他人に自分の人生乗っけちゃいかんわな。

今日も暑かった。午前中の曇り空は湿度の高さの尾を引いて巧妙に午後からの晴天に紛れ込んでいたのか、ねっとりとした熱気が余計に応える。
予報によると今月いっぱいこの猛暑、いや狂暑が続くという。
大食らい、ご飯派の私でもさすがに朝はサンドイッチや菓子パンにリンゴジュース、夕方は素麺を中心とした冷やし麺しか、このところ食が進まない。image
国会議員上西小百合の対浦和レッズおよびサポーターとの一連のトラブル。
特に「他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ」との彼女のツイート、あれだけは正鵠を射ているじゃないか。よく言ってくれたと喝采したい。
image他人の人生に乗っかるような生き方しか出来ないから、彼女の計算ずくの挑発にまんまと乗せられるのだ。ちぃとは頭を冷やせよ。
人に惚れたり人を愛したりすることは人生においてとても大切なことだが、20パーセントは惚れたはれたでのぼせ上がった自分を冷ややかに見つめる部分は残しておけよ、といいたい。
自分の人生の主役は我一人だ。他人が廻す舞台で猿廻しの猿のようにテンツクテンツク踊ってどうすんのよ。
もっともそこまで忘我の境地で熱狂できる対象があって羨ましいちゃあ羨ましいが。
俺はあかんわね、すこしでもオーバーヒートしだしたら、もう一人の俺が「あ~あ調子こいてバカやって」と水をかけてくれるから。
裏返せば自己中というのか自意識過剰というのか、だからこそ「自分の人生の主役は俺一人だけ」と言い切る自信があるわけで。
「人生の時間は限られている。他人の人生を生きることで時間を無駄にしてはいけない」。
これはスティーヴ・ジョブズが生前、スタンフォード大学の卒業式に招待された時に記念スピーチで語ったことだが、上西小百合と言っていることはほぼ同じこと。
ジョブズのは名言だと称えられ、上西のは炎上狙い(実際そのとおりなんだが)と叩かれてえらい違い。
言葉の送り手は死後もIT革命の象徴的存在で受け取る側がアメリカの名門大学生、片や…送り手があれで受け取る方も…、ま、知性の違いでしょうか。

鱧が食べたい鰻がたべたい

猛暑が続く。先日日本各地の梅雨明けが揃ったのだが、いつ梅雨があったというのだ。晩春から一気に真夏へワープさせられた感ありの今夏である。
7月月初から猛暑日の連続。去年もそうだったが、8月半ば頃より台風が発生し、9月初めには初秋らしい空気の冷たさを感じた。
猛暑といえばいまだ2010年夏の記憶が強烈である。あの年は9月終わり近くになっても、あまりの太平洋高気圧の強さに台風がなかなか発生せず、今年同様7月から酷暑に見舞われ、その状態が2ヶ月も続いた。
今夏だが、一昨日より太平洋に複数の台風が発生、これはもしかして去年同様8月に入ってまもなく狂の字をつけてもいい暑さも一段落するのではと期待している。
明後日25日次の26日と仕事は休み。そして25日の大阪といえば「天神さん」、天神祭である。
休みの日と天神祭が重なるのは初めてである。大阪の放出の実家へ行った後、東西線での帰途に大阪天満宮駅がある。
と、ここまで書いただけで、かの日の宵闇以降の人群れと南北を貫く天満の商店街の軒先を借りた夜店出しのにぎわいが目に浮かんでくる。
前に勤めていた会社が天満宮を氏神とするエリアにあり、25日はあの辺の会社のほとんどが午後から開店休業状態。
午後3時に陸渡御が始まる。神輿渡御の行列が天満宮を出発、天神橋筋を西へ渡る。そこから老松通り。通りを牛車を伴い天満警察署前の大川の浜まで練り歩く。神事はそこで船渡御へと変わる。仕事なんかやれる気分ではない。
早やオフィスで缶ビールや缶チューハイなどで軽く出来上がった状態で、夕暮れの中やおら祭見物に繰り込む。
天神橋から船渡御のあかりと打ち上げられる花火のきらめきが川面に映り、それが万華鏡のように変化し、橋の上を浴衣姿の女性たちが川面の明るさに影絵となって行ったりきたりする姿を見るだけでも祭の興趣は極まる。
花火も終わり、商店街のアーケード下を天満駅方面にそぞろ歩きながら、我が社御用達のスナックへと。
お待ちしてましたとばかりにママとチーママがにこやかに渡してくれるお絞りで祭見物の汗と喧騒をぬぐい去る。お絞りの熱さがうれしい。
心得てますよと阿吽の呼吸でカウンターに並べられるのは、ガラスの小鉢に器用に渦を巻かせて盛りつけた一つかみ分の素麺、涼やかなる皿に敷き詰められた氷の細片を敷き布団にしている鱧の湯引き。鱧の白さと梅肉と刻み紫蘇との色合いがまたなんとも涼を呼び込んでくれる。
それらを肴によく冷やされた吟醸酒をあおればもうなにもいらない、と心底思う。
明後日の25日もそうしたいのだが、この暑さは夜とて同じで、うんざりするような熱気に人いきれが加わると余計に体感温度が上がる。
祭の余韻と酒の酔いがおりなす気だるさ、ある種の寂しさを遠く神戸の西端まで運んで帰るのは億劫きわまりなく一考を要してしまうのである。
それはともかくこの季節、呑んべえには鰻と鱧は欠かせない。DSCN0413
鰻は蒲焼きもいいが、うざくも格別だ。
胡瓜嫌いの私だが、刻んだ胡瓜と鰻を甘酢で和えたものは、こういう出会いものを最初に考えた人に拍手を送りたい。
胡瓜の青臭さ、鰻のそれが旨味であるがクドくもある脂の欠点を酢が見事に調和させて、格好の酒の肴となる。
鱧については先述したので略すが、これらを相手に奮発して買った大吟醸の冷やを飲りながら、エアコン涼しきリビングにて、テレビで中継される天神祭の模様を眺めるのも一興であろう。
鰻と鱧のコンビを誘致するには我が家の財務大臣の認可が必要だが、そこは一家の総理たる私の強いご意向を忖度してくれることにほのかに期待するしかない。

