気ままに書き散らす

150円弁当の話をカアチャンにしたら、お金がないわけでもないんやから頼むからそんな安すぎるもん食べといて、という。


あんたの身体になにかあったら私ら母と娘が困る、もっとええもん食べてせっせと働いてもわらわんとなあ〜よっしゃ!、とばかりにカアチャンは家の近くのおなじみの肉屋さんに走って分厚いロースカツのとんかつを2枚、時間がないから店で揚げてもらい持ち帰りとし、それでカツてんこ盛りカツ丼を作ってくれた。


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一応インスタ映えならぬブログ映えを狙いというわけでもないが、フタ付きの丼鉢を用意したが、文字通りてんこ盛りにしてくれたのでフタがしまりきらない。


玉子のとろけ具合がまことによろしく、豚ロースのジューシー過ぎる脂身とともに咀嚼すればがっつり感いやまし、めしの盛りの中を箸はブルドーザーのパワーショベルとなり露天掘りの状態で突き進み、間断なく豚肉、半熟玉子のとろみ、それによってほとびらされたカツの衣は、しかしまだ揚げたてのトゲトゲの舌ざわりを残し、それらの味が渾然一体となって染み込んだメシ(ご飯などと上品に言わせない迫力がカツ丼にはある)を次から次へ口内に放り込んでくれる。


私は玉葱がそれほど好きでもないので、カツ丼には使わない。カツと玉子と三つ葉少々だけである。三つ葉はカツ丼に欠かせない。香りが揚げ物の味の濃さとくどさを緩和させてくれる。箸休めならぬ舌休めとなってくれる。


あ、それと七味パッパッも忘れずに、ああもひとつ、カツ丼もそうだがトンカツのお供の吸い物は赤だしに限る。


いや~食った食った。10分足らずで完食だ。「あんた、なんぼ言うても早食いの癖治らんねえ。ほんまににガツガツ食べて」「うるさい。せっかくのおまえの馳走がまずくなるようなことをぬかすな。よけいなこと言うてんと麦茶くれ」。


