5年で勝手に12kg減量した。

朝から比較的暖かい。やや春めく。
2ヶ月ごとの検診で近くのクリニックへ。以前から「そろそろ頸動脈エコー再検査を」とドクターから言われていたので受ける。
5年前にこの検査をしてもらい、その際右首筋の頚動脈管に2mm大の脂肪の瘤が見つかった。
これを放置しておくと、いずれ血栓となり動脈圧迫、そしてBURN!悪くて死、よくても左半身麻痺となるそうな。
ドクターはそれが気になるからとかねてからおっしゃってくださっていた次第である。いい先生だ。
結果的には今回の検査で瘤はいくぶんか小さくなっていたのだが、こういうものが頸動脈にあることだけは忘れずに養生を心がけてくださいと釘を刺される。
5年前の検査の時量った体重は83kgであった。今日は71kg。気まぐれに家にある体重計で量ることがあるが3年ほど前に80kgを、2年前か去年に75kgをそれぞれ切ったことは覚えている。そして今日のこの体重である。
5年間に12kgを減じたわけだが、意識的にダイエットに励んだ憶えはない。好きなものを好きなだけ食らい呑みたい酒をパカスカ呑んでいた。
まあ、人間年とれば勝手に体全体が縮小していくもので、これはこれで理にかなっていることかもしれない。
image娘が知人に穴子弁当をもらってきた。穴子は嫌いだからとこちらが断れない立場にいる相手にもらったものとかで、オヤジ食えというので喜んで頂戴した。穴子ふんわり柔らかく、上品な味わいのタレがご飯にほどよくしみて、ほんに美味しゅうございました。

歌詞の文学性

さて、とばかりに書きだした今は午前0時30分。
晩飯どきの酒が私の後ろ髪を引くというより、ぐいと束ねて離さず、まだ焼酎の湯割りをちびりちびりとやらせている。
この分では明日、いや正確には今日は二日酔いは必定。さっさと眠ればいいのだが、なぜか心たかぶりそれが出来ず、漫然とネットで遊んでいる。
昨日の記事でふれた鼻歌の一節は井上陽水の「FUN」である。日本の音楽史上の名盤である「氷の世界」の中の1曲。
You Tubeで見つけた現在の陽水が小ぢんまりとしたスタジオでアコギ中心の編成で歌っている動画。
これが素晴らしい出来で、違法を承知で酒の力を借りて(笑)ここに貼る。(livedoorブログサービスの変に親切なところは、ある程度の時間がすぎれば、こうした明らかに著作権法に触れている動画掲載を勝手に削除してくれることである。livedoorさんお願いしましたよ)
陽水は現在69歳。若いころの声量とキーの高さはさほどからわず、本当に歌がうまい。そして彼の歌詞は歌詞でなく文学詩レベルである。
ボブ・ディランがその歌詞でノーベル文学賞を受賞したが、陽水の歌詞もそれに匹敵する文学性を秘めている。かつて「ユリイカ」という詩の専門誌が彼の特集を組んだぐらいだ。 


ある日の記事で眼鏡のことでジョン・レノンのことを採り上げたが、彼の歌詞も非常に素晴らしい。ビートルズ時代の「Strawberry Fields Forever」「Happiness Is Warm Gun」「Across The Universe」、ソロ時代の「Love」「Imagine」など枚挙にいとまがない。
特に「Love」はあんなにシンプルな表現で、人を愛することのすべてがここに集約されている。愛についてこれ以上何を表現すればいいのだと言えるほど凝縮されている。
私はこれらの作品群にもうひとつ「#9Dream」を加えたい。
一番好きな箇所を引用する。横着して辞書も引かずヘタな訳で汗顔の至り。

Took a walk down the street
Through the heat whispered trees
I thought I could hear
Hear, hear, hear
Somebody call out my name
“John…、John…”
As it started to rain
Two spirits dancing so strange