三次喫煙で喫煙者はハエやゴキブリと同じ。

「三次喫煙」の害が注目されている。
喫煙者本人が喫いこむことを一次喫煙、喫煙者の周囲にいる人がその煙を喫わされることを二次のそれ、三次というのは喫煙後の喫煙者の衣服に付着した発ガン性物質が空気中に拡散されて、喫煙者が移動するにつれて誰彼なしにそういった有毒物質を吸入させられていることを言うらしい。image
ハーバード大学医学部にある研究機関がこれを世に問い警鐘を鳴らしている。
まさに喫煙者そのものがガンの媒介、いわば病原菌をそこらじゅうにまき散らしているハエやゴキブリ、ドブネズミと同等いうわけで、ますます喫煙者は肩身が狭い。
私も去年あたりから、それまで長年やめていた喫煙癖を本格的に復活させてしまい、今それをまた葬りたいがためにあれこれ努力しているのだが、この「三次喫煙」のことを最近知り、こりゃいよいよ崖っぷち、ホントに止めなきゃいかんわいと思った次第。
周囲に迷惑云々もあるが、それ以前に煙草たるもの自分の体にとって害になれこそ何の益もない。
一本の煙草を喫うことによってイライラが鎮まり、頭の働きが活発になり、というのはニコチンの麻痺作用が一時的にそうさせているだけで、それが続けば依存状態となる。なんのことはない覚醒剤を吸引もしくは注射しているようなものだ。
そんなことは百も承知だと喫煙者はいう。わかってるんやったら止めんかいな、と私も自分に言い聞かせているのだが、これがなかなかうまいこといかないから困っているのだ。
同じ合法である依存性物質であるアルコール、酒なのだが、酒は適量であればむしろ血行を促進し、山海の恵み珍味酒肴の旨さを引き立ててくれるという功労の部分も大きい。
「酒をとるか煙草をとるか」と二者択一を迫られたら当然前者をとる。
JT煙草の「echo」「わかば」など3級品銘柄でもきょうび1箱300円前後する。
私は2日1箱の喫煙量だが、月にして4500円も煙となさしめ霧散させてしまっている。
霧散は周囲への拡散となり、おまけに衣服についた煙草の匂いや上に書いた有害物質をつけたまま動くから、三次喫煙を考慮に入れると月額4500円年額54000円も出して自ら悪者となっている。世に害なすしかないゴキブリと化している。こんな愚かしいことはない。
と書きながら、また煙草に火を点けてしまった。噫々…。

