鍋物の季節到来。
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生活パターンや価値観の変化に伴い、孤食が当たり前の時代になってきた。かつての孤食のイメージはどうしても「孤独」「寂寥」「ミジメ」といった暗い語彙で語られがちだったが、独りで好き勝手に気ままに食らうメシがまずいわけがない、という至極当然のことにようやく世間の凡人どもは気づいたらしい。
特に鍋物や焼肉は「みんなでわいわい楽しくにぎやかに」という枕詞を伴っていたものだが、「みんなでわいわい楽しくにぎやかに」は裏返せば「鍋やコンロを囲む面子たちのそれぞれの思惑と駆け引きめいた」というものに常に気を張らねばならないということとトレードオフである。
常から同じ屋根の下に暮らす家族同志ならともかく、それ以外の者たちとの鍋囲みにはたとえばすき焼きならば肉片ひとつつまむのになにかと気を遣う。
「肉だけを単独でつまむと欲張りなやつだと思われるのも癪なので白糸と春菊でこう包むようにしてつまんで、いや待て俺はこれで3回めの肉なんだよね、ここは一つ遠慮して焼き豆腐単独で一呼吸を置き」とかなんとか気を張りつめてしまう。
「みんな話に夢中になっているし誰も見てないから肉いってもいいか」と、鍋から引き上げた瞬間に限って、対面に座っているヤツが一瞬、肉をつまんだ自分の箸先に目を光らしてロックオンしているものである。
ああ、やだやだ。さっきはさっきで「生から煮かかりかけた頃合いの肉が一番好きなんだよね」とかなんとかいちいち言い訳をしながらおそるおそる遠慮がちに箸を出しているのに「おいそこ待て待て。まだ味が沁みてないだろう。俺の絶好の味加減が台無しになるだろう。も少しがまんしろ」と横槍を差し出した奴はいつもの鍋奉行。
「うるせ~~黙ってろバカ、男のくせにごちゃごちゃ小舅みたいなことをぬかすんじゃない!」と言い返すと何かと角が立ち、鍋の一夜の序盤を白けた雰囲気にしてしまう恐れがある、そうなれば「ほんと空気が読めないやつ」と烙印を押されるのがイヤさに「あはは、そうだったな。俺がいやしんぼだった。悪かった悪かった」と苦笑して頭のひとつも掻いて箸を引っ込めばそこは丸く丸く収まって。
まこと鍋料理というものは「自分を殺してみんなとの和を大事にして横紙破りは容赦なく村八分にする」という、日本人の麗しくも悪しき集団優先主義的生き方をこなしていくための教材であり、それゆえ愛される冬の定番料理なのである。
鍋料理の湯気の向こう側に「みんなが黒い髪だからたとえ先天性のものでも茶色の髪の毛は断じて許さない。みんなと合わせて黒く染めなさい」という人格と人権を甚だしく無視した校則を押し付けるバカな高校とアホな教師、それらを受け入れる日本という国の空気がうっすらと見えてくる。
この国全体ががそうした集団ファースト思考や論理から抜け出し、成熟した個人主義社会へ至る過渡期にあるのだろうか、鍋料理的価値観が崩れ去ろうとしているのは欣快事である。
鍋の具材に欠かせないマロニーの製造元が堂々と一人鍋を全面に出して該商品をPRする時代である。もはや鍋は「みんなでわいわい」とやりたがる方が旧弊であり古い因習にしがみついている化石のような人である。あるいはメシを食う時まで絶えず人と群れていないと安心出来ない可哀想な人でもあろう。
独りでつつく鍋の美味さときたら。気兼ねというものがまったく不要。独りなのだから当たり前であるがこれが一番美味の肝となっている。
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しっかり煮えていようが生煮えであろうが好きな時に好きな具を食べて、テレビやオンデマンドの映画を見ながらでもよし本を読みながらでもよし、合間合間に粋(すい)な酒のひとつもちびりちびりやりながら、しんと静まった冬の夜更けの過ぎ行きを楽しむ。これで窓外雪も舞い散れば冬蛍の趣ありていとあはれ。



