「コンビニエンスストア」 詩・川口晴美

夜中に
急に
甘いものが欲しいような気がして
きっとメロンパンが食べたいんだと思って
部屋着のままコートをポケットに財布だけ入れ
コンビニへ行く

セブンイレブンのメロンパンは外側のビスケット生地が
少し固めでおいしかったから
 セブンイレブンへ行く 途中の路地で
抱き合っているカップルがいる
横をすり抜ける
ゴミ袋の横をすり抜けるように
セブンイレブンの自動ドアが開き
パンの陳列棚の上から二番目にメロンパンを見つけたと
 たん
なんだかちがう気がして
食べたいのはこれじゃなかった気がして
買うことができない
仕方なく
明るい店内をぐるり一周し
セブンイレブンをあとにして
大通りを渡りローソンへ行く
ローソンで売っているベルギーワッフルがわたしは好き
 なんだ
思い出して バームクーヘンの並んだ隣に残っていた最
 後の一コをレジへ向かおうと
歩く 数歩の間に ベルギーワッフルを噛みしめたとき
 の歯応えが
にじみ出る油っぽい甘さが ありありと口いっぱいに感
 じられて
全然ちがう
棚にベルギーワッフルを戻して
やっぱりメロンパンだったのだろうか
ローソンのメロンパンが売り切れている
沖縄黒糖ドーナツ、ちがう
チーズ蒸しパン、ちがう
六枚切り食パンを買って帰ってバターとブルーベリージ
 ャムを塗って食べてみようか
それともタマゴサンド でもおなかがすいているわけじ
 ゃない
何か ほんの少しでいいのだ
舌触りでもいい味でもいい わたしを満たすもの
カスタードプディング、じゃなくて、アロエヨーグルト、
手にとってはやめて
甘いものじゃないかもしれない
さらさらと口の中でこわれてなくなってしまうもの
ポテトチップス・コンソメ味、とんがりコーン、イチゴ
 ポッキー、コアラのマーチ、
でもちがう
わたしは何が欲しいんだろう
ここにはない
駅の向こうへいく
電車はもう終わっている
食べるものじゃないんだろうか
郵便局の隣のファミリーマートの前で
電話ボックスの中の誰かが誰かに電話している
わたしも電話してみようか
でも誰に
ファミリーマートの入口には運び込まれたばかりの雑誌
 が並べられ
週刊新潮、アンアン、SPA!、近いようなきがするけ
 ど
部屋に持って帰って一人でそれを読むのを想像すると
小さな活字がもっと遠のいていき
スーパーマイルドシャンプー、植物物語メイク落とし、
 (物語……?)
紙コップ、パンティストッキング、乾電池、封筒、
わからなくなる
わたしは何が欲しいんだろう
まだこの先にサンクスがある
あるから
いつかわたしの欲しいものが見つかるんじゃないかと
わたしの欲しいものはどこにもないんじゃないかと
思いながら
歩いていくことができる
コンビニがなかったら わたしはメロンパンが食べたか
 ったと
思い込んまま 夜に押しつぶされるばかりだったはず
だから
わたしは
夜の道を 次のコンビニの明かりへと歩き出す
歩いていく
ポケットの中で ぎゅっと手をにぎる

『lives―川口晴美詩集』(現代詩人叢書 ふらんす堂 2002年刊より)
※改行の際の1字アキ等ママ


「俺の借金全部でなんぼや」 詞・三上寛 曲・上田正樹、有山じゅんじ



アルバム「ぼいぼちいこか」(バーボンレーベル1975年リリース)より

最近忙しさにかまけてブログの更新も滞りがち。
とはいってもだいたい2日1回のペースでさほど滞っていず、人様のそれとくらぶれば結構更新しているクチであるが。
SNSの方はとんとご無沙汰である。ここ数日ログインすらしていない。
別にイヤになったわけではなく、ログインしたらしたでコメントしたがりのタチだから、コメントする、それに対するレスポンスが気になる、スマホ見られない(=ネットにアクセスできない)時間がここのところ多く、それがいっそ苛立ちを呼び、ならば最初からログインしなければいい、といわばズボラをかましているわけである。
いまだ勤務シフトの定着化が見えてこない。
わが業界の人手不足は深刻で募集をかけていてもなかなか人が来ない。来たら来たでまことに失礼な言い方だが、ちょっとモノにならなそうな人だったりと人事担当はいう。