通りを歩いていると、暑気の中で木々たちが
囁くのが聴こえてきた、そう、聴こえてきた
何かが私の名前を呼ぶ、ジョン、ジョンと
いつのまにか雨が降ってきて二つの魂が踊っている
とても不思議なことだった

といった内容で、これのどこが文学だと言われると、そう思うからとしか答えようがないが。
 

書いているうちに午前2時前。無理にでも寝よう。こんな不思議な夢を見られたらいいのだが。

今日は素敵なValentineday to(or for) me

晴れ。予報がいうほど寒くなし。
家人たちよりチョコレートもらう。一応手作りでピンクや濃紺の包装紙にリボンなんかかけてある。「人様に贈るのならともかく。食えば後はただのゴミなんやから家族の間でこんな無駄なことをするな」と言い聞かせていても治らない。
まったく女人といふものげにつまらぬことに神経と黄白を費ひたがる動物ではある。
いやそれ以上に、チョコをもらったもらなわい、手作りや高価なブランドチョコだから本音、それ以外は義理でどうのこうのといい年をした大人、しかもおっさんたちがこだわり、そしてはしゃぎたがる。
いやいや、あえてそういうことにこだわって一喜一憂しているふりをしてみせるのも、余裕のある大人の態度だと言えないこともないが。
若かりし頃、バレンタインデーから遠く離れた時期なのに「チョコレートは甘いからあんまり好きやないなあ。ウィスキーボンボンやったら別やけど」と一言もらしたばかりに、それこそ全国に散らばった女性たちからぼんぼんとウィスキーボンボンばかり2月14日の前後送られてきて往生した者にとって、今さらバレンタイン云々と騒ぐのは。フフッ…
と自分で書いていてもあほらしすぎる駄法螺だが、ウィスキーボンボンが好きなのはこれは本当で、あればかりは手作りはなかなか難しく、気が向いたら自分で買うことがある。
私の、すでに亡くなった叔父はむかし日本郵船の船乗りだった男で、世界各地の港町にゃ俺の女が待ってるぜ、と言っては叔母に怒られていたものだが、日本では見ることもできない外国のお菓子を土産に買ってきてくれた。
中でも、もはやどこの国のものだったか覚えていないが、ウィスキーボンボンをもらったことがあり、その美味さに大仰でもなく驚天動地の思いがしたものである。
チョコレートの甘さと、それがファーストコンタクトであった酒という未体験の味の組み合わせの妙は名状しがたいものがあり、絶妙な味わいに子供ながらに陶然とした。
2個以上食べようとすると「あかん」と言って取り上げられたが、時すでに遅し、今に至る酒好きの素地がウィスキーボンボンによって潜在意識の中にきっちりと縫い込まれた瞬間であった。私の酒デビューはウィスキーボンボンがそのステージだったわけである。
IMG_4702窓の外の街は暮れなじみの中にいる。暮色に明るさが増してきた。口の中でチョコレートが温かみを帯びて溶けていく。
“ため息まじりの夕暮れ、エナメルの靴も濡れてる、帰り道の水たまり、よけて通ることもない♪”…つい下手くそな鼻歌が出てきた。