西友新長田店は今時珍しく取り扱いがすっかり少なくなったインスタントラーメンの名作、「マルちゃんの昔ながら中華そば」5袋入りパック、醤油味と味噌味の両方を常備置いているスーパーで時々買って帰る。
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昔ながらのノンフライ製法のインスタント麺で、昔は結構このタイプの商品が各メーカーから売られていたものだ。
記憶をたどればはるか45年前の昔、日清の「生中華」、エースコックの「麺生」がこの手の製品の走りで、当時の丸坊主の中坊は昼時にこれらをすすりながら、テレビに映しだされている吉本新喜劇の岡八郎の「こう見えてもワイは昔は空手やってたんや。…ただし通信教育やけどな」ギャグを見て笑い転げて、いや転げていたらラーメンをこぼして火傷に至り大事になっていたはずなので、笑っていたのだ、に訂正するが。
それから月日は流れ、世紀新たになってから、ノンフライ麺インスタントラーメンは「昔ながら」を除いてほとんど見かけなくなった。
この「昔ながら」も皮肉なことに、同じマルちゃんブランドである「正麺」シリーズが火を付けた新製法による生麺食感ラーメンブームに押され気味となり、どこか肩身を狭くしているような気がして不憫でならず、時々「おお、おまえまだいたか」と、わが眼差しに慈悲があふれ、つい緩頬の表情となり「よしよし」と手にしてレジに持って行ってやるのである。
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私としては今時の生麺食感ラーメンがイマイチなじめないのだ。生麺食感モノが最大の売りにしている麺のツルツル感なら実はノンフライ麺3分間茹でのところを倍の6分間茹でると、それこそ本当の生麺よりツルツル感がより増す。しかもどういうわけか知らないが茹で過ぎると逆に腰も強くなるのだ。
新製法生麺タイプは6分間も茹でると、変に生麺に近いことが災いして、ただの伸びたラーメン、煮ずぎてドロドロに近いものになってしまう。
「昔ながらの中華そば」は「昔ながらのノンフライ麺」という名前にしてもいいではないか。ネットを見ると隠れたファンが多数いるのだから。とにかく東洋水産さんにおかれてはこの製品けして廃することなく、またこれはノンフライ麺ではないが夏にしか、それも希少種的に目にする、どうみたって冷やし中華やんこれはと思う「マルちゃんの冷やしラーメン」をいつまでも細々としぶとく作り続けていただきたいものである。
朝飯にさっそく「昔ながらの中華そば~醤油味」を昔ながらのラーメン丼でいただく。昭和の大衆食堂や社員食堂、学食でラーメンといえばたいていこの手の味のスープだった。やっぱり「昔ながらの中華そば」という名前の方が正解か。
半切りにしたゆで卵とチャーシュー2枚、そして一切れのナルト、メンマ少々、刻みネギぱらぱら…具はそれだけでいい。逆にこれらのトッピングが一番絵になるラーメンである。
ま、今回はメンマとネギだけしかなかったのでそれで我慢しておいた。


なんだ、ハロウィンって今日が正式なその日なんだ。
先週末にニュースでれいのバカ騒ぎを報じていたので、あの日がそうだったんだと思い込んでいたら。
と、勘違いするほど私らの年代にはあまりどころかぜんぜん馴染みがない。
馴染みがありますちっちゃい時分から毎年楽しんでました私60歳です、てな人は育って来た環境が私とはあまりにも違う人なんや。あっちいけ~~。
ここ数年、9月の中ぐらいからスーパーやダイソーの片隅がオレンジのなんきんで占められ、年ごとにそれが広くなっていくような気がする。
「ハロウィンてあれなんですのん?わたしら年寄りやさかいわからしまへんねん」
「ああ、あれはおばあちゃん、ヘロインというそれはそれはきついきつい麻薬があってやね、外人は年に一回それを吸うたり注射してやね、それでふらふらになりながらカボチャの化物になれたら幸運の証やと騒ぎますねん、せやねえ日本でいうたら織田信長の時分にヨーロッパで始まったらしいんですわ。実は日本にもザビエルちゅうキリスト教のおっさんが持ち込んできて流行らそうと思たけど、あの時分は渋谷スクランブルも六本木アマンドもミナミの戎橋もなかったさかいあかなんだ。そのときにヘロインがハロウィンに聞こえたんで日本ではハロウィン言いまんねんな」
「へえ、そうだっか。あんた物知りやねえ」
「いやいやそれほどでも」
とまあ、顔見知りの83歳のおばあちゃんのお褒めに預かった次第だが、私の耳がおかしいと言われたらそれまでだが、ハロウィンとヘロインの発音がよく似ていて、本気でどっかに麻薬絡みの謂れがあるんやと思い込んでいた。
そんなこたあどうでもよろし。仮装かコスプレかなんだか知らんがそんなものにウツツを抜かして、とにかく群れ合わないと何も出来ない日本人の悪癖というのかDNAというのか、そういったものをきっちり血脈の底に隠し持って西洋由来の祭に悪乗りして大都会の繁華街に参集しての狼藉、騒擾、乱痴気、破廉恥騒ぎ。ほんまにこいつらなにかクスリやっとるのではないかと思いたくなるほどである。
いや実は彼ら彼女らが本当は羨ましいのですよ。私が若ければ絶対ああいうことやっていたと思う。根が調子乗り、関西弁でいう「イチビリ」の塊である。
若くなくとも今でも金と暇があれば私が鬱勃と心の底で熾り火ちろちろ燃やしている女装への情熱を満たしていることだろう。ゴージャスなキンキラキンのお衣装に身を包み、思いきり色っぽく艶っぽく「ろくでなし」を歌ってみたいのよ。 
だのに近場へ酒飲みに行く暇もないのに依然貧乏なのはなぜなのだ。今日も一応休みであるが、午後7時までは「酒飲まないで待機していて。また急にあのおっさん休むかもしれないから。頼みます。時給1.5倍増しするからさ」と言われているので缶チューハイすら飲めないじゃないか。あと2時間は。
ええい、こうなりゃチェ・ゲバラに化けて共産主義革命に終わりはないとかなんとか葉巻をふかしてカッコよくほざいてみたいわ。