人手不足が常態となっているほど、少なくとも東京や関西の大都市圏では雇用情勢は改善されたというが、サービス業や底辺産業、ガテン系お仕事、3Kワークなどが人手不足だけなのである。
しかもそれらの従業員はほぼ全部が非正規雇用。
非正規がゆえに給金は時間給単位だから、それを上げてでも人を集めたくなる、いきおい法定最低賃金は上げざるを得なくなる、それはすなわち賃上げの現象につながる、だから非正規の賃金が改善されたことになる。まさしくボトムアップではないか。
ここらあたりを誤解も多分に含まれた評価をもって世間の大方の人が「安倍晋三はよくやっている」と、このたびの総選挙であの男に国政を信任した結果に終わった。めでたしめでたし。ああこれで栄光の大ニッポンも安泰だ。
関西圏の鉄道は台風一過後24時間以上経っても未だ不通区間がある。それほど関西的には近年まれに見る台風だった。
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「霧越邸殺人事件」やっと読了。(全てに近い状態でネタバレしているので要注意)
結論からいえば、既読なのに結末に近いところまで犯人がわからなかったのは初読時の印象が希薄だったから、ぶっちゃけて言えばそれほど面白くなかったので、あれは傑作だった、また読みたいと思い出すこともなく記憶の彼方に飛んでしまったとしか言いようがない。
良くも悪くも「本格推理小説」であったことは間違いない。
「本格」ファンを唸らせる舞台設定、プロットの練り込み、雰囲気作り、散りばめられたフェアな伏線等々、さすがに新本格の旗手として島田荘司が一押しした作家である綾辻行人がものした作品であるが、これらの長所や美点がそのまま「本格嫌い」の格好の攻撃材料となる。
好き嫌い、支持不支持がきれいに分かれるリバーシビリティさがくっくりとし過ぎたのである。
著者デビュー後3年の同作である。文章に生硬さが残るのは否めないとしてまでも。
第1と第2の殺人を敢行した男に、第3の殺人の犯した男(探偵役でもあった)がすべてを擦り付けた挙げ句それが失敗となり自殺したというのが肝の筋である。
第3の殺人の動機設定があまりにも厨房過ぎて、まったく共感、殺人に共感もなにもないが、少なくとも感情移入は出来なかった。
いっぱしに劇団を主宰している30超えたおっさんが何を青臭い、というより小便臭いことを言うておるのだと読んでいて気恥ずかしくもなってくる。
皆を一室に集めて謎解きを探偵役がやるのだが、第1第2の犯行については子細に精緻に論理を組み立てて解明していくのに、第3第4のそれにいたってはえらくあっさりと片づけ仕事で語り流していく時点で、さすがに記憶力衰えとかどうかというより、初読でも後二つの犯人はこの語り手であると気づく。
4つの殺人全体を俯瞰して、なぜこういう殺人が起ったのか。
それは邸自体が未来を予測させるなにかの力があり、4つの殺人はその邸が持つ得体の知れない空気感がもたらすというくだりはバカバカしくなってきた。こんなのありか。
登場人物の姓名がどこか違和感めいたものを抱いたの最初からだったが、その姓名の頭の音を拾い読みすると探偵役=犯人にたどりつく仕掛けとなると噴飯物のレベルだ。作家のご愛嬌ちょっとしたサービスでこんなの脇のエピソードに入れてみましたというならまた別物だが。
これもトリックだとして、こういうことを書くからトリックに絡ませてストーリーを組み立てる無理とおかしさが生じてくると「本格」は批判されるのだ。
いやそれだからこそ「本格」なんだ。いわばゲーム性やパズル性を楽しむやお遊び心がなけれ
ば「本格」を読み楽しむ資格はないと言われたらそれまでだけど、やはり小説であるからしてリアリティも少しは追求してほしいというのが正直な思いである。
たとえば温室の天井ガラスに亀裂がなんらかの力で入ったという場面がある。
なんらかの力がなんであるのか、それも邸本来が持つグルーヴであるという説明の無茶さにあえて目をつむって、その亀裂からギリシャ数字の「X」読みは「カイ」、そこからまた登場人物の名前がシンボライズされたという相当なこじつけ解釈よりも、礼拝室のステンドグラスの天井に描かれた「カインとアベル」の宗教画から「カイ=甲斐(第1と第2の殺人犯)」の名前を結びつけた方がよほどしっくりと腑にすとんと落ちる。
これが20代に読んだならもっと作品側に好意的な立ち位置にいて評したかもしれない。
ましてや10代なら名前の語呂合わせや見立て殺人だけでワクワクし巻措くを能わず徹夜してまでも読みふけったかもしれない。
いかんせん、ちぃとは人生の酸甘かみ分けつもりの、夢もロマンも色あせた心はとうにすれてヒネクレて年経る初老男にはあまりにもお伽が過ぎた推理小説であった

選挙の時だけ友人づらしたがる人物の電話で起こされた休日であった。「学●は選挙の時だけTELよこし」。
寝ぼけ眼で「はいはい、了解。入れるから」と約したふりしてさっさと電話を切って厄介払いする。
あほめが。誰が●●党やその議員に入れるかっちゅうねん!死んでも●●党や▲▲党、■■党なんかには投じない。
選挙期間中だから具体的な党名を出せないが、そうでなければ公明党や共産党、社民党と書いているところであった。
きっちり書いているやんけ、ああさよか。この程度で公職選挙法抵触と考える方が大げさというもの。
れいの小池新党がとことんかきまわし、此度の総選挙、少しは面白くなりそうだなと期待したのだが、小池百合子のニッコリ笑って「排除します」発言以降、急速に小池劇場、小池マジックショーは終息となり、彼女はそのへんのただのゴーマンなオバハンとなりさがり総スカンをくらい、下馬評はまたもや安部自民の独り勝ちとなっているらしい。
意外に健闘しているのが元民進党で民主政権時代官房長官だった枝野幸男率いる立憲民主党。その煽りをくらって、どちらかといえば左っかわに立っています私はてな人たちの票を共産党から奪おうとしている。
憲法9条堅持、日米同盟反対、原発反対、新自由主義経済反対、安倍やめろetcな考えの持ち主でも、ずばりモロに共産主義や社会主義を連想させる党名を嫌う人の方が圧倒的に多く、そういう意味でも立憲民主党というネーミングはなかなかあれでGJだと思うのだが思うだけで、来る日曜日の選挙は俯瞰的に他人事のように見ている。
私にとって日本の将来なんかより問題はここ数日、早朝から深夜までのシフトが断続的に続き、疲労がなかなか抜け切れないことだ。
今日も今日とて電話で目覚めたのは昼過ぎだが、身体全体を覆う気だるさ、頭の中は明日は休みだからと飲んだ酒、少量といいながら残っており、靄がうっすらとかかったようでなんともやるせない。
お天気の方も蒼天突き抜けた秋晴れがやってこない。なんだこの曇天で低温続きは。気象が完全に狂っている。
「霧越邸殺人事件」。やっと解決編というところまでたどりついた。エラリー・クイーンなら「読者への挑戦」の一文を挿入する位置である。
564頁め。読み始めたのは先月27日。3週間近くかかったわけだ。このような総頁690頁の大長編を読むのは体力と集中力記憶力が必要で若い頃なら夢中になれば1日で読めたものだが、今はあかん。加齢をひしひしと感じる。
「あれれ、こんなこと書いてあったかなあ」と一度読んだ箇所を確認、といった行きつ戻りつを繰り返して、この遅さとなったのである。
そんな体たらくだから頁ここに至ってもまだ犯人が思い出せない。
(ここより内容に踏み込む)挙動不審で何かに怯えていた、言い換えれば一番怪しげ男が殺されて第4の殺人となった。
この男は探偵役と同様、邸の住人も含めた人物のリストから何かに気づいたらしい。第2の殺人の時もうわ言のように「違う、違うんだ」と意味不明なことを叫んだり、一人この邸から脱出しようとて吹雪の中で凍え死にそうになるところを引き戻されたり、この男が持っていたウォークマンの電池が切れていたはずなのに、探偵役が今一度確認したら作動したり。
この男そのものがなにか重要な手がかりらしいのだが、はてさてさっぱりわからん。
それを今から説明するために探偵役の槍中は邸の住人も含めて、生き残っている登場人物を一室に集めたのである。
「名探偵皆を集めて『さて』と言い」の川柳で揶揄される、本格推理小説ではおなじみのシーンである。
皆が集まったところで槍中は「背筋を伸ばし、もう一度ゆっくりと皆の顔を見回す。大きく一度深呼吸をしてから、槍中は『さて』という古典的な文句で話を始めた」の記述には思わずニヤリとした。

秋梅雨と呼べばいいのか、先週の後半からずっとぐずついた空模様が続いている。
日の最高気温も20℃を下回ることが多くなった。