カツ丼を喰らった男はたいていこうふうにナニサマ野獣の状態にしばらくあるものだ。


しらす丼や鉄火丼、あるいはもっと近いものとして鰻丼や天丼ではこうならないから不思議なものだ。


仕事中にスマホなんかを見ていると、それがたとえ業務連絡用の確認をしていたとしても、この世の中、余計なことに無駄に義憤を抱き、誰も喜ばない正義感を勝手に発揮して弾劾したがる暇な人たち(ほら、たとえば乗務中の車掌さんがスマホ見ているだけでケシカランと理由も考えずに怒る人たちね。あれは業務連絡がほとんどということに想像がいかないのかね)が多く、勤務中にスマホやケータイ見てます、遺憾に存じます拡散してください、とSNSを通じてやたら垂れ流したがる。
かくいう私も「あんたらが仕事中にスマホなんか見てたらあかんやろ」と後ろ指さされ指数がやたら高い職種にあるため、瓜田に履を納れず李下に冠を正さずということで、特にこの2日間、人目に触れる機会が多い業務に就いていたこともあり、スマホはロッカーの奥深く(なにも奥深くなくてもいいのだが)しまいこみ、会社から勤務時間中身につけさせられる業務ガラケーだけを首からぶらさげていた。
早朝から深夜まで、プライベートではほとんどネットに触れなかったというわけである。触れなかったら触れなかったでそれほど支障もない自分をリア充と呼ぶべきか。
いやいや貧乏暇なしのリア充なんかリア充でもなんでもない。
そもそもリアル充実の「充実」には「実入りも充たされている」という意味も含まれている。
インカム充たされ文化教養芸術に触れ美食の愉しみを知る時間も充実してこその「リア充」である。食べるためだけに働いている者などただの奴隷である。リアプーである。リアルプアである。まさしくワープアだな。
その「リアプー」はそう自嘲するほど貧困のどん底には今のところ至っていなく、そして財布に金がなかったわけでもないが、たまたま食べ物を得る場所がリア貧御用達とまでいかなくとも、お金持ちはあまりやってこないいわゆる安売りスーパーしかなく、そこで199円という信じがたき値段の弁当、それも売れ残りということで3割引きシールが貼られ都合150円というもはや仰天の弁当を食べざるを得なかったのだ。
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商業施設のバックヤードの片隅、小汚いブースで仕切られた机が一つの埃っぽい詰所で、文庫本片手に背中丸めてもそもそ食っている。
めしの上に乗っている各種揚げ物、上質でないとひとくちでわかる油は酸化していっそう劣化、衣をいやらしく湿気らせて舌にねっとりとからみつく。場末の落ちぶれた淫売婦の舌との絡み合いにも似た感触。揚げ物の下の海苔はもはやべちゃつきの段階を経てゴムのように凝固し、嚙みちぎるのにやや力がいるという有様。
めしは挟むより突き刺して食べる方が食べやすいほどこれまた岩のごとく硬い。
メインのこの魚は何の魚を揚げたものなのか不明。いや弁当の裏のシールに素材や添加物の表示シールがあるはずだが見るだにこわい。世の中知らないことで幸せに済むことなど山ほどあるものだ。
値段が極端に安い(いっしょに買った「伊右衛門」も69円)のはこのスーパーの企業努力の賜物であり、スーパーやコンビニあたりの500~600円弁当などこれとそんなに変わらない。
某コンビニチェーンの社長が「家族にはうちの弁当やおむすびは絶対に食べてはいけないと注意した」という都市伝説的な噂はさもありなん火のないところに煙は立たん。
さて読んでいる文庫本は先般からの「霧越邸殺人事件」。昨日やっと200頁に到達した。読み始めて1週間になる。集中力と記憶力の低下で昔に比べて読むスピードがずいぶん遅くなった。
この本は700頁近くあるが、つい10年前なら遅くても3日で読了したものだ。いやまったく年はとりたかないねえ。
200頁にしてやっと物語は動き出した(注意:ここより内容に少し触れている)。
第一の殺人出来。温室の中での見立て殺人。これまた本格推理のおなじみのパターンだが、ここにきて、この北原白秋の「雨」の詩に見立てて劇団一の色男でモテ男が異様な姿勢で殺されたシーンで、おぼろげに22年前に読んでいた内容が蜃気楼のように私の頭の中でぼんやりとした列を作り出してきた。
この殺人露見でこの館の主が初めて姿を現し、劇団主宰者で探偵役の男に「犯人はあなたがた、緊急避難という形でしょうことなしに招き入れたお客の中にいる」旨を告げるが、もともとこの館に来ざるを得なかったのはホテルからの送迎バスの故障が原因で、あれは作為的に犯人側が仕掛けたものであろうと思うのだが、ではバス事故にまったく関係がない地元の初老医者はどういうことなんだ、と私はあれこれ思っているということは未だにまだ犯人が思い出せないのだ。
したがってまだまだこれからだ、お楽しみは依然残っている。



昨日終日降った雨上がりの朝である。まだ外は暗い。


ここのところ単独夜勤が続いている。


きつかった先月の変則シフトご苦労様という慰労の意味で「粋な計らい」的なゆるいシフトにしてくれているのか。まさか。仕事に甘ったれた考えは禁物である。


甘い考えといえば民進党の前原代表は見事に女狐小池にしてやられた。


小池新党の勢いに便乗して、かつての政権第一党を壊しても小池に尻尾を振った結果があのザマである。


枝野から「約束通り腹切らんかい」と迫られても弁解の余地はない。その枝野は枝野であらたに「立憲民主党」なる新党を結成した。


あいも変わらず国民置いてぼりの議員先生方の椅子取り遊びに呆れてしまう。


夜勤は夜勤だったが相勤者あり。テレビでオリコン関連の歌番組がやっていて、半世紀前からのあの歌この歌流行歌が当時の画像もまじえ紹介される。相勤者とともに盛り上がる。