「コンビニエンスストア」 詩・川口晴美

夜中に
急に
甘いものが欲しいような気がして
きっとメロンパンが食べたいんだと思って
部屋着のままコートをポケットに財布だけ入れ
コンビニへ行く

セブンイレブンのメロンパンは外側のビスケット生地が
少し固めでおいしかったから
 セブンイレブンへ行く 途中の路地で
抱き合っているカップルがいる
横をすり抜ける
ゴミ袋の横をすり抜けるように
セブンイレブンの自動ドアが開き
パンの陳列棚の上から二番目にメロンパンを見つけたと
 たん
なんだかちがう気がして
食べたいのはこれじゃなかった気がして
買うことができない
仕方なく
明るい店内をぐるり一周し
セブンイレブンをあとにして
大通りを渡りローソンへ行く
ローソンで売っているベルギーワッフルがわたしは好き
 なんだ
思い出して バームクーヘンの並んだ隣に残っていた最
 後の一コをレジへ向かおうと
歩く 数歩の間に ベルギーワッフルを噛みしめたとき
 の歯応えが
にじみ出る油っぽい甘さが ありありと口いっぱいに感
 じられて
全然ちがう
棚にベルギーワッフルを戻して
やっぱりメロンパンだったのだろうか
ローソンのメロンパンが売り切れている
沖縄黒糖ドーナツ、ちがう
チーズ蒸しパン、ちがう
六枚切り食パンを買って帰ってバターとブルーベリージ
 ャムを塗って食べてみようか
それともタマゴサンド でもおなかがすいているわけじ
 ゃない
何か ほんの少しでいいのだ
舌触りでもいい味でもいい わたしを満たすもの
カスタードプディング、じゃなくて、アロエヨーグルト、
手にとってはやめて
甘いものじゃないかもしれない
さらさらと口の中でこわれてなくなってしまうもの
ポテトチップス・コンソメ味、とんがりコーン、イチゴ
 ポッキー、コアラのマーチ、
でもちがう
わたしは何が欲しいんだろう
ここにはない
駅の向こうへいく
電車はもう終わっている
食べるものじゃないんだろうか
郵便局の隣のファミリーマートの前で
電話ボックスの中の誰かが誰かに電話している
わたしも電話してみようか
でも誰に
ファミリーマートの入口には運び込まれたばかりの雑誌
 が並べられ
週刊新潮、アンアン、SPA!、近いようなきがするけ
 ど
部屋に持って帰って一人でそれを読むのを想像すると
小さな活字がもっと遠のいていき
スーパーマイルドシャンプー、植物物語メイク落とし、
 (物語……?)
紙コップ、パンティストッキング、乾電池、封筒、
わからなくなる
わたしは何が欲しいんだろう
まだこの先にサンクスがある
あるから
いつかわたしの欲しいものが見つかるんじゃないかと
わたしの欲しいものはどこにもないんじゃないかと
思いながら
歩いていくことができる
コンビニがなかったら わたしはメロンパンが食べたか
 ったと
思い込んまま 夜に押しつぶされるばかりだったはず
だから
わたしは
夜の道を 次のコンビニの明かりへと歩き出す
歩いていく
ポケットの中で ぎゅっと手をにぎる