アスファルトのくぼみに出来た水たまりに、早くも色づいた葉が浮かんでいる。
予報によると今日の午後から晴れ間が快復しそうだという。
「霧越邸殺人事件」。やっと500頁に到達。今から内容に触れる。当該作品未読の方は要注意。
第3の生贄は記述者である「私」すなわち鈴藤稜一こと佐々木直史が心寄せていた女性劇団員芦野深月(芸名)である。
それはいいのだが、この作品においても「探偵役がいるのになぜ連続殺人が起こるのか?」と「本格」がいつもッコまれるパターンを踏襲している。
これは「番組が始まって10分後に水戸黄門が印籠を出していれば、暴れん坊将軍吉宗が『余の顔を見忘れたか』とミエを切っていれば、あるいは遠山の金さんがお白州で諸肌脱いで桜吹雪を見せていればとっくの昔に事件は解決していたじゃ~ん」というツッコミ同様、ものごとには暗黙の了解やお約束事があることを知って知らずか無視した無粋な物言いではある。
それをふまえて、つまりは無粋は承知のうえであえていう。
探偵役の劇団主宰者槍中秋清のなんとマヌケなことよ。
見立て殺人が2日続けてあったわけである。降りやまぬ豪雪で邸が孤絶状態、電話が何者かによって不通の状態にされ、警察に通報できない状況はわかるが、それならばこそ犯人に対して最大限の防御策をとるべきだろう。
2回も殺人があれば、とりあえずか弱き女性たちをそれぞれの個室に留まらさず、サロンならサロン、食堂なら食堂と衆人環境にある大きな部屋に集めて、自らを含め男性陣たちで警護するのが普通だろう。
2回もそのどちらも大向こうを狙った見立て殺人である。
尋常ならざる異様な殺人が立て続けになされたというのにまるで無頓着なのである。
探偵がマヌケなら、名探偵の引き立て役として設定されているワトソンやヘイスティングスにあたる鈴藤とて相当ヌケている。
邸の玄関に近いホールに深月そっくりであったという、邸の主の亡妻の肖像画が飾られてあったのが、鈴藤の目の前で音を立てて壁から外れずり落ちるという出来事があり、さすがに慄いたものの鈴藤は槍中にすぐと報告した形跡がない。
いかにも見立て殺人の前兆にふさわしい派手な「演出」そのものの出来事である。
深月が殺されてから「肖像画が落ちた時にもっとそれを追求するべきだった」と、あんた今さら何言っているのと呆れてしまう自戒に頭を抱えているのだ。
綾辻行人があえてわざと槍中や鈴藤の迂闊さを描いたのかは、これからそろそろ始まりかけている解決編を読まない限りなんとも言えないが、両名のこの迂闊や無頓着に言及せず事件大団円となれば、いかな「本格」のお約束事とはいえ、ちょっと許容できないなと思う。
社会派ミステリのリアルさ追求のためのとことん虚構性を廃した描写も興ざめだが、かといってどう見ても登場人物にストーリー展開やトリック解明のために不自然きわまりない動きをなさしめることを合理化する記述も頂けないものがある。
といったことをあれこれ考えながら首を傾げつつ、牛歩ののろさをもって頁めくりを少しずつ進めていく。

今秋初めてエアコンの「暖房」をONにした朝である。
闇の漆黒が薄れていくにつれて、無数の雨糸の直線の落跡が目視できる。
直線から飛び出した、いかにも冷たそうな雨粒が窓ガラスに取りすがり、刹那に完全な正円を造ったあと流れ落ちていく。
窓ガラスがその結晶の隅々まで行き渡らせていた夏の炎熱の残滓はこれで完全に消え失せた。
最近あることがきっかけで、知人女性の今は泉下に眠っていらっしゃるお父上の生前の活躍ぶりをネットで知ることができた。
80年代大阪の商業デザイン界では一角の人物であられたようだ。
師事私淑ともに多数のお弟子さん方もいらっしゃったようで、誰彼なく慕われ、またその思慕に応えるかのように夜な夜な酒場でデザインを中心に様々なテーマで熱き議論を交わしあっていたという。
そうした、当時のお弟子さん、今は斯界で活躍おそらくは重鎮の身となった方の師に対するいまだやまぬ追慕にまかせて綴られた文章をネットで読んだのである。
「へえ、たいしたもんじゃないか。結構あの世界では偉大なおやじさんだったんやな」と、あらためて御遺影で知った面影と遺された愛娘の話から伺っているその人となりに思いを馳せたのである。
愛娘たる知人女性が常に誇りと尊敬と愛情に満ちた表現と表情で亡父を語る気持ちが今にしてわかったのである。