人間齢50を超えれば雑談の話柄に「(こんなこと)あったあった」と「(あんな人)いたいた」ネタが多くなってくる。


それにプラス、あまり誉められたことではないが、そこにいない人の悪口や噂話と。


昨夜とて「今日は日共オヤジがいなくてよかったな」「そうそう、あれがいるとうるさいんやわ。なにせ、歌謡曲やロックは大資本の商業主義が生み出した退廃的な音楽でほんまの大衆音楽ではない、なんて未だにそんなこと信じているのやから」「昔の歌声喫茶で歌われていた労働歌やロシア民謡こそ大衆に生きる活力を与えるもんや、とかなんとか」「あははは。シーラカンスかいな。博物館行きの考え方やなあ」とこれはこれで陰湿に(笑)盛り上がったものである。


まあこれだけは言える。日本人が偉かったのは歴史的にキリスト教と共産主義を全体的に忌避してきたということ。


どちらも唯我独尊の典型で権化みたいな宗教であり思想であるからして、和を以て尊しと為す民族性にアレルギー反応を起こさしめて本能的に怪しげなものと見破り、生き残るためには拒絶した方が得だと判断したのだと思うが。


遙か昔のご先祖様たちのこの判断が、世界には珍しく自国内で同国民同士が長年にわたって相身互いに憎悪しあい殺しあうという悲惨な事態を免れてきた国として生き残ってこれた。


これからもキリスト教信者と共産主義者たちは社会の極少数派として世間の片隅で自分たちの世界の中で自己満足的に完結するしかない状況に永遠にいることだろう。


そういう国なんである日本という国は。それでいいのだ。おでかけですかレレレのレ〜。天才バカボンでおなじみのレレレおじさんの声優が亡くなったと早朝のニュースが報じている。





朝から雨が。この雨の後ぐっと気温が下がり、11月並みの寒さになるという。


気がつけば禁煙して一昨日で一ヶ月を過ぎていたのである。


最近では禁煙しているということすら意識に上らなくなった。ごくまれに煙草が喫いたいと衝動が発作的にあるが十秒もしないうちに霧散する。


とはいっても喫煙欲はまだ残っているわけであるから、まだまだ油断できない。


煙草や喫煙者を嫌悪を超えて憎悪の感情でもって、親の仇のごとく見られるようにならないと真に禁煙したとはいえないだろうと言いたいが、それでは自分の嫌いなものは問答無用で世の中から排除すればいいというファシストの幼稚な論理となんら変わりはない。


だいたいがだ、受動喫煙の害など本当に存在するのか。平山雄という医者が厚生省(当時)の委託を受けて著した論文が1981年に発表されてから、受動喫煙なる言葉が一人歩きしている感がなきにしもあらずという指摘が結構ある。


当該論文自体に統計学的見地から見て誤謬があり、最初から「禁煙ありき」の前提にたつもので客観性に乏しいといった反論が数多く用意されている。


偉い学者先生に考えてもらわなくとも、私たちド素人の市井の者共レベルで「昔は男も女もスパス日常的にまるで水でも飲むかのように煙草を喫っており、誰もそれが害だとは認識もしなかった。だのにガンや循環器系の病気で死ぬ人は今よりも遙かに少なかった。煙草がそれらの病気に関係はまったくないとは言わないけれど、いわれるほどたいした影響など与えていないではないか」と普通に思ったりもする。


私が禁煙に踏み切ったのはただひとえに煙草代が惜しい、ただそれだけのことである。


受動喫煙がどうの周囲が迷惑だのなんので止めようというそんな殊勝かつしょうもない心がけなど少しもない。


JTから1年分の煙草をプレゼントします、なんていわれたら喜んで頂戴して美味しく一服の煙を楽しませてもらう。


冬の夜空の下、しょうことなしにベランダに出て寒さにうち震えて、煙草を喫うことを余儀なくされている、それすらも「ホタル族が喫う煙も害だ」とまったく根拠もなしに喚き散らしている、狂気と紙一重のヒステリックな連中の言いがかり攻撃にさらされているいたいけな喫煙者の存在を側聞するたびに他人事ながら憤りを感じる。


15世紀の大航海時代にラテンアメリカからもたらされた煙草はシガーやシガレットへ分化していき吸引道具の製造とあいまってひとつの文化を築きあげてきた。


文学や音楽、美術などの芸術作品を彩る小道具としても欠かせないアイテムであり、人間の精神文化にも大きく寄与してきた。


徹底した第三者的な目線で科学的にその害が証明されたならともかく、今のところ怪しげなカルトの教義のレベルでしかない「受動喫煙」とやらの4文字で、人類の偉大な文化遺産である「煙草」とその文化が世界的に抹殺されようとしている。まことに由々しきことではある。