『lives―川口晴美詩集』(現代詩人叢書 ふらんす堂 2002年刊より)
※改行の際の1字アキ等ママ


「俺の借金全部でなんぼや」 詞・三上寛 曲・上田正樹、有山じゅんじ



アルバム「ぼいぼちいこか」(バーボンレーベル1975年リリース)より



最近忙しさにかまけてブログの更新も滞りがち。


とはいってもだいたい2日1回のペースでさほど滞っていず、人様のそれとくらぶれば結構更新しているクチであるが。


SNSの方はとんとご無沙汰である。ここ数日ログインすらしていない。


別にイヤになったわけではなく、ログインしたらしたでコメントしたがりのタチだから、コメントする、それに対するレスポンスが気になる、スマホ見られない(=ネットにアクセスできない)時間がここのところ多く、それがいっそ苛立ちを呼び、ならば最初からログインしなければいい、といわばズボラをかましているわけである。


いまだ勤務シフトの定着化が見えてこない。


わが業界の人手不足は深刻で募集をかけていてもなかなか人が来ない。来たら来たでまことに失礼な言い方だが、ちょっとモノにならなそうな人だったりと人事担当はいう。


人手不足が常態となっているほど、少なくとも東京や関西の大都市圏では雇用情勢は改善されたというが、サービス業や底辺産業、ガテン系お仕事、3Kワークなどが人手不足だけなのである。


しかもそれらの従業員はほぼ全部が非正規雇用。


非正規がゆえに給金は時間給単位だから、それを上げてでも人を集めたくなる、いきおい法定最低賃金は上げざるを得なくなる、それはすなわち賃上げの現象につながる、だから非正規の賃金が改善されたことになる。まさしくボトムアップではないか。


ここらあたりを誤解も多分に含まれた評価をもって世間の大方の人が「安倍晋三はよくやっている」と、このたびの総選挙であの男に国政を信任した結果に終わった。めでたしめでたし。ああこれで栄光の大ニッポンも安泰だ。


関西圏の鉄道は台風一過後24時間以上経っても未だ不通区間がある。それほど関西的には近年まれに見る台風だった。


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「霧越邸殺人事件」やっと読了。(全てに近い状態でネタバレしているので要注意)


結論からいえば、既読なのに結末に近いところまで犯人がわからなかったのは初読時の印象が希薄だったから、ぶっちゃけて言えばそれほど面白くなかったので、あれは傑作だった、また読みたいと思い出すこともなく記憶の彼方に飛んでしまったとしか言いようがない。


良くも悪くも「本格推理小説」であったことは間違いない。


「本格」ファンを唸らせる舞台設定、プロットの練り込み、雰囲気作り、散りばめられたフェアな伏線等々、さすがに新本格の旗手として島田荘司が一押しした作家である綾辻行人がものした作品であるが、これらの長所や美点がそのまま「本格嫌い」の格好の攻撃材料となる。


好き嫌い、支持不支持がきれいに分かれるリバーシビリティさがくっくりとし過ぎたのである。


著者デビュー後3年の同作である。文章に生硬さが残るのは否めないとしてまでも。


第1と第2の殺人を敢行した男に、第3の殺人の犯した男(探偵役でもあった)がすべてを擦り付けた挙げ句それが失敗となり自殺したというのが肝の筋である。


第3の殺人の動機設定があまりにも厨房過ぎて、まったく共感、殺人に共感もなにもないが、少なくとも感情移入は出来なかった。


いっぱしに劇団を主宰している30超えたおっさんが何を青臭い、というより小便臭いことを言うておるのだと読んでいて気恥ずかしくもなってくる。


皆を一室に集めて謎解きを探偵役がやるのだが、第1第2の犯行については子細に精緻に論理を組み立てて解明していくのに、第3第4のそれにいたってはえらくあっさりと片づけ仕事で語り流していく時点で、さすがに記憶力衰えとかどうかというより、初読でも後二つの犯人はこの語り手であると気づく。


4つの殺人全体を俯瞰して、なぜこういう殺人が起ったのか。


それは邸自体が未来を予測させるなにかの力があり、4つの殺人はその邸が持つ得体の知れない空気感がもたらすというくだりはバカバカしくなってきた。こんなのありか。


登場人物の姓名がどこか違和感めいたものを抱いたの最初からだったが、その姓名の頭の音を拾い読みすると探偵役=犯人にたどりつく仕掛けとなると噴飯物のレベルだ。作家のご愛嬌ちょっとしたサービスでこんなの脇のエピソードに入れてみましたというならまた別物だが。


