雨の朝は比較的温暖だったが、昼前から晴れ間が冷たい風を伴いながら広がるほど寒さがぶり返してきた。
大江健三郎の「水死」を読み続ける。去年読んだ「晩年様式集」のプレリュード的な作品。
初期から中期にかけてのこの作家特有の難渋極まりない、悪文と紙一重の輻輳する文体はすっかり影をひそめ、平易な文章で綴られる「超私小説」としか言いようのない作品世界に引き込まれる。image
文章はわかりやすいが、文脈のつながりや小説中の小説、いわばミザナビーム的な叙述はそこは大江ワールド、しっかり読み込まないと置いて行かれてさっぱり訳がわからなくなる。
この作家の政治的スタンスにいろいろ毀誉褒貶があるところだが、それと作品とは別。彼とはある意味ライバル的存在であった三島由紀夫の作品に接する時の態度と同じである。
三島に関して大江はエッセーの中でこう書いている。

三島由紀夫の文体は見事だ、というのが定説ですがたそれはエラボレートという、泥くさく人間的な努力の過程をつうじてなしとげられた、「美しい文章」ではないのです。三島さんはマニエリスム的な操作で、頭のなかでこしらえたものをそこに書くだけです。書いたものが起き上がり対立してくるのを、あらためて作りなおして、その過程で自分も変えられつつ、思ってもみなかった達成に行く、というのではありません。三島さんのレトリック、美文は、いわば死体に化粧する、アメリカの葬儀社のやっているたぐいの作業の成果です。若い作家でそれを真似ている人たちがいますから、ここでそう批判しておきたいと思います。(「言い難き嘆きもて」より


あんたにだけは言われたくないよ、と泉下で三島が苦笑しているに違いない。
余談だが、大江の後期作品にはやたらヨコモジの語彙が出てくる。そこがちょっと鼻につく、私にとっては瑕疵に思えてしまう。いちいち辞書にあたらなくなくてはいけない。読み進めるのに一手間いる作家だ。