今日は古い友人の誕生日である。まずはおめっとうはん。


彼とはずいぶんと長いつきあいを頂いているが、その誕生日を知ったのはつい最近のことだ。


そりゃそうだろう。野郎同士で互いの誕生日を覚えて、毎年毎年「おめでと~」なんてメッセージを交わしあう気色の悪いことなんて普通はやらない。少なくともリアルでは絶対にやらない。


SNSで5年ほど前に「ふーん、10月いっぴなのか。えらいまたキリのええ日付やな」と知った次第である。


祝っているのかどうなのかわからんようなことを書いてしまった。


そのお詫びと言ってはなんだが、ここにボロちいギターがあるので、これをつま弾きながら心を込めて友人のために歌を唄う。


がほ、げほ、ごほごほ、まずは咳払い。


では、いざ、ギターをAmからジャカジャカかき鳴らしてと。


ジャカジャカジャカジャカジャカスカラッチャジャカスカン……


君の誕生日、あ、ホレ!


ふたり祝ったよ、あ、ヨイショ!


あれは過ぎた日の、あ~ソレソレ!


思い出のひとこま~~ときたもんだ、わははははは~


手拍子ごいしょに~ハイハイチャチャチャ!ハイハイチャチャチャ!


「やかましいねん!近所迷惑やろ!さっさと仕事にいかんか」


襖をがらっと開けて鬼婆吠えてぴしゃりと襖を閉めてまた開けて「ほれ、弁当や」と弁当包みを投げつけるように渡しやがったのである。


私の大好きな海苔弁当。弁当箱の底にご飯を敷き詰めて全体に醤油を塗る。


その上に鰹節をまんべんなく乗せて海苔で覆う。


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醤油をさっとかけまわしたその上にごま油で炒った玉子をこれまた隙間なくびっしりと敷く。


実に中学生の頃からこれが好きなのだ。


私でも食べたい時にいつでも作れるからだ。しかしこの手の弁当は出来立てはそれほど美味くない、というよりまずい。


製造後5時間ぐらいが一番おいしい。すっかり冷めているのになぜか安物の素材たちがほどよくいい味を出してくれている。


赤いウインナーなどこんな弁当のために生まれてきたようなものだ。


今日も相勤者なしの夜勤。お行儀悪だが弁当を食べながら、れいによって「霧越邸殺人事件」を読み続ける。


120頁に至るというのにまだ変事出来せず。この物語の書き手と設定されている作家志望の男がひそかに思いを寄せる劇団の女優になぜかここの邸の関係者は注視の視線を送ったり、また彼女の肖像画めいたものを飾っていたりする。


トレーナー姿で時折出没する謎の人物が出てきた。


耳をすませば虫すだく声がしきりに聴こえる。どっしりした本を読むふけるのにこれほどふさわしい秋の夜長もないだろう。


昨夜は夜勤シフトオンリー。今朝に至る。


夜明けの空気の冷たいこと。5時半現在、日はまだ明けやらぬ。日の出日没もこれからどんどん冬シフトに変わっていく。


給料日直後とあって、昨夕カアチャンは家の近所の肉屋さん名物チャーシューを奮発してくれた。


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それでチャーシュー麺大盛り。チャーシューはバラ肉に限る。


ここのチャーシューはあの豚特有の臭さがまるでなく、豚の脂のジューシーと旨味だけを堪能させてくれる。女性の握り拳より一回り小さい塊で600円の値づけが納得できる。


「霧越邸殺人事件」74頁まで読む。(注意:内容に触れている)