これもトリックだとして、こういうことを書くからトリックに絡ませてストーリーを組み立てる無理とおかしさが生じてくると「本格」は批判されるのだ。


いやそれだからこそ「本格」なんだ。いわばゲーム性やパズル性を楽しむやお遊び心がなけれ


ば「本格」を読み楽しむ資格はないと言われたらそれまでだけど、やはり小説であるからしてリアリティも少しは追求してほしいというのが正直な思いである。


たとえば温室の天井ガラスに亀裂がなんらかの力で入ったという場面がある。


なんらかの力がなんであるのか、それも邸本来が持つグルーヴであるという説明の無茶さにあえて目をつむって、その亀裂からギリシャ数字の「X」読みは「カイ」、そこからまた登場人物の名前がシンボライズされたという相当なこじつけ解釈よりも、礼拝室のステンドグラスの天井に描かれた「カインとアベル」の宗教画から「カイ=甲斐(第1と第2の殺人犯)」の名前を結びつけた方がよほどしっくりと腑にすとんと落ちる。


これが20代に読んだならもっと作品側に好意的な立ち位置にいて評したかもしれない。


ましてや10代なら名前の語呂合わせや見立て殺人だけでワクワクし巻措くを能わず徹夜してまでも読みふけったかもしれない。


いかんせん、ちぃとは人生の酸甘かみ分けつもりの、夢もロマンも色あせた心はとうにすれてヒネクレて年経る初老男にはあまりにもお伽が過ぎた推理小説であった


選挙の時だけ友人づらしたがる人物の電話で起こされた休日であった。「学●は選挙の時だけTELよこし」。
寝ぼけ眼で「はいはい、了解。入れるから」と約したふりしてさっさと電話を切って厄介払いする。
あほめが。誰が●●党やその議員に入れるかっちゅうねん!死んでも●●党や▲▲党、■■党なんかには投じない。
選挙期間中だから具体的な党名を出せないが、そうでなければ公明党や共産党、社民党と書いているところであった。
きっちり書いているやんけ、ああさよか。この程度で公職選挙法抵触と考える方が大げさというもの。
れいの小池新党がとことんかきまわし、此度の総選挙、少しは面白くなりそうだなと期待したのだが、小池百合子のニッコリ笑って「排除します」発言以降、急速に小池劇場、小池マジックショーは終息となり、彼女はそのへんのただのゴーマンなオバハンとなりさがり総スカンをくらい、下馬評はまたもや安部自民の独り勝ちとなっているらしい。
意外に健闘しているのが元民進党で民主政権時代官房長官だった枝野幸男率いる立憲民主党。その煽りをくらって、どちらかといえば左っかわに立っています私はてな人たちの票を共産党から奪おうとしている。
憲法9条堅持、日米同盟反対、原発反対、新自由主義経済反対、安倍やめろetcな考えの持ち主でも、ずばりモロに共産主義や社会主義を連想させる党名を嫌う人の方が圧倒的に多く、そういう意味でも立憲民主党というネーミングはなかなかあれでGJだと思うのだが思うだけで、来る日曜日の選挙は俯瞰的に他人事のように見ている。
私にとって日本の将来なんかより問題はここ数日、早朝から深夜までのシフトが断続的に続き、疲労がなかなか抜け切れないことだ。
今日も今日とて電話で目覚めたのは昼過ぎだが、身体全体を覆う気だるさ、頭の中は明日は休みだからと飲んだ酒、少量といいながら残っており、靄がうっすらとかかったようでなんともやるせない。
お天気の方も蒼天突き抜けた秋晴れがやってこない。なんだこの曇天で低温続きは。気象が完全に狂っている。
「霧越邸殺人事件」。やっと解決編というところまでたどりついた。エラリー・クイーンなら「読者への挑戦」の一文を挿入する位置である。
564頁め。読み始めたのは先月27日。3週間近くかかったわけだ。このような総頁690頁の大長編を読むのは体力と集中力記憶力が必要で若い頃なら夢中になれば1日で読めたものだが、今はあかん。加齢をひしひしと感じる。
「あれれ、こんなこと書いてあったかなあ」と一度読んだ箇所を確認、といった行きつ戻りつを繰り返して、この遅さとなったのである。
そんな体たらくだから頁ここに至ってもまだ犯人が思い出せない。
(ここより内容に踏み込む)挙動不審で何かに怯えていた、言い換えれば一番怪しげ男が殺されて第4の殺人となった。
この男は探偵役と同様、邸の住人も含めた人物のリストから何かに気づいたらしい。第2の殺人の時もうわ言のように「違う、違うんだ」と意味不明なことを叫んだり、一人この邸から脱出しようとて吹雪の中で凍え死にそうになるところを引き戻されたり、この男が持っていたウォークマンの電池が切れていたはずなのに、探偵役が今一度確認したら作動したり。
この男そのものがなにか重要な手がかりらしいのだが、はてさてさっぱりわからん。
それを今から説明するために探偵役の槍中は邸の住人も含めて、生き残っている登場人物を一室に集めたのである。
「名探偵皆を集めて『さて』と言い」の川柳で揶揄される、本格推理小説ではおなじみのシーンである。
皆が集まったところで槍中は「背筋を伸ばし、もう一度ゆっくりと皆の顔を見回す。大きく一度深呼吸をしてから、槍中は『さて』という古典的な文句で話を始めた」の記述には思わずニヤリとした。



