G-SHOCKも欲しくなった

やっと朝晩と昼間に吹く風の中に秋めきが感じられるようになった。
今夏は苛烈なる暑さがまるまる2ヶ月休みなく続いたことになる。毎日毎日33℃超え、夜も27℃を下回らず、これではさすがに無神経なまでにタフな私とてバテてしまった。
もとより加齢のせいもあるだろう。年ごとに体感的に疲労の蓄積が抜け切らない日数が多くなっているのがわかる。
働かないと食べていけないので仕事だけは日々を覆う倦怠感を鞭で追い叩きながらなんとか勤めているが、それ以外のことはもうやる気がない。
酷暑の中の大阪の親元通いも正直言ってうんざりである。我が親でさえそうであるのだから、このクソ暑いのに仕事と親のご機嫌伺い以外に外へ出て行く気にもならん。
パソコンの電源入れりゃ、こいつはとにかく25℃を超えればとたんに冷却ファンの排気音が人の神経を逆なでさせるほどうるさく、したがってスマホでネット接続と相成るが、あのスマホの小さい画面に向かって、むくつけきぶっとい指をチマチマチマチマチマチマ動かしているうちに「イィ~~ッ」とこれまた苛つきマックスとなり、いきおいブログ更新も途絶え、SNSは「忘れちゃいやよん」とお愛想代わりの「いいね」ポチがほとんどとなる。
話は変わるが、先週買った我がチプカシ君の働きぶりにますます惚れ込んでいる。アラームが5つ設定出来るのは特筆すべき機能で、仕事はルーチンワークの繰り返しだが、ルーチンなるゆえにそれぞれの時刻は厳守となり、ひとつでも忘れるとヘタすればおまんま食い上げの事態出来となる。
これまでは電話やネットの用件向きで使わなくなったガラケーを各時刻のアラーム設定をやっておったのだが、一旦鳴ったアラームは解除してやらないと、一定間の鳴動後も当然ながらいつまで経ってもアラーム操作中状態となるわけで、いちいち本体を開けての解除作業は煩わしい。(スマホのアラーム設定も同じようなものである)
その点、時計のそれは時計状態のままで「10秒間音を鳴らしますんで放っておいてください。とにかく知らせましたから」と楽でいい。状態解除の必要不必要はわずかな違いだが、このわずかな手間が積もり積もれば面倒くさいのだ。
同僚に元陸自の人がいるのだが、仕事の合間の話柄が軍用時計に及んだとき「自衛隊はやっぱりG-SHOCK使うのが多かったですよ。え?別に時計は制式のなんてないです。各自好きなの付ければいいんやけど、ドレスウオッチはさすがに問題外(笑)」なんて言っておった。
うむ。G-SHOCKな。これもカシオが生んだ超がつくほどの人気ブランドで、実はチプカシかG-SHOCKを買うかと迷っていた。なにせ象が踏んでも壊れない、それは筆箱、トラックが轢いてもまったく壊れずちゃんと動いたというのだから、過酷職場の王、陸自演習場でも重宝されるわけだ。
値段は当然、チプカシより高いが安いものなら4000円台からある。高いのになると30万以上するのもあるが。一旦欲しいと思えばいつまでもグズつく私の未練がましさは、昨日も大阪の親元を訪うた際、家の小うるさい女どもを先に帰しての久方ぶりのヨドバシ梅田に立ち寄りとなり、なんやこの人の多さは、それも日本語以外の会話ばっかりやんけと驚きながら時計売り場と上がり件の時計の数々を垂涎と憧憬の思いで眺めさせたものである。
家の女どもと別れる際、親分女(つまりカアチャンだが)が「なんやて。ヨドバシに寄るからぁぁ~?あんたっ!。クレジットカード持ってないやろな。財布とかポケット見せてみ。ほら、ちゃっちゃとしいや」と身体検査まがいのことを私にしでかしたのである。
「先に帰っとけ」の一言でカアチャンは「このアホ、またしょうもないもん買うつもりやな」ときっちり見破っていたