朝のうち晴れていたが、昼過ぎより曇りだす。寒気やわらいだまま。
何を思ったのか自分でもわからないが、バッハの「マタイ受難曲」を全部聴き通そうとして、さきほどからYou Tubeでかけっぱなしにしているのだが、20分経ったところで止めた。
鬱陶しい、ああ鬱陶しい。こんなのじっと聞いていたら気がふれるわ。私の耳はバッハを拒絶する、というよりバッハの方が近寄る私を「しっ、しっ。おまえにわしの音楽がわかってたまるけ!アホンダラ」と追い払っているのだが。
気分を換えて、同じクラシックでも浪速のモーツアルトと異名を取る天才キダ・タロー作曲の「アホの坂田」を聞く。すんなり耳をすっと通り抜けて心に染み入る。名曲だ。とここまで書いてYou Tubeのタブを閉じる  。
 さっき散歩したついでに某巨大書店のわが町の支店に寄り、特設コーナー扱いで山と平積みしてある村上春樹の新刊「騎士団長殺し」を手に取り、さもつまらなそうな表情を作りパラパラimageとめくって、すぐにそこから立ち去った。
この作家の初期の作品は読み込んだクチだが、80年代終わり頃に「ノルウェイの森」のクソつまらなさに自分で勝手に作家にケチをつけて以降は、一部の短編集をのぞいて読み通した作品はない。
ここ10年、ノーベル文学賞絡みで作家の長編新刊が出ることが、NHKの報道番組のいわば看板である「ニュース7」のヘッドラインで取り上げられるくらいとなり、ある意味「国民的作家」と言えるのだが、ここまで来ると書店では買いづらい。文学そのものより話題性、あるいは時代と同時性を保つことがファッションであると考える、やや死語的にいえば”ミーハー”に見られるのが厭だからである。
この作家の「1Q84」が出た頃だから、もう8年も前のことか。ちょうど今頃の季節だったと覚えている。
大阪本町の東芝ビルの1Fにオープンテラス付きのスタバがあり、10くらいのテーブルには1人の客しかおらず、その客は年の頃30代後半と思しき、口髭を生やしたいかにも業界人ですそれもカタカナ仕事ですてな身なりで長い脚を組み、「1Q84」の本をカバーも付けずに読んでいる。テーブルの上のカップの横にさりげに置かれてているのは「スマホ」という言葉がまだ世に出ていない時代のiPhone。
「つまりボクって時代の先端を走ってるわけよね、iPhoneそばにハルキの新刊読んでるわけよねこの寒いのに店の中にいればいいものをこうして寒気に耐えて外にいるのはボクってカッコいいでしょと見せつけたいわけよね。これが東京の代官山あたりならもっと絵になるけどね」ちゅうわけかおまえこら、と私は心で毒づきそいつをひと睨みして通り過ぎたわけだが。
しかし、考えてみたら上記のような髭男の挙措はギャグやコントそのものである。本人はカッコいいと思っているのかも知れないが、傍から見れば相当痛い。おいおいおいおいやめてくれよと見ている方が照れくさくなる。実際わたしは男を睨みつけながら、その痛さの要素が私の中にも存在しているような気がして、男は私の分身であるかもしれないと思ったとたん、とてつもない大きさの含羞にとらわれたのである。
今、スタバがかつて踏み台としたドトールに逆転されようとしているらしいが。今どきスタバでAirMacでお仕事してますノマドですとかハルキ読んでますとかってのは実はすごくかっこ悪いことである。
早川義夫の「かっこ悪いことはかっこいいことだ」的な逆説はそこにはなく、ただひたすらカッコわり~~のである。だからスタバがスタり始めたのである。
それを早くも8年前に見きった私は実はカッコよかったのである。自分を鏡に映していたらカッコいい自分しか見つけられなかったはずで何も含羞を感じることはなかったのである。