ラブリー、少女漫画、ララララ〜

家内も娘も少女漫画が好きである。コミックスを買ってきて互いに交換しながら、暇さえあればむさぼり読んでいる。
それはいいのだが「俺も見せてくれや」と言っても彼女らはけっして貸してくれないどころか、読んでいる横からちょっと覗き見しただけで「見やんといて!もう!」と二人とも申し合わせたかのように本を閉じるのである。
なんともまあツレないことで。そういえば中学高校の時もクラスの女子が少女漫画誌やコミックスを読んでいる時に「なに読んでるの?」と雑誌や本を取り上げたら「やめて~返して!返せ!」と髪を逆立てんばかりに本気になって怒っていたなあ。
我が家の女連もそうだが、そんなに怒ることでもないと思うのだが、あの心理はまるで理解できない。
女連は勝手なもので私がこよなく愛する「ゴルゴ13」やら「こち亀」やら「野球狂の詩」(みんな古くてすまん。ちなみに里中満智子という偉大な少女漫画家の名前と作風は「野球狂の詩」で水島新司とコラボした時初めて知った)といったガチな野郎漫画を見ていると「ゴルゴっておもしろいのん。見せて」と来る。
私の「ええで」の答えも聞かないうちに、私が次に読むために机に積んでいたコミックスのうちから適当に持って行く。
そんなことをされても怒る気はないし、むしろ「おう、読め読め」と薦めたくなるのだが。
私は少女漫画の世界が嫌いではない。むしろ好きな方である。かといってさすがに単行本を揃
えるまでには至らないが。
斜めカットを多用した大胆なコマ割り、スクリーントーンはたいていパステルっぽさをなんとかモノクロで表現させたかのような、そうだな、春霞にその姿茫漠とした花畑模様みたいなやつが、って書いている私自身何がいいたいのかよくわからんが、要するにそういうのが使用される。
その中を主人公の女の子が両手のこぶしを口に当てて「・・・えっ!今のって。うそ、やだ!」とかなんとかつぶやく。(この箇所を書くためにいったん私はキーボードから手を離し、今書いたようなこぶしを作って口に当てて「うそ、やだ!」と口にしてみてイメージを喚起させた)
1頁2コマしか使わず、女の子は右上のコマ、左下にロンゲで体格やたら細く脚はすらっと長い、つまりは女の子が憧れる最大公約数的なイケメンのニイチャンの横顔のカット。垂れた髪で顔半分隠れている。口元はニヒルに歪んでいる。
で、次の頁で向かって右のコマでイケメンニイチャンは正面を向いている。
「だって、俺さ、なんつーかな、おまえのことをさ」
と言いつつ、その次コマでいったん髪をかきむしっている。そして次に女の子の頭の上の壁をドーンと突くわけです。「好きになったんだよな!」と決めのセリフとともに。
そして女の子の瞳がアップで描かれ、そうです瞳の中で星がきらめいているのです。少女漫画の肝です。
女の子の「んなこと急にいわれたって困るよ・・」ってセリフをものすごく小さなフキダシで言わせるか、フキダシなしで小さな手書きの字で書いてある。
少女漫画のこういうステロだが直球ど真ん中なパターンが好きで、少ないコマ数で女性の微妙な心理の綾を描くのは、こればかりは男性漫画家が束になってかかっても無理というものではないだろうか。
小説でいう行間を読みとれということに似たものがある。
そのテクニックに触れてみたいと、最近のコンビニは立ち読みさせてくれる店が減っているので、ブックオフあたりに出張って立ち読んでくるのである。
ところが気に入った少女漫画を手にしてもレジにそれを持って行く勇気がないのである。これがエロ本なら平気なのだが。
なぜに女性は男に少女漫画を見られることを極端に忌避するのか私なりに考えた結果は、登場人物の女性たちは自分たちの等身大のうつし身であり、それがため先述した微妙な心理の投影を男にさらけ出されてしまうからではないか。自分の裸を見られるよりもっとタイトなことであるからではないか。
このことに絡めて私が少女漫画をレジに持って行くのをためらわせるものは、男がけっして踏み込んではいけない女の心の襞の部分を冒そうとしていることへの自制が働いているのかもしれない。
ちなみに日本のフォークロックバンドであるチューリップに「ぼくがつくった愛のうた」という傑作があるが、あれを初めて聞いた時、ほとんど少女漫画の世界ではないか、揶揄的にではなく好意的にそう思った。
ラブリー、エミリー、ララララ~で始まる曲だが、ここまでラブリーでチャーミングなラブソングは他に知らない。「りぼん」や「マーガレット」の世界がここにある。