人前で自分の親のことを自慢げに語るのは、あまりいい格好ではないが、お弟子さんたちが愛娘に劣らぬ、その父親に対して抱く尊崇の念を語るのを知れば、知人女性の「私のパパは素晴らしかった」と、なんともいえない暖かさがこもった遠い目をして回想していたのもむべなるかな、と苦笑まじりに首肯せざるを得ない。
私にも娘がいるが、私亡きあと知人女性のようにリスペクトをこめて自分の父親を思い出してくれるだろうか。
「こないだなあ、おまえやお母ちゃんがおれへん時にな、ほんまにケツで割り箸折れるかなあと思て、タオルをやな、こうフンドシみたいに(と立ってフンドシをしめる仕草をしながら)腰とケツの割れ目に巻いてな、そこへ割り箸をこう横から差し入れて、ほいでやな、おもむろにケツにぐっと力を込めてみたんやけど、あれは折れんもんやで。おい、聞いとんのか、こら、どこ行くねん、聞かんかい」(これはネタでも嘘でもなく本当に試したのである。上手く確実に割れたらあらためて自撮りして見せてまわりドヤ顔したかったのである)
先日の夜、酒を飲みながら娘にそんな話をしたらそそくさと逃げられてしまった。
また割り箸を6膳分「わや」にしてしまったことを知ったカアチャンにさんざん怒られた。
「ほんまにつくづくアホなオヤジやったわ。オヤジの話せんといて。けったくそ悪い」と四十路もしくは五十路のオバハンになった娘が憎々しげにイヤイヤ、私のことを思い出す顔つきが今から目に見えている。

IMG_20171011_173902貧乏暇なし諸事多忙、そんな慌ただしさの中にも日暮れの茜の濃度と斜陽もたらす影の角度の鋭さに秋の深まりを感じ取る今日このごろである。
来る22日は衆議院総選挙。ここ神戸市では市長選が重なる。三宮界隈はもとより新長田、垂水、西神中央、六甲道など乗降客数が比較的多いターミナルでは候補者たちが入れ替わり立ち替り舌戦を繰り返している。
そのどれもが「それが出来りゃ誰も苦労せんわ、ふん」と鼻で嗤いたくなることばかり。
けろっした顔でどうしてああも絵空事みたいなことばかり言えるのだ。政治家の公約なんぞ空手形の典型みたいなもので期待する方がバカを見ることは自由選挙制度下の議会制民主主義国家では当たり前のことだが。
それは女性の立候補者である。何党の某である。いつの、なんの選挙だったとはあえて記さない。某駅前でフライヤー(チラシと普通に言えばいいものを最近一般人もこういうふうに呼ぶからあえてこう書く。もともと印刷や製本業界用語である。素人がお茶のことを「上がり」と言うようなものでまことに愚かしい風潮である)を道行く人に手渡ししていた。
私ももらったのだが、ちょっといたずら心を起こして彼女の前から行き過ぎて3分後にUターンしてもう一度彼女の前を通った。
彼女はまたもや私にフライヤーを渡そうとしたので「あのね、ついさっきこれもらったの俺。ほらこれね(現物を見せて)。あなた政治家目指すんでしょ。一度見た顔、それもつい1分も経ってないよ。おまけに俺の目を見て『わたくし○○をよろしくお願いします!』『はいはい、頑張ってちょうだいね』とそんな会話も交わしたじゃないの。もう忘れたの。それじゃあ政治家は無理やな。田中角栄なんて一度でも言葉を交わした相手の顔はそれがどんな下っ端でも忘れなかったらしいよ。ま、あの人は天才やったから。そこまでは求めないけどね」と、ああなんと俺は嫌味な人間なんだと省みつつ、しかしこの子もこの子でロクに相手を見ずに、このおっさんもただの一票にしか過ぎない通りすがりの人と機械的にフライヤー配りという単純作業をこなしているだけで、そんな了見じゃ立派な政治家になれませんよとお小言のつもりで言ったのであるが、そういう了見自体イヤな爺さんにまた一歩近づいたわけである。
しかし、出会った人の顔を忘れるというのは人気商売でもある政治家にとっては致命的な欠点であるのはたしかだろう。
なんだかんだ言っても日本の選挙はドブ板選挙が基本である。泥臭い、前時代的だと揶揄されても自分の選挙区の有権者の家を一軒一軒丹訪ねて丹念に歩きまわり、自分の顔と名前を覚えてもらうと同時に有権者のそれも頭に叩き込む。
街で有権者にばったり会って「こんにちわ。○○さん、おばあちゃんのご病気はよくなった?」と、さっと有権者の名前が出てきてその身辺にまつわることも忘れておらず、さりげなく世間話が出来たら一人前だと言われている。