邸の食堂にて熱いチャウダーやポトフを振る舞われる遭難者たち。テーブルに添えられた椅子の数に不信感を抱く劇団主宰者の槍中(これが探偵役と思しき)。


その後、サロンに移りそこに飾られてある陶器やガラス細工をめぐってのディレッタントなやりとり。


これまた本格推理小説にありがちなシーンで、退屈な描写が続く中に重大な手がかりと伏線が仕込まれているのだから、あだやおろそかに読み飛ばせない。


邸の住人たちが執事に続いて料理人、秘書役の各々女性が登場する。皆無表情で無愛想な態度で劇団員たち町医者に接する。


邸の主、そして殺人事件はまだ出てこない。


なにせ692頁の大作。そうトントンと筋を運ばせるわけにもいかない。


90年代は分厚い推理小説の全盛期だった。80年はじめに新本格の旗手として「占星術殺人事件」で島田荘司がデビューしてから陸続とその書き手たちが現れる。


この記事の綾辻行人をはじめ、歌野晶午、二階堂黎人、笠井潔といった錚々たる作家が世に出て新本格時代を絢爛に彩っていくとともに長編の頁数の肥大化もすすみ、90年代初めに衝撃的なデビューを果たした京極夏彦に至っては講談社ノベルズで出していた初期の長編群などどれもドカ弁の様相を呈していた。


なにせ「狂骨の夢」などは10センチ近くの厚さがあり、しかも段組は二段、よくもまあノベルズとはいえ持ち運びにやっかいな本を持ち歩いていたものだと今さらながらに感心しているのだ。


一雨ごとに秋が深まる。ここひと月ほど仕事に振り回された感がある。季節のうつろいをじっくりと味わう余裕もなかった。
そんな時だからこそ、空き時間には、こう、なにか脳にどっしりと来そうな本をじっくりと読みたくなってくる。
分厚い本格推理小説なんかは格好だ、とまあ無理やり話をこじつけていくのである。
押し入れの中からたまたま取り出した綾辻行人「霧越邸殺人事件」再読をテーマにした記事を書きたいがために。
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新潮文庫版の同作、実に22年ぶりの再読である。文庫の奥付を見る。平成7年2月20日2刷となっている。
当時わりと綾辻行人ファンであった私は彼の文庫化作品(ほとんど講談社文庫だったが)はだいたい初版で買っていたものだが、なぜかこれは2刷目である。
なにゆえにと考えをめぐらせてみると、ああそうか大震災があってまもない頃だったんやと、本なんか読んでいるどころではなかったんやと思いがそこに至る。
記憶の取り戻しはそこで止まる。この文庫本を大阪あるいは神戸のどの書店で買ったのか思い出せない。おそらく大阪だったのだろう。神戸は壊滅状態だったからジュンク堂や駸々堂(その頃あった)で買えたはずがない、梅田の旭屋か紀伊国屋で贖ったものと思われる。
うまいぐあいに作品の中身もほとんど忘れてしまった。本格推理小説の冒頭のお約束である、事件の舞台となった豪邸の見取り図が添付、登場人物の紹介ページを見てもさっぱり思い出せない。
つまりはなんともまあお得な記憶力のなさで、初読とまったく同じなのだ。
(以下7行作品の中身に触れることを断っておく)
東京のアングラ劇団員8名が公演の打ち上げに信州まで旅行にやってきた。さて東京へ帰ろうとホテルの送迎バスが駅まで行く途中でエンスト、峠のようば場所から歩かざるをえなくなった。
信州の澄み切った晩秋の晴れ渡った空の下、劇団員は峠からハイキングのノリで下りていくのだが、一天にわかにかき曇り、突然の吹雪に遭遇、遭難死寸前に湖畔に立つ豪邸にたどり着き、そこには同じく雪から逃れてきた地元の初老の医者がいた、とまあここまで読んできたのだが、「故障した送迎バスの運転手の言葉にわずかに関西弁のニュアンスがある」とさりげなく記述された一行になぜかかすかに記憶の底の底にたまる淀みにいる夜光虫の如き妖しい燐光をみたのだ。
同じく綾辻に「殺人鬼」という大作があるが、これに「関西弁云々」が密着してしまうのである。まったく突拍子もない、素っ頓狂な飛躍もいいリンクなのだが、なぜそうなったのか自分でもわからない。しかしこれは自分にとって重要な情報である、と反故コピーの裏紙メモに走り書きしたのである。
本格推理小説の楽しみのひとつに、このメモを取りながらのページめくりというのがある。
本格マニアの中には1作1冊のノートを用意して臨むという豪の者というのか変態というのか、あんた暇なんかというのか、登場人物の行動タイムテーブルまで作成しなければ気が済まないというのがいるからすごい。
いろいろな考えがあるところだが、本格推理小説の醍醐味はトリックよりも伏線の張り方の巧さに思わず唸らされる瞬間にあるのではないかと思う。
クリスティの某作品だが、なんと1頁目に犯人を示唆している伏線が張ってあった。もう一度読み返したら、なるほどなあ、これはわからんかったなあ、参りましたと。
不世出のミステリーの女王の「ふふふ、だから最初に書いてあるじゃないの」の含み笑いが聴こえてきそうだった。
これから読み進めていく「霧越邸」、どうか最後まで犯人も伏線も思い出せませんように(笑)。