暑いから暑苦しいことを書く。

前回の「ひきこもり」の記事に関係ないとは言い切れないことを書いてみる。
人は安易に他人を励ますな、人は他人にそう簡単に自分の弱気(弱さではない、それについては後述)を悟られるな、ということ。
苦労や苦悩を自分以外の者に訴えたところで、他人には責任がないから好き勝手なことを言いたがるもので、その中でも「頑張れ」は一番便利な言葉で世の中には「頑張れ」があふれかえっている。
天災や事件、重篤な病気、身近な人の死などのアクシデントに巻き込まれ途方にくれている人に「頑張れ」と言うことで自分の一抹の良心のアリバイ作り、自分はいい人でいたがる人にとってはこんなに安直で便利な言葉はない。
だからこそ「いったい何を頑張るんだ?」と虚ろな目で問い返されたら答えにつまる。
御気楽に投げ与えた言葉が安っぽいものだから、早くもそれが上滑りしているのだ。
だから私は「頑張れ」の安売りはしないし、「頑張れよ」に安直にすがりつきたくない。
挨拶代わりの、たとえば「今度、俺市民マラソンに出るんだわ」といった楽しいシチュエーションに対する「まあ、頑張れや(頑張ってくれ)」は交わしあう。それまで否定すれば社会生活が成り立たないからね(笑)。
畢竟人間は強くなければならない。強さは正義である。
喧嘩の腕っぷしの強さ自慢はただのバカであるのは言うまでもない、「つよい」は「頸い」と書くがふさわしい。精神の「頸さ」である。
頸草の人となれ。自身に対する冷酷の刃をやわらかい心の布で包み隠しもち挫けそうになった時、それであえて心に傷をつけて鍛える。
「優しさ」や「癒し」に助けを求めるな。求めたがるな、それはただの怯懦の人だ。そうなれば人間おしまいである。ゴミといっしょに世界から放り出されてしまう。
負けを認めるな。自分が悪い、間違っていたとひそかに思っていても絶対に口に出すな。
素直に謝るのは美徳でもなんでもない。謝った時点で白旗を上げた敗残の兵に過ぎない。
「素直に謝れるなんてなんて器量の大きい人なんだ」とそれほど言われたいのか。
器量度量の大きい人のイメージが出来てしまえば後が大変だ。
生来の性格がよほど豪放磊落に出来て自然体で人を大きく包み込める者でいない限り、人間の器の大きさを気にして生きていくのはしんどいことだと思い知れ。
グズグスと往生際悪く卑怯千万未練たらしくふるまい「こいつ、なんとまあちっちゃいやっちゃな、やること汚いのう。クズだわ」と謗られて「はい、そうですよ、わたいの性分でんのや、すんまへんあ」とヘラヘラ笑っていられる奴こそ、私から見ればよほど懐深い人間だと思う。こいつ出来る奴だと思う。むしろこういう奴の方が怖いのだ。
つまらないプライドにこだわるな。男なら後で後悔するような男気などいい格好して出すな、そんなことくらいなら最初から逃げておく方が、人に過剰な期待を抱かさないだけでも気が利いている。
時には死に体のふりをして、あるいはあえて露悪的に弱さを見せるという擬態の下に鋼の鎧で覆った心を持ちしぶとくヌケヌケと厚かましく抜け目なく世渡りする。頸く生きていくことはこういうことだ。
ああ、今日も朝から暑い暑い、記事まで暑苦しく脂っこいものになってしまった。

「ひきこもる」自由も大切な権利だ。

同僚の息子さんが「ひきこもり」で困っているらしい。また知人のお子さんもよく似たケースにいる。「ひきこもり」について書く。
「ひきこもり」の高齢化が何かと問題になっているが、誰にも迷惑かけずに親も承知で引きこもらせて、それで生活が成り立っているのなら放っておけばいいのに、余計なお節介や不要な親切をかけたがる国民性なのか、なんとか「ひきこもり」状態から脱出させて社会と接点を持たせたいと、お役所までが旗を振って様々な試みにアプローチしている。税金の無駄遣いとはこのことだ。この国は官民一体となって「ひきこもる」自由と権利を剥奪しようとしているのか。
人の数だけ生き方がある。
無職のまま仕事もせず日がな部屋でパソコンだけを江戸時代の長崎の出島よろしく世間との接点として暮らす。
それのどこが悪いのか。私はいまだによくわからん。まるで「ひきこもり」を犯罪者のように扱う風潮。
学校出たら働いて自分の食い口は自分で稼ぎ、多くの人と接して、やがて結婚して一家をなし子供を育て、という生き方もひとつの生き方に過ぎず、これが人生の本道だと決めてかかる方がどうかしていると思うのだが。
たいていの人は「引きこもっているうちに50や60になる。その時は親もいなくなるだろうから後はどうするつもりだ」と詰る。
「そんなに気になるならあんたがたが面倒みてやれや」と言えば「それとこれと話が別だ。人生のあり方としてそれはちょっといけないんじゃない?」と口を尖らす。
人様の「人生のあり方」などに他人があれこれ口出すことではない。
私なんか働かないと食っていけないから働いているだけであって、親にたっぷり金があって「小遣いくれ」と言えば「はいはいあげます。いくらでも遣いなさい」なんて言われたら、そりゃもう喜んで自分の好きな物の買物以外は家の外に出ず、いや待て各種ショッピングサイトも拡充している今のご時世、買物目的で外出する必要もないしな、日がなパソコンだけをコミュニケーションツールとしてのそのそ暮らしていたいですよ、いやまったく。
仮想現実のみの中で生活を完結させていたいですよ。
今こうしてテキストのやりとりをしている相手が生身の人間であろうとロボットであろうとAIであろうとなんだって構わないんですよ。
酒が好きなので、ちょっと酒の相手が欲しければネットの向こうに同じような思いの仮想人物(あるいはロボット)が相手してくれて、Webカメラとマイクを装着すればSMで使うラメ入りアイマスクかなんかで素顔を隠したままだが、互いにともかくも顔を見ながら「や。今夜は暑いですね。やっぱりビールが最高ですな」とかなんとかしゃべりながら、そのうちどちらかともなく飽きてきたら「落ちます」で切ればいい。後腐れなし。また別の相手を探すのもよし。そのまま独り酒を楽しむのよし。
こういう「ひきこもり」生活に恋い焦がれる。生まれ変わったら(生まれ変わりなど爪の先ほども信じちゃいないけど)、古い話だが鳩山由紀夫になりたい、黙って毎年9億円もくれる母ちゃんのお腹から生まれたい。
それじゃ人間ダメになるよ、と言われるが、その「ダメ」はあくまで社会的動物としての自分を規定する中での「ダメ」であって、ずっと部屋の中にいる人間に対してダメになるもなにもないだろうが。
誰ともつき合いがないから、変なシガラミとは無縁だし、結婚といういわば「赤の他人の人生を背負い込む」というギャンブルの必要もない。
人間関係に疲れるというのはどこの世界の出来事なのか、もともと誰とも関係していないのだからそんな症状が出るわけがない。
とまあ、ここまで書いているうちになんだか心が寒々としてきた。「ひきこもり」に憧れる理由を書いているのに、書いているうちにだんだん落ち込んできた。
おお、とうとう「やっぱり俺には出来んわ。ひきこもりは」と思いさえしてきた。
「ひきこもり」になれんわ。どう考えても。やっぱりリアルで生身の人間とふれあっていたいわ。
「ひきこもり」に徹することが出来るのはひとつの才能かもしれない。そしてああ見えて結構リキ入れて「ひきこも」っているのかもしれない。
なんてチャラけたことを書いているが、今だからこうして書けるのであって、娘も2年近くそうであった。
詳らかに書かないが、彼女は好きで引きこもっていたわけでないのだ。しかし「引きこもってばかりいるな!」は絶対禁句で好きなようにさせておいた。
このやり方が正解とはけっして書かない。放置した結果がたまたまいい方に進んだだけのこと。
「ひきこもり」生活にほとほと愛想が尽きたり飽きたりしたら出て来い、だけ言っておいてはいた。
自分の娘ですら心の奥底のメカニズムはわからないものだ。
だからこそ記事冒頭に戻るがそういう生き方もあっていいじゃないか、放っておいてやれよ、という持論(てなものでもないが)は確固としてある。