築1万年の家を見て帰る。

昨日よりの寒さのやわらぎが今日へと続く。木曜金曜には昼間は17℃ぐらいまで上昇するとか。しかし週末はまた寒気が下りてくるという。
たしかに三寒四温だわな。2月も半ばになり春への寒暖のサイクルはほぼ規則的になっている。
今かけている眼鏡は今年の夏で丸5年の使用となる。黒色のセルフレームだから色落ちが激しくなってきた。
セルフレームの色落ちの応急処置には研磨剤入りの歯磨き粉が有効で、私はセッチマを歯ブラシに少量つけて、問題の部分をホコリを払うかのようにこすりつけては離す。完全に解消はされないがかなり復元出来る。
それはそれとして、そろそろ眼鏡をレンズごと買い換えたい。
老眼の進み行き具合が激しく、新聞雑誌書籍書類チラシスマホの画面これすべて裸眼を思いきり近づけないと見えない。
それ以外を見る時はつい眼鏡を下にずらし、上目遣いにジロという目つきで見てしまう。その時無意識に口は閉じてへの字の線を描いている。
これでは完全に典型的なオジイチャン、それも頑迷固陋という四字熟語付きのうるさ型、いつも何かに腹を立て、ちょっとしたことで瞬間湯沸かし器よろしく怒りが爆発して「けしからん!なっとらん!責任者呼べ~」と一人で喚いている、よくありがちな爺さんのそれである。
次の眼鏡はかねてから念願のジョン・レノンのあの丸眼鏡型にしようかと言えば、家人は「何がジョン・レノンや。あんたが丸い眼鏡かけたら田舎の学校の校長センセやわ」と嗤い、私の男前プライドをズタズタにしてくれた。
近くのスーパーへ行った後、天気がいいので遠回りして帰る。遠回りの帰途、なんと築1万年の住宅が展示されていた。こんなもの誰が買い住むのだろう。
南天(と思う)と梅(これも、そう思う)、それと海峡(これは誰が見ても間違いない)が、早い春のまだ幼なすぎる陽光に温められている、2月の静かな昼下がりの遠回りだった。
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ネットの進化、人間の退化

昨日の夕方、それまで晴れていたのが一天にわかにかき曇り西の方から厚ぼったい雲があっという拡まったかと思うと雪が斜めの線を描いてちらついた。
小一時間ほどでそれは収まったが、これがなごりの雪になればと思うのはまだまだ早計であろう。
しかしここのところ、日差しそのものには暖かみが増しただけでも光の春が到来している証左で、春に向かっているのはたしかであるが。
早朝のテレビで「ぐるなび」の社長が紹介されていた。インターネット(以下、ネット)黎明期に早くも今のネットビジネスモデルを創りあげたという。
1996年のことである。当時社長は50代半ば。元々コンピュータいじり好きだという素地があったとはいえ、あの時代に50年配で、ネットが今にメディアの中枢となることに賭けたのは非凡という他はない。
ちょうど同じ頃に40代手前であった私もパソコン通信からネットに軸足を移していた頃で、マシンはIBM製のAptivaなるコンシューマ向けパソコン、OSはWindows3.1でブラウザはNetscape Navigator、通称「ネスケ」や、当時パソコン通信のガリバー的存在であったニフティサーブのパソ通専用ブラウザ「Nifty Manager」を通じてWeb1.0時代のネットにしこしことアクセスしていたものである。1995_0927_NIFTYManager_m
HTML言語で簡単なプログラムを書き、それをFTPでネットに上げてはパソ通で知り合った同好の士と「見せ合いっこ」をして喜んでいたというのだから無邪気なものだった。
あの時に「ぐるなび」社長のように目のつけどころが人と違っていたならば今頃私とて…、と詮無くホロ苦い笑い感慨を抱いたものである。
今や老若男女賢者愚者問わず、HTMLやCSSなど知らずとも、どころかOSやブラウザって何やのん?と驚愕すべきことを平気で口にするオッサンオバハンですら、ごく自然に当たり前のように指先ひとつでネットに触れている。
時代は変わったものだとつくづく思う。そのことの是非は措いて。
元女性アイドル歌手が踏み切り内に無断で立ち入って、友人とのツーショットの画像を自分のブログを通じてネットにアップしたことで警察が動き出し、元アイドルが謝罪したというが、時効だから書くが、私も同じようなことをしでかしたことがある。
JR線と民鉄線が平行している区間で、両者の車両が並列して走る様が撮りたく、片棒型の遮断機が下りている踏切内につい足を入れてしまったところ、前方からやってくる列車の車掌が身を乗り出し、こちらに向かって手を振って「入るな!」と告げている。
車掌の指示はもっともであわてて私は遮断機外に足を引っ込めた。当時の撮り鉄は今の一部の無法撮り鉄のバカタレどもとは違い、自分のおこないが子供でも理解できる間違いであること承知していたので、遮断機ごしに目の前を通過する車掌に向かって手を合わせ「すんません、ごめんなさい」と大きな声で謝り倉皇としてその場から退去したものである。
たとえ片足だけとはいえ遮断機内に入れた私という馬鹿者のせいで列車が速度を落さざるを得ず、その結果ダイヤが乱れ、という事態に至れば目も剥くような損害賠償の請求書が来る。もちろん警察も黙ってはいない。
それを考えると家に帰ってからもそこは生来の小心者、胸の鼓動止まらず、以来あんなことは二度とやっていなし当然やる気もしないが。
あの頃、TwitterやInstagramなどあるわけもなく、したがって今のように電車の中でうかつに鼻もほじれない、SNSツールを使った、言葉は悪いが「一億総チクリ相互監視社会」到来など夢にも思わなかったから、かのような愚行をしでかしてしまったのだが。
それを考えると先述した「時代は変わった」感がぐっと増す。しかし馬鹿げた行いをネットに載せて関西弁でいう「いちびり」を不特定多数に披露すればどういう結果になるか、そんなことすらわからない輩が増えているということは、ネットの進化と見事に反比例して人間そのものがおそろしく退化しているという実感は否めないところではある。