自分の名前を忘れられるより覚えてもらっている方が人は気分がいいのは当たり前。
一度でも言葉を交わした人の顔を忘れるな。名前を知ったらましてや。これは政治家の基本の「き」だと思う。
絵空事といえば現在読んでいる「霧越邸殺人事件」である。前回記事から50頁しか進んでいない。ここより、れいによって内容に触れているので注意。
ようやく第2の殺人が起こった。最初の殺人で殺された男の恋人とみなされている派手好きでやや飛んだ女性が、邸の裏に広がる霧越湖に突き出たテラスの先にある湖中の噴水で、頭を殴打された上で絞殺された死体が発見された。殺され方は最初の事件とほぼ同じ。
邸内にすでに登場している、邸の当主、執事の男、住み込みの女医師、料理人の女、雑役歩の若者。この5人以外にもう一人住んでいるらしいのだが、それは「黒くて小さな人影」というヒントが提示された。その者は杖を使っていることも。(※参考までに扉見返しの登場人物紹介画像をアップしておく。画像クリックで拡大)。IMG_4778
ここはなんとなくミスディレクションくさいなあ(笑)。ここに拘泥すれば引っかけられそうな気がする。
このいわば第6の住人について、記述者の「私」が思いを寄せている女性が「この人物はどうも邸に住んでいる人物ではなく私たち劇団員の中にいるような気がするニュアンスで言っている」と探偵役の男に語らせるシーンがあるが、彼女が謎の人物について触れた場面の会話を何度読み返しても「そうかなあ。別にニュアンスは感じられないが」と読んでいて思った。
その会話の場面で彼女は「ピアノを弾く音が聞こえた」とも言っているが、それまでに劇団員の誰についてもピアノのエピソードが出てこない。
だからここの会話はどうみても邸関係者を匂わせているものとしか解釈できないのだ。
というのはもし邸の中にピアノがあり、それを劇団員が見つたそすれがたとえば「あ、こんなところにピアノがある」とかなんとかと書いておかないとアンフェアになるかも知れないと思うからだ。ところがそういった記述はまったくなかった。雛道具やオルゴールなどのガジェットについてはくどいほどの描写があるのに。
物語はようやく折り返し手前である。綾辻ほどの名手が上記のような単純なミスを犯すとはとうてい思えないので慎重で読む進めていくことにしよう。
私自身、もしかしてこいつが下手人ではないかと思った人物が早くもそうではないことがわかった。
「本格」ではよくある「すでに殺された犯人が実は生きていて」というパターンかなと思ったら。そらそうよ。それじゃあまりにも綾辻をナメているとうもんだ。

承前として、内容はおろか登場人物の行動表まで載せている、と未読の方に一言記しておく。
「霧越邸殺人事件」。なんとか半分近くまで来た。
第一の殺人について、100頁を費やしながら未だ容疑者を絞れていない。
なんともまあまだるっこしい。姓名判断やそれに絡む見立て殺人の意味などを、探偵役である劇団主宰者と作家志望のこの物語の記述者である「私」があれこれと論じ合うという些か冗漫とはいえなくない縦糸に、殺された色男が麻薬に溺れ、彼とつきあっていた形の女劇団員もクスリを持ち込み錯乱状態になったり、色男に別の男劇団員が借金をしていたりという、犯人推定の手がかりとなるエピソードが絡む。
そこへもってこの邸には、すでに登場した住人以外に別の謎の人物がいるらしい。「その足音を聞いた」、と「私」が心密かに想いを寄せる女性劇団員が語る場面まで私はやってきた。
そろそろ登場人物のタイムテーブルや、殺人を犯したらなら登場人物各々にはどのような動機が考えられるのか自分なりに整理したメモのようなものを作成しようかと思っていたら、見開きにして4頁分のそれが310頁に用意されていた。IMG_20171010_054215
冒頭差し込みや扉裏の現場見取り図といい、この登場人物の行動一覧表といい、これらがないと本格推理小説(以下「本格」)は物足りない。
これらは言い換えれば読者のための現場調書みたいなもので、これを参考にして読者も犯人探しに参加するというゲーム性は「本格」ならではの演出である。