おっさん、ラノベ開眼か。

7月半ばにしてこの暑さ。ここ数年猛暑日続きが前倒し状態になってしまっている。
世界的に異常気象が常態化しているらしく、確実に地球全体がなんらの変動期に入っていると、専門家たちが警告を発している。
私の部屋は角部屋になっていて、朝は東、昼は南の窓は容赦のない日射を浴び、冬は恩恵となっていた良すぎる日当たりが夏には怨嗟の的となる。
カーテンを閉めても住宅全体が、強烈な夏の太陽光線になぶり続けられているので、壁から暑さがじわじわと滲みいるかのようで、エアコンを強にしても少しはましかという程度。
マシン本体の熱放出のためよけいに部屋の温度があがりそうなのでパソコンの電源も入れず、スマホでネットにアクセスしチェックすべきサイトはチェックし、それに倦んだら本を読んでいた。
先日来から開いているのは、新潮文庫の「Story Seller」シリーズという、どちらかと言えば若い世代向けの作家の短編を編んだものである。
去年だか垂水の古本屋で3冊100円で買ってきて積ん読状態になっていたものを、先週たまたま手に取って開いてみたのだった。
伊坂幸太郎、近藤史恵、有川浩、米澤穂信、佐藤友哉、道尾秀介、本田孝好といった執筆陣だが、いずれもライトノベル出身、講談社のメフィスト賞受賞作家、角川スニーカー文庫でデビュー、などといった経歴を書けばその傾向がわかる。
実は私はラノベやラノベ作家を軽くみていたきらいがあって、あんなもの若者が読むもの、コミック感覚の文字通り軽い読み物、まともな文学にあらず、大人の鑑賞に耐えうるエンタメの域にあらず、と見下していたのだが、なかなかどうして結構眼光紙背のひとときを楽しませてくれた。
有川浩「ストーリー・セラー」。文庫本のタイトルと同じだが内容は全く関係ない。もうすぐ60歳の爺さんビギナーの私に、さすがに号泣とまではいかないものの鼻の奥と両目の間をツンとさせてくれた、若い夫婦のラヴストーリー。
これは好評だったらしく、この短編の結末のその後のエピソードをくわえ長編化されたという。
有川は既読の作家で「レインツリーの国」を読んだ際、「お。読ませるではないか」と期待して次に選んだのが「阪急電車」。これが「なに?これ」と落胆させる出来でそのまま縁遠くなっていたが、こたびの短編に再び食指が動いている。
読まず嫌いで避けていた、該作家の世評高い「図書館シリーズ」や「三匹のおっさん」シリーズ。読んでみたくなってきた。
佐藤友哉「333のテッペン」。東京タワーのほぼてっぺんに近い場所での殺人。いわばほぼ空中の密室殺人といっていい不可能犯罪ものだが、この結末はちょっとひどいなあと推理小説の視点からみればまるでペケだが、主人公の内面の描き方が素晴らしく、後で解説をみたらジャンルの概念を無意味にする縦横無尽な独自な作風で知られ熱狂的なファンがいるらしい。純文学方面の賞も受賞している。この作家にはまた会いそうな気がする。
例としてこの二人の作家を採り上げたが、今の若い小説好きがどんなものを読みたがっているのか俯瞰できる短編集であり、文庫全体の宣伝文に新しい作家との出会いの場としてもどうぞとあったが、まさにそれに好適な作品集といえよう。
ラノベに対するアレルギーがほぼ霧散した。その分野の作家渉猟の旅が始まる。
こうして未知の作家と出会い、読書のフィールドが広がっていくのは本好きにはたまらない。気に入りの作家が増えれば増えるほど書店や図書館通いがいっそう楽しくなる。
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ヒトカラの楽しさ

