とにかく寒い。雨は昼過ぎに上がったが寒気ますます募る。予報通り今週末は肚を決めておかなければならぬ極寒に襲われそうだ。
雨小ぶりとなった時、家ちかくの銀行に所用があって出向く。銀行から出てスーパーに入って買い物しようとスエットの後ろポケットを探ったら財布がない。
さては銀行ATMコーナーで忘れてきたかと小走りで銀行に戻る。
窓口で財布の拾得の有無を確認すると、窓口嬢がお客様の後ろに座ってらっしゃる方が届けて下さいましたよ、と言うものだから、慌てて振り向くと長椅子に腰かけているご婦人がにっこりと首肯する。
思わず、居ずまいを正してほぼ直立不動となり、深々と頭を下げお礼を申し上げた。そして「お礼をいくらか…」と言いかけてやめた。
ご婦人のいでたちは誰が見ても高価なものとわかるキャラメルカラーのレザーハーフコート、襟元のマフラーはワインカラー地に縫い込まれた紋様からしてあれはたしかヴィヴィアンなんちゃらとかいう英国ブランドものと推定、お顔立ちだけでなく醸しだす上品オーラは、どストライクで「令夫人」という言葉が似合う女性である。
こちらとて、きれいに整えられた口ひげのひとつも生やし、今どき死語であるがロマンスグレーの頭髪をゆったりと分けて、オールカシミアのロングコートでもまとい、懐中にてダンヒルの長財布が何十枚かの万札で丸みを帯び、カードポケットにはアメックスやダイナースクラブ、VISAあたりのブラックカードがずらりんこと燦然と並んでいるといった日々の生活を常に莞爾と微笑んで送っていられる、物心ともに余裕というものが佃煮にするほどある身ならば、ここはひとつ「奥様、誠にありがとうございました。お陰さまで助かりました。お礼にと申し上げたら大変に不躾で失礼ですが如何でしょう、ちょうど時分時です、この近所のホテルのレストランでランチの粗餐を差し上げたいのですが、エスコートさせてくださいませんか」くらいはしゃらっと言えるのだが、悲しいことになにせ緩みに緩みまくりのスエット上下、化繊のセーターとこれまた化繊ダウンのジャンパーを着こみサンダル履きの靴下はずれそうで、どこからどう見ても小汚い貧民オヤジの顔半分は一昨日から剃っていない無精髭が覆っていると来たもんだ。
忘れた財布の現金738円のみ、カード類ちゃあヤマダやヨドバシあとはファミマの、つまりはポイントカードばかりが無造作に差し込んである折財布、スーパーの小物コーナーのワゴンで1000~2000円くらいで売られていたブツである。
おそらくかの令夫人もATMの上の棚みたいな場所に置き忘れられたこいつをおそらくきちゃないものをつまむような手つきで窓口まで「お忘れになっているみたいですよ」と運んでくだっすったと拝察申し上げる。
それがなんだってえ?「お礼に…」と言いかけただってぇ~?どの口でそんな気の利いたことを言おうとしてたんだ、ああん?おまえさんがそんなことを令夫人に言うこと自体、いやいや考えた時点で失礼の極みっだってーの、やめとけってーの、という自嘲の念が一瞬の判断となり言葉だけのお礼とさせていただいたのである。どこの令夫人かは存じあげないが、この場を借りて再度深謝申し上げる。
弁当と書いているうちに窓外より陽光射しみ、室内もそれにつれてやや暖かくなってきた。今日は弁当持参で外に出る。