの人たちが「僕(私)たちを気持ち悪がる権利は誰にもない。僕たちを嫌がることは人権侵害だ」と殊更に声高に叫ぶのなら「おいおい勘弁してくれ。気持ち悪いものは気持ち悪いのだから。これは仕方がないだろう」と小さな声で異議申し立てしたくなる。
それって逆にLGBT側の非LGBTに対する価値観の一方的な押しつけ以外の何物でもないだろうが、とも思う。
最近、某作家のミステリ短編集を読んだ。全面的にそのことを打ち出さず、話運びの小道具として小出しに表現されているが、探偵役はゲイのカップルである。
ゲイのカップルの生活ぶりそのものは具象的に描かれていないが、そういう関係の男同士が互いにパートナーと認め合って、一つ屋根の下に性愛を伴った暮らしを共にしているという小説上の事実が、なんともいえぬ不快なものとなって、ミステリ小説本来の楽しみである、伏線探しやらトリック解明やらの興味が後退し、ついに読了できなかった。
あらゆる人の基本的人権はこれを認めなければならない。LGBTの人のそれも同じこと。それを侵害する権利は誰にもない。
しかし、だ。自分の中の倫理観がそう思っても感情の部分で如何ともし難い部分があるのは、生身の人間だから致し方のないことでもある。