このブログのヘッダ部分の写真は昨日(正確には一昨日)散歩に行った夕暮れ時に近い頃の須磨海岸である。
前にも書いたが須磨海岸の海水浴場は東西に長く、須磨水族館前の浜を東エリア、JRの須磨駅直前の浜を西エリアと私は勝手に区分している。
西エリア。ここはとかく昔からやんちゃなニイチャン、ケバいネエチャンが東に対して圧倒的に多く、10年前から夜遅くまで騒音、喧嘩騒ぎがしょっちゅうあって、それだけならまだしもちょっとしたクスリやイリーガル煙草のやりとりもあったという、いわば水着を来たアメ村状態になっていたのである。
これじゃいかん家族連れが逃げてまうがな、と警察と行政が本腰を入れて、なにかと縛りをかませた結果、2~3年前から沈静化されて歩き煙草(もちろん合法の方ね)も禁止、足洗い場を作ったから砂を洗いさってから須磨駅に上がってくれ、駅のトイレで着換えすんなコラとばかりにJR西日本も手を焼いていた案件に自ら乗り出し整備した結果を昨日確認してきた。
たしかにきれいになった。何年か前よりきれいになった。動き始める快速待ちの各停電車の中もそれほど砂落ちてない状態になっていた。
海の家も昔ながらの野暮ったいよしず張りの店はなくなり、ヘミングウェイがタイプライターを叩きそうなコテージ風の店が出来て、かくいう私も相棒のpomeraをたずさえ夕暮れの潮風に吹かれながらイタイ文章のひとつも紡ぎたくなる店である。
しかしこの手の店は一人で入るには勇気がいる。あきらめて前から一度やってみたかった、ヒトカラ、独りカラオケと洒落こんだのだ。
結論をいえば、ヒトカラむっちゃ楽しいやん、である。部屋の中には当然誰もいないから、上手い下手気にせず唄える。エコー、音程の上げ下げ好きなようにやれる。他人の目にさらしたくない自我意識の充足を思う存分発揮できる。
好きな歌を他人の目を気にせず歌える。私は音痴でなく自由奔放にアレンジしながら唄っているのだという常日頃の持論をカタルシスできる。
ちょっとめずらしい歌を唄うと、こんな歌知らんわと必ず茶々が入ることもなく、ポーズをつけて歌ったところで当たり前だが誰も見ていないので思いきり自己陶酔にひたれる。
2時間ほど歌い続けて喉がいたい。50曲くらいは唄ったのではないか。精算すると税込み1000円ちょい。いや~安いレジャーでありました。
50曲くらいの中の1曲。


「僕、一応東大だけどね」。

理系頭に生まれたかった。我がオヤジとオフクロの子では、それは無理だと早や中学生の時悟った。
因数分解や連立方程式なぞまったくわからん。なにせ分数の足し算引き算レベルで挫折しているのだから、小学校レベルで悟るべきだったと訂正しておこう。
2/6+3/6=5/12と未だに答えてしまう私のあまりの非理系頭にはほとほと自分で呆れてしまう。
だから理系頭の人は文句なく私のリスペクト対象となりうる。理系頭の人は賢いんだ頭いいんだ俺はバカなんだああそうなんだはは~~恐れ入谷の鬼子母神(古いね)とばかりにその場でひれふしてしまう。
世の中、不思議な人もいるもので、私の同僚の一人は暇さえあれば「数学」という雑誌(こんな雑誌があることさえ知らなかった)を紐解いている。
大変失礼なことを書くが、この方の学歴は高卒、それも関西でその名を出せば誰もが「ああ、あそこな」と苦笑まじりで語られるという高校の出。
しかしながらこと数学に関しては造詣深く、かの雑誌を毎月購読熟読玩味もさることながら、大学入試のシーズン、各新聞に国立大学の入試問題が掲載されるが、例えば今年出題された京都大学理系の