読み手にも実際にその現場に立っている感覚を与える、いわばリアル性を追求したことが、よけいに「本格」は合理的な論理とフェアな記述にたった人工的構築の虚構のお話であることを浮き彫りにさせている。
ここを面白がるかどうかで「本格」を受け入れる人とそうでない人を分け隔てる。
推理小説のファンでも、ここをひたすら嫌悪して「あまりにも作り物めいている。登場人物はすべて作者のマリオネット過ぎて鼻白む。人を殺すのにわざわざ見立て殺人にしてみたり密室トリックなどを施すか?そんなことをすれば余計な証拠を残すだけでまずありえない」云々などと言い立て「だから『本格』は大人が読むに耐えないのだ」ととことん毛嫌いしたりする。
また「『本格』はたしかに面白い。犯人探しにトリックの解明、伏線の素晴らしさとそれを一分の隙もないロジックで収斂していく過程を楽しめばもうそれで充分。二度読む気が起こらない」という、これもまた古くから言い古されてきた、文学性との関わりの中で批判されることもある。
「本格」攻撃はほぼこの現実性と文学性の脆弱さを衝いてくる。しかし、これらを追求すればもはや「本格」は「本格」でなくなり、ただの猟奇的な犯罪レポートに文学の香気を添加したそれこそあざとい読み物に堕してしまう。
そんなものをお金と時間をかけて誰も読みたいとはまず思えない。逆に言うと元はそういうものであっても、それをお金と暇を投じさせても読ませるところに作家の腕がある。
文学性との兼ね合いでいうなら、それが高ければ作品に少々の瑕疵があっても、特にそれがトリックのバカバカしさ、もっというなら「無茶苦茶や~ん、んなアホな~」なトリックであっても、それを補ってもあまりある香気めいた余韻が馥郁と残ればまた再び読みたくもなる。
そんな作品の好例に島田荘司の「奇想、天を動かす」がある。使われたトリックたるやあまりにも奇抜すぎて唖然としたが(島田荘司はこの手の力技もいいトリックが多い、笑)このはっきりいえばくだらなすぎるトリックがあるからこそ、島田が訴えたかった根強い民族差別の哀しみが「本格」には珍しく抑制気味の文章で強調される効果を出しているという、まさに「奇想、ペンを動かす」作品なのだ。
真面目な社会派ミステリと(トンデモ)「本格」の奇跡のコラボレーションであった。だから探偵役は吉敷刑事で御手洗名探偵ではなかった。地味な吉敷にしたのは必然であろう。御手洗ならばエンタメすぎる。
その逆に、ある作家の某長編を挙げておく。どちらも名を秘したのはこの作家(名前は自販機から想像してほしい、としかいいようがない)にはもはや信者レベルのファンがおり、講談社ノベルスでレンガのような分厚い頁数の作品でデビューしたのだが、このデビュー作と次の作品をもってコアなファンをあっという間に獲得した。そんなファンって怖いの怖いの怖いのよ~♪
第1作があまりにもぶっとんだもので、毒気に煽られふらふらと2作目も買い求め、おいおいまたかよ、こんなのあり~~?と呆れ返り、京極夏彦とは別の意味で「俺には無理だ」と親戚の当時高校生の女子にくれてやったら、彼女これまた虜になったようである。こやつの若き日の精神形成に私はおおいに貢献したわけだが、どうも嫌われっぱなしで道で会っても挨拶もしくさらん。もう30ウン才だというのに少しは大人になれバカタレ。
「霧越邸殺人事件」だが、この人物タイムテーブルと動機表が出てきて「あ、あった、あった、この表」と初読時を思い出し、しかしそれでも「犯人、誰やったかなあ、この表の中にいる人物ではなかったような気がする」と思い、あるいは記述者の作家志望の男が犯人か、カバー裏のあらすじ紹介に「驚愕の結末」と書いてあるからな、いや待て、事件の記述者=犯人なんて驚愕でもなんでもないしなあ、だいたいにおいて驚愕の結末というのは意外な犯人、すでに死んだやつが犯人というパターンが圧倒的に多いが、記述者が意外な犯人なんて1920年代の探偵小説でもあるまいし、「霧越邸」の頃の綾辻行人は「館」シリーズが当たり続け、まさに絶頂期、そんな作家がこんな古臭いトリックを使うわけがないし、なんてあれらこれらとつおいつ考えつ、少し読み進めては「こんなこと書いてあったか」と前に頁を戻して確認したりして、まるで先週の土曜に観た「ブラタモリ」で紹介された黒部ダムトンネルの難工事の如く少しずつ少しずつ読んでいくしかないのである。