秋梅雨と呼べばいいのか、先週の後半からずっとぐずついた空模様が続いている。


日の最高気温も20℃を下回ることが多くなった。


アスファルトのくぼみに出来た水たまりに、早くも色づいた葉が浮かんでいる。


予報によると今日の午後から晴れ間が快復しそうだという。


「霧越邸殺人事件」。やっと500頁に到達。今から内容に触れる。当該作品未読の方は要注意。


第3の生贄は記述者である「私」すなわち鈴藤稜一こと佐々木直史が心寄せていた女性劇団員芦野深月(芸名)である。


それはいいのだが、この作品においても「探偵役がいるのになぜ連続殺人が起こるのか?」と「本格」がいつもッコまれるパターンを踏襲している。


これは「番組が始まって10分後に水戸黄門が印籠を出していれば、暴れん坊将軍吉宗が『余の顔を見忘れたか』とミエを切っていれば、あるいは遠山の金さんがお白州で諸肌脱いで桜吹雪を見せていればとっくの昔に事件は解決していたじゃ~ん」というツッコミ同様、ものごとには暗黙の了解やお約束事があることを知って知らずか無視した無粋な物言いではある。


それをふまえて、つまりは無粋は承知のうえであえていう。


探偵役の劇団主宰者槍中秋清のなんとマヌケなことよ。


見立て殺人が2日続けてあったわけである。降りやまぬ豪雪で邸が孤絶状態、電話が何者かによって不通の状態にされ、警察に通報できない状況はわかるが、それならばこそ犯人に対して最大限の防御策をとるべきだろう。


2回も殺人があれば、とりあえずか弱き女性たちをそれぞれの個室に留まらさず、サロンならサロン、食堂なら食堂と衆人環境にある大きな部屋に集めて、自らを含め男性陣たちで警護するのが普通だろう。


2回もそのどちらも大向こうを狙った見立て殺人である。


尋常ならざる異様な殺人が立て続けになされたというのにまるで無頓着なのである。


探偵がマヌケなら、名探偵の引き立て役として設定されているワトソンやヘイスティングスにあたる鈴藤とて相当ヌケている。


邸の玄関に近いホールに深月そっくりであったという、邸の主の亡妻の肖像画が飾られてあったのが、鈴藤の目の前で音を立てて壁から外れずり落ちるという出来事があり、さすがに慄いたものの鈴藤は槍中にすぐと報告した形跡がない。


いかにも見立て殺人の前兆にふさわしい派手な「演出」そのものの出来事である。


深月が殺されてから「肖像画が落ちた時にもっとそれを追求するべきだった」と、あんた今さら何言っているのと呆れてしまう自戒に頭を抱えているのだ。


綾辻行人があえてわざと槍中や鈴藤の迂闊さを描いたのかは、これからそろそろ始まりかけている解決編を読まない限りなんとも言えないが、両名のこの迂闊や無頓着に言及せず事件大団円となれば、いかな「本格」のお約束事とはいえ、ちょっと許容できないなと思う。


社会派ミステリのリアルさ追求のためのとことん虚構性を廃した描写も興ざめだが、かといってどう見ても登場人物にストーリー展開やトリック解明のために不自然きわまりない動きをなさしめることを合理化する記述も頂けないものがある。


といったことをあれこれ考えながら首を傾げつつ、牛歩ののろさをもって頁めくりを少しずつ進めていく。


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