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なんて問題をすらすら5分もかけないで解いてしまったのだ。私なんぞは問題文の意味すらちんぷんかんぷん。はあ?これナニ書いてあるんや、である。
件の方に訊けば東大京大ともに理系の過去問題集、世に言う「赤本」と呼ばれるあの分厚いやつ、のバックナンバーというのか年ごとのを家に揃えているらしい。ははあそうですか(そんなもん揃えてなにがおもろいねんやろ)と答えざるを得ない。
数学頭が突出した人物なのだ。この天賦才能が他の学科にも活かせたら、東大京大など鎧袖一触、屁の河童、それどころかマサチューセッツ工科大学やハーバード、カリフォルニア工科大学あたり行けたんじゃないかと思う。まさに天才レベルの人になっていたのに。
天は二物与えず、神はなにゆえさも残酷に振る舞われしか。類まれなる美形の私に文系頭それも悪い方を授けけ、しかも芸術センスなど皆無のただの見目麗しきだけのバカに仕上げたのと同じことではないか。お~まいが。
「学歴で人を判断してはいけない」というのはこういうケースがあるからだ。たいした学歴もないのに頭がいい人などいくらでもいる。そういう人ほど謙虚で奥ゆかしいのは皮肉といえば皮肉。
以前の仕事の営業先の担当者に東大出身者がいた。
なぜ彼が東大出身だとわかったのかといえば、商談の後の雑談で「それはそうと中津川さんは大学どこなの?」と訊いてきたからである。
この問い方には人は皆大学を出て当たり前という傲慢さがある。こちらは弱い立場なので、そのことへの怒りをひた隠し「いや~どうも。関西の名も知られん大学なんですよ、えへへ」と頭を掻いて媚売るように答えてやると「またまたご謙遜を。京大あたり出られたんでは」と笑っている顔には早く俺の出身大学訊けこのバカが、とありありと書いてある。(京大あたり~?あたりとはなんちゅう言い草や、あ、そうかこのおっさん東大なんや)と判断し「部長さんは失礼ですがどちらの大学のご出身で?」とボールを弾き返す。indexr
で、東大出身者のいつものあの定番の答えが返って来た次第である。「僕、一応東大だけどね」が。
(なにが、一応やねん、腹立つなあ)とむかっ腹を抑えつつ、「ほ~東大ですか、東京大学。もう私らには雲の上の存在です。だから余計に私の大学など申し上げられませんよ。部長さん、おからかいも程々に」と苦笑すると、「いやいや僕なんかたいしたことないですよ。まったく普通です。ただ周囲のレベルが低かっただけだったんですよ」とイケシャシャアとぬかしやがったのだ。
と同時に彼が哀れに思えた。この人はこれから先、学歴だけを矜持として生きていくんだ。それってなんかつまらん人生だなと。
私の周囲に誰も東大出身はいないが、みんなそれぞれの矜持と誇りをひそやかにして輝いている人ばかりである。そういう人たちに囲まれた私は幸せであるし誇りでもある。前述の数学頭のおやっさんももちろんそのうちの一人である。
理系頭への憧憬で始まり学歴のオチで終わる。相変わらず脈絡のない文章である。文系頭でも超悪頭の証である。

サヨナラだけが人生さ。

松居一代の、夫に対する呪詛に満ちたおどろおどろしい動画を最後まで見てしまった。
くさいまでの芝居がかったそれは松居にとって失点であった。
動画の流れで彼女のブログも見た。また彼女の過去の、夫船越英一郎に対する妻としてのあざといまでの献身ぶりもあわせ、私に反感しか抱かせなかった。
この一連の離婚騒動、どちらに是非があるのかわからないしわかろうと思う気すらない。夫婦喧嘩犬も食わず。
ただ松居は大きな誤解をしている。
彼女が動画の中で強調していたが、夫婦も含めて男女の仲に「絶対」と「永遠」が成立するという誤解。
いや男女の仲のみならず、この世のありとあらゆる「出会い」には必ず終わりがあるということを知るべきである。
出会った時から別れが始まる、究極をいえば生まれた時から死出への旅への準備が始まる。
恋愛や夫婦愛、親子の愛、友情、あるいはペットへの愛、これ仏教用語でいうところの「愛別離苦」と一体である。
それをきちんと見据えていれば、別れを受け止められる。別れはたしかに悲しいことだが、別れをいつまでも追いかけてはいけない。
とくに男女の間の別れの際に往生際悪く振る舞うというのは醜い、これまた仏教でいう畜生界に生きている下等な動物の振る舞い以外のなにものでもない。
いや、畜生と人間が蔑んでいる動物たちの方が別れを哀しみの表情をたたえながらも冷静に見送っている。
彼らが別れを特に死別を受け入れる姿勢に高貴ささえうかがえる。
男があるいは女が自分から離れようとしている。それを追いかけたところでどうにもならない。来る者拒まず去る者追わず、サヨナラだけが人生だ。
別れ際の美学を、いい大人なら持つべきである。簡単なことである。「追いかけない」の一言に尽きる。
永遠の愛だの、絶対の愛だの中学生がノートの切れ端に書きそうな戯言にこだわっているからこそ、無様に追い続けてしまうのだ。
男と女の出会いはどんなカップルでもそうだが、互いの大いなる虚妄と幻想の発火で始まり燃えさかる。炎の盛りは必ずいつかその火照りに影なす。
それを埋み火として未練たらしく陰火となっても抱き続けるか、それともさっさと水をかけて消してしまうか、そのどちらでしかないのだ。
私の美学はもちろん後者にある。サヨナラだけが人生さ、と振り向きもしないで後ろ手を振るだけ。
手を振り消えた指先は狭斜の巷の紅灯をさす。一夜の酒の中。想い出は琥珀色の液体に、あるいは吐き出す一服の紫煙に託しておけばいい。
グラスの中の氷がひそかな音をたてて割れたとき、Good lack!とささやいていればいい。
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