ヨドバシ・ドット・コムさんありがとう。
記事タイトルのものを発注したのは昨日の午後8時過ぎ、そして今日午後2時過ぎ到着。
ヨドバシゴールドポイントを使用したので商品代270円の請求はなし。
ポイントを使わず現金決済にしても配送料は無料。
実はこの商品、近所のスーパーの文具コーナーでも売っている。
サンダルぺたぺた鳴らしながら歩いて行って往復10分足らずで帰ってこれる。商品の値段もほぼ同じ。
私、なんだかとてつもなく贅沢なことをやったような気がする。IMG_4763
歩いて買いに行けるものを、文具売場や文具店ならだいたいどこでも売っているものを、それもたかが300円足らずのブツを、倉庫のピッキング作業から始まり、この大きな箱に荷造りして、日本郵便のトラックに積み込み、どうやら名神高速から阪神高速へ、といわば大阪経済圏の大動脈を移動させて我が茅屋まで持ってこさせたのである。IMG_4764
このボールペン替芯3本が私の手に届くまでいったい何人の人を動かせたのだろうか。ネットでポチッとやるだけで商品が向こうからやってきてくれる便利さを享受しながら、なにか空恐ろしいものを感じてしまう。IMG_4765
こんなことでいいのかと生真面目を絵に描いたような実直で謙虚で繊細で奥床しき私は悩んでしまうのと同時に、まああれだわ、たった270円で企業の在庫を少しでも捌けさせ、トラック稼働率を上げ高速道路利用すれば高速代がかかり、といったことで私のおかげで日本経済はまた一段と活性化したとも言えるわなあと思えば、安倍晋三は私に大いに感謝しても罰が当たらんぞ。
合法非合法なものぜんぶネットで買える。SNSでの「絆」を上手く利用すれば人の心さえ買える。
スマホやパソコンひとつあればすべてが家の中で完結出来る時代も夢でなくなった。
ノマドワークの普及で一定の場所に通勤するという常識が常識でなくなりつつある。
ネットですませられる仕事を見つければ外へ一歩も出なくて済む。人と会うことすらなくなる。
リアルのコミュニケーションの煩わしさから人類は初めて解放されつつわけだ。
いい時代が来たものだ。

150円弁当の話をカアチャンにしたら、お金がないわけでもないんやから頼むからそんな安すぎるもん食べといて、という。
あんたの身体になにかあったら私ら母と娘が困る、もっとええもん食べてせっせと働いてもわらわんとなあ〜よっしゃ!、とばかりにカアチャンは家の近くのおなじみの肉屋さんに走って分厚いロースカツのとんかつを2枚、時間がないから店で揚げてもらい持ち帰りとし、それでカツてんこ盛りカツ丼を作ってくれた。
IMG_4754一応インスタ映えならぬブログ映えを狙いというわけでもないが、フタ付きの丼鉢を用意したが、文字通りてんこ盛りにしてくれたのでフタがしまりきらない。
玉子のとろけ具合がまことによろしく、豚ロースのジューシー過ぎる脂身とともに咀嚼すればがっつり感いやまし、めしの盛りの中を箸はブルドーザーのパワーショベルとなり露天掘りの状態で突き進み、間断なく豚肉、半熟玉子のとろみ、それによってほとびらされたカツの衣は、しかしまだ揚げたてのトゲトゲの舌ざわりを残し、それらの味が渾然一体となって染み込んだメシ(ご飯などと上品に言わせない迫力がカツ丼にはある)を次から次へ口内に放り込んでくれる。
私は玉葱がそれほど好きでもないので、カツ丼には使わない。カツと玉子と三つ葉少々だけである。三つ葉はカツ丼に欠かせない。香りが揚げ物の味の濃さとくどさを緩和させてくれる。箸休めならぬ舌休めとなってくれる。
あ、それと七味パッパッも忘れずに、ああもひとつ、カツ丼もそうだがトンカツのお供の吸い物は赤だしに限る。
いや~食った食った。10分足らずで完食だ。「あんた、なんぼ言うても早食いの癖治らんねえ。ほんまににガツガツ食べて」「うるさい。せっかくのおまえの馳走がまずくなるようなことをぬかすな。よけいなこと言うてんと麦茶くれ」。
カツ丼を喰らった男はたいていこうふうにナニサマ野獣の状態にしばらくあるものだ。
しらす丼や鉄火丼、あるいはもっと近いものとして鰻丼や天丼ではこうならないから不思議なものだ。

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