街の中の森

晴れ時々くもり。厳寒変わらず。ただ予報された雪はちらつきもせず。
読む本がないので押入れから松本清張「地の骨」を取り出し読む。自分が作成した入試問題原案を情事の後、女と乗ったタクシーの中に忘れてきたというのが小説のオープニング。そこから名門私立大学内における教授や理事たちの派閥争いの人間模様が描かれていく。
30年ほど前に一度読了しているが、おおまかなストーリーは覚えているものの細部はすっかり忘れている。
清張といい乱歩といい日本の推理小説のマイルストーン、エポックメイキングな作家はその短編群は秀作揃いだが長編はほとんど駄作が多いという不思議な一致をみる。
「地の骨」も同様。ご都合主義的なストーリー展開はもはや清張長編の「芸」のひとつである。
部屋に閉じこもって本ばかり読んでいると体がなまって仕方がないのだが、さりとてこの寒さでは散歩に出る気もしない。
私の家の近所は高低の起伏にとんだ雑木林が多く散歩に好適で、いわゆる街の中の「森」にことかかない。
街並みの中の森は気楽に日常から非日常に入り込める場所だ。DSCN5265
幽霊お化けその他狐狸妖怪の存在などいっさい信じない私であるが、街の中の森に入るとなぜか妙にそういう類に出くわすかもしれないと思えるから不思議である。
街路から直接見やる太陽よりも、木々の間に垣間見える太陽は森のあちらこちらをまばらに照らしだし、木々たちには精霊が宿り、その呼び声で名も知らない草花から妖精たちが出てきそうな錯覚にとらわれたりする。
森の向こうに日常のシンボリックの最たるものであるスーパーの看板が見えているというのにこのチグハグ感はなんだろう。
もう少し暖かくなればこの不可思議なチグハグ感を味わうために出かけよう。