ここ数日の変則シフトで生活のリズムが崩れ、どうにも疲れが溜まりがちである。
休みの日の間隔も不規則で予定が立てづらい。
こんな日々の見返りは月の給金にしてわずか1~2万の端金が増えるのみ。
この仕事のうま味は「待ちの仕事」の性格上、給金が発生する拘束時間内にアイドルタイムが結構あり、それを利用してこうしてブログ記事を書いたり、まだ捨て切れぬ夢の生地の仮縫いをしたり、本を読んで時間つぶしが出来たのだが、シフトの都合で時々別の部署に行かされることが多い今それもままならない。
相勤者とテレビを見ながら愚にもつかない床屋談義に興じることが多い。
同僚の中に日共シンパなオヤジがいて、これがまたテレビに向かって何かツッコミを入れないと損と思いこんでいるやっかいな男、少しは静かに見ればいいものを何かと茶々を入れたがる。
68歳という現場最高齢者でそれなりに顔を立ててやらないとすぐに拗ねる、どんな話柄でも自分が中心になって語り合わないと気がすまない、仕事の案件にかませておかないと俺をないがしろにしたと後がうるさく、とはいっても絡むだけ絡んで自分が美味しい思いが出来なければすぐに知らん顔しだすという、70近いジジイにありがちな厭な部分を集大成したようなオヤジである。
一昨日あたりからトランプと金正恩の口撃合戦がエスカレートしているが、それを視ながらこのオヤジはいみじくも言ったものだ。
「子供の口げんかやがな。もっと大人にならな。そうやろ」
と意見を求められた時、私ともう一人の54歳オヤジは「そ、そうですね~~」と嘲り笑いを噛み殺して同意したふりをしたものだ。
(大人にならなあかんのはあんたの方やんけ)
そうした日々の夜勤明けの今日は夜勤は休みだが、明日は早朝出勤。
昼前にまずはトンテキで一杯。
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夕方まで寝るつもり。考えたら今日は土曜。
土曜に休むなど何年ぶりだろうか。家の近所にフォーク酒場めいた店があるが、そこをひやかそうか。
やめとこ。調子にのると深酒必至。とてもじゃないが出勤時間前に起きられやしない。
20代、梅田の某会社でアルバイトをしていた頃、酒の流れからバイト仲間を深夜だというのにタクシーで千里まで送り届け、送り駕篭は今度は梅田までの返し駕篭となり、朝までやっているお好み焼き屋で飲み、そのままなにもなかったかのように出勤、涼しい顔で仕事をこなしていた。
あの時、ビル街にたむろしているカラスどもがゴミ袋を漁っていた姿が今も目に灼きついている。
それを思い出すとふとあの頃の俺にふと戻りたくなる。あの頃なにも本当に怖くなかった。
そして60年も生きていてなにを得たというのかよくわからない。
仮に100歳まで生きて、「敬老の日」が来るとルーチンワークにように実施する行政やマスコミのどうでもいいようなインタヴューイがマイクを向けてきたら、「別に。なんにもないわ」と答えたい。
そんな態度が厨房とか中坊ぽいと言われてもいいよ。
でもな、いい大人が訳知り顔で分別顔していい人ぶりたがる。若者に嫌われたくない一心で理解示すフリする。
だからこの国はバカになったんよ、わはははは、ってだいぶ酔いが廻ってきた。





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