空気の変化がわからない鈍感力こそ最強。

寒いというのはもう書き飽きた。兵庫県南部でも雪がちらつくという予報があったが、まさにその通りとなりそうな朝からの気温の低さである。
三寒四温というが、先週末のわりと温暖だった日和が、誰かさんのなんとかの一つ覚えである「Fake News!」であったかのように。image
空気の寒暖の変わりよう、落差に少しでも敏感な人ほど風邪をひきやすいのは当たり前。
逆に鈍感な人間は幸いなるかなである。空気の変化に気づかずにいられるから、凍てつく寒気にも平気の平左、たとえ少々薄着をしても風邪をひかないのだろう。
上に下着やネルシャツ、セーターを含め4~5枚を重ね着、下も厚めの紳士用のスパッツを履きこみ、その裾を登山用かと紛いそうなこれもまた分厚い靴下で巻き込んで、今ところなんとか風邪の侵入を防いでいる私にとっては、鈍感力の塊は冬の最中でもTシャツと短パンだけで歩けるんだろうなと羨ましい限り。
昨日の夕方あたりから妻と娘がチョコレート作りに励んでいる。毎年おなじことを飽きずにやっている。チョコレートの甘い匂いが茅屋の中を漂って消えない。
バレンタインデーまで短い。この日本独特の風物詩的な年中行事としてすっかり定着したイベントのCMは未だ「女子学生が憧れのクラスメートや部活の先輩男子に恋の告白の代わりにチョコレートを食べて」という、今の時代に少女漫画も鼻もひっかけないシチュエーションが圧倒的に多い。
時代錯誤もいいところである。私ら60代突入目前の世代が中高生の頃じゃあるまいし、今は同性の友人同士、女性だけでなく男性の友人同士の交換もあると聞く。家人たちのチョコも友達にあげるものだとのこと。また自分が頑張ったご褒美として1粒1000円もするような高級チョコを買って自分で食べるケースも多い。
バレンタインなど日本の菓子業界の陰謀で踊らされているだけ、日本人だけだけだよ、あんなもので騒いでいるのは、という意見もあるが、まあお祭りみたいなもんでええんでないの、それだけ消費も増えて市中にお金が廻っているけど。もっともそうやってチョコレートが産み出した、循環するお金の甘い味は結局最後にはお金持ちだけが味わえるようになっているのだけど。

銀行に財布忘れて令夫人に拾われる。

とにかく寒い。雨は昼過ぎに上がったが寒気ますます募る。予報通り今週末は肚を決めておかなければならぬ極寒に襲われそうだ。
雨小ぶりとなった時、家ちかくの銀行に所用があって出向く。銀行から出てスーパーに入って買い物しようとスエットの後ろポケットを探ったら財布がない。
さては銀行ATMコーナーで忘れてきたかと小走りで銀行に戻る。
窓口で財布の拾得の有無を確認すると、窓口嬢がお客様の後ろに座ってらっしゃる方が届けて下さいましたよ、と言うものだから、慌てて振り向くと長椅子に腰かけているご婦人がにっこりと首肯する。
思わず、居ずまいを正してほぼ直立不動となり、深々と頭を下げお礼を申し上げた。そして「お礼をいくらか…」と言いかけてやめた。
ご婦人のいでたちは誰が見ても高価なものとわかるキャラメルカラーのレザーハーフコート、襟元のマフラーはワインカラー地に縫い込まれた紋様からしてあれはたしかヴィヴィアンなんちゃらとかいう英国ブランドものと推定、お顔立ちだけでなく醸しだす上品オーラは、どストライクで「令夫人」という言葉が似合う女性である。
こちらとて、きれいに整えられた口ひげのひとつも生やし、今どき死語であるがロマンスグレーの頭髪をゆったりと分けて、オールカシミアのロングコートでもまとい、懐中にてダンヒルの長財布が何十枚かの万札で丸みを帯び、カードポケットにはアメックスやダイナースクラブ、VISAあたりのブラックカードがずらりんこと燦然と並んでいるといった日々の生活を常に莞爾と微笑んで送っていられる、物心ともに余裕というものが佃煮にするほどある身ならば、ここはひとつ「奥様、誠にありがとうございました。お陰さまで助かりました。お礼にと申し上げたら大変に不躾で失礼ですが如何でしょう、ちょうど時分時です、この近所のホテルのレストランでランチの粗餐を差し上げたいのですが、エスコートさせてくださいませんか」くらいはしゃらっと言えるのだが、悲しいことになにせ緩みに緩みまくりのスエット上下、化繊のセーターとこれまた化繊ダウンのジャンパーを着こみサンダル履きの靴下はずれそうで、どこからどう見ても小汚い貧民オヤジの顔半分は一昨日から剃っていない無精髭が覆っていると来たもんだ。
忘れた財布の現金738円のみ、カード類ちゃあヤマダやヨドバシあとはファミマの、つまりはポイントカードばかりが無造作に差し込んである折財布、スーパーの小物コーナーのワゴンで1000~2000円くらいで売られていたブツである。
おそらくかの令夫人もATMの上の棚みたいな場所に置き忘れられたこいつをおそらくきちゃないものをつまむような手つきで窓口まで「お忘れになっているみたいですよ」と運んでくだっすったと拝察申し上げる。
それがなんだってえ?「お礼に…」と言いかけただってぇ~?どの口でそんな気の利いたことを言おうとしてたんだ、ああん?おまえさんがそんなことを令夫人に言うこと自体、いやいや考えた時点で失礼の極みっだってーの、やめとけってーの、という自嘲の念が一瞬の判断となり言葉だけのお礼とさせていただいたのである。どこの令夫人かは存じあげないが、この場を借りて再度深謝申し上げる。
弁当と書いているうちに窓外より陽光射しみ、室内もそれにつれてやや暖かくなってきた。今日は弁当持参で外に出る。

二日酔い解消のために書いた。

晴れ時々曇り。朝からの冷え込みのきついこと。
エアコンの設定温度を27℃にしてところで、手指のかじかみがなくなり背中がやや温かい程度。築ウン十年の安マンションは古い分だけ隙間も多い。
お金があれば神戸なら三宮あたりの高級タワーマンション、あるいは灘区東灘区その隣の芦屋の山手のマンションに移り住みたいが、サマーや年末ジャンボ宝くじが当たらない限り夢の夢。IMG_0026
という前ふりを書いたのは、昨夕その山の手の高級住宅街のマンションに住む人を訪ねて友人と出向いたのである。
日没後のこととて街の面貌ははっきりわからないとはいえ、居並ぶ戸建てはいかにもお金持ち住んでます泥棒に入ったら大型犬吠えますセコムALSOK飛んで来ますと言いたげに黒いシルエットをまだ遠い春の闇の中で浮かび上がらせている。
マンションも高級住宅地にありがちな景観規制のためか知らないが軒高は低め。その分というのか、一室一室間取りが大きそうでほとんどのエントランスはオートロックとなっている。居住者がロックを解除して入るその背中に「くっつき虫さんダヨ!許してね」とおどけながらペタッと引っ付いて入り込むしか正面からの侵入方法はない。
人に道を尋ねながらやっと行き当てたマンション。そのエントランスはオートロックではないが、たっぷりとスペースを取っている。しかもエントランスの窓越しに見えるパーキング。おおあれはジャグアーではないかい、その隣はうわ!ランボルギーニ。豪儀なもんだな、あそこにはシトロエンとは渋いねえ粋だねえ、そこへいくってえとうちのマンションなんぞはええとタントだろ、カローラにオフロード、ステップワゴンだったかな、それら国産車オーナーには失礼だがやっぱり見劣りするねえ、しっかりしろいもっと稼がんかい、とクルマどころか免許もない私がエラソーに何を言うか!
マンションの一室から出てきた女子というより女史とは先週も呑んだ。今週は連れもってやってきた友人と合わせて都合3人、最寄りの駅前の焼き鳥屋へと消えていった次第である。
帰宅したのは日付が変わってから。先程まで二日酔いの頭を抱えて唸っていた。えいや!と跳ね起きてキーボードで心に移り行くよしなしごとをこうして綴っていくうち、幾分か脳細胞が活気づいてきた。
脳細胞といえば灰色の脳細胞名探偵ポワロ、そういえば件の焼き鳥屋でクリスティの「アクロイド殺人事件」についてああだこうだと論じていたのを今思い出した。
典型的な「先にやったもの勝ち」トリックであまりにも有名な作品。誰でも思いつきそうなトリックと言えないことはないが、伏線も含めたコンテクストを巧妙に構築しておかないとアンフェアと謗りを受ける羽目になる。
カーとともにクリスティもこよなく愛しリスペクトしていた横溝正史がある作品でこのトリックに挑んだが、角川文庫のその作品を3分の1ほど読んだところで「ああ、これはあれやな~」と得意気に見破った生意気盛りの高校生が42年前にいた。
その高校生は「俺ってもしかして天才かもわからんなあ。測ったことないけどIQ200はあるんとちゃうか」と本気で思っていたらしい。生きているとしたらどこでどうしていることやら、どうせたいしたおっさんにはなっていないだろうな。

嫉妬と猜疑心の塊のまま墓場へ行く。

未明から起きて、この時間帯特有の通信販売の長尺CMを寝ぼけ眼でだらだら見ながら、のそのそ着換えをする。
テレビはやがて各局本日一番のニュース番組放映の時間帯と移る。
凶もしくは狂の字が頭に付く寒波が日本列島をすっぽり覆っていると報じている。
列島各地のリアルタイムの絵に「どこそこは昨日の夜からよく冷えています」などとアナウンサーなりキャスターが言う。
「よく冷えてます」か。そういえば昔の喫茶店の入り口に「冷房運転中。店内もスイカもよく冷えてます。かき氷やってます」みたいな貼り紙がしてあったなあと「ひょんな」といった感じで思い出す。
「冷房中」「冷やしスイカ」といった言葉から遠ざかって久しい。その手の惹句に釣られた父親に連れられて喫茶店に入り、店の一段と高い場所で鎮座ましますテレヴィジョンの角の丸い画面の中で、高校野球中継を観ていた記憶がある。
当時は小学高学年。喫茶店という場所に初めて入って、ちょっと大人になった気分。学校で級友たちに「喫茶店に行ったんやで」と、さぞかし今でいうドヤな顔つきで自慢していたのだろう、と容易に想像がついてほぼ50年の時を隔てた自分が突如眼前に現れたようで苦笑してしまった。
あの頃は物象のすべてを素直に自然に精神が吸収し何の疑いもなく消化していた。
大人になるにつれていらぬ方に知恵がつき、自分の未熟さと経験知の不足を、雑食的に読み重ねた本を通じ得て歪に鍛えられた想像力のみで補完する癖が乗ずるにつれ、心に徐々にひずみというものが出てくる。
虚心坦懐に物事を捉えることが困難になり、それが人によく指摘されるところの「自意識過剰」の増幅へとつながったと自己分析してみる。
人の心理をさきほど叙したいささか不健全な想像力でもって勝手に先回りして憶測し、時として「よくまあそんな風に解釈できるなあ。何もそんな風に思っていないのに」と呆れられることもしばし。
呆れはやがて私に対する嫌悪となり、これが人にあまり好かれる方でない人格を形成し、性格に角がこびりついて離れず、嫉妬と猜疑心を生み出す土壌となってこの年まで来てしまった。
すべてを達観し解脱の状態となり、心穏やかに過ごせるようになるにはもう遅すぎるだろう。
父親に喫茶店に連れて行ってもらったことを単純に喜んでいたイノセントな少年は、あっという間に私の前から消えていった。
少年は消えていく刹那くるりとこちらを振り向いた。それは顔じゅうに醜悪な皺を刻みつけ、上目遣いの三白眼は人の真意や肚を探るかのように底光りしていた。image
少年はしゃがれた声で哄笑とともに「これが今のおまえだ、そしてこれからのおまえだ」と言うなり消えた。立ち尽くすしか私は為すすべがなかったのだ。
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中津川秀明/神戸在住のアラ還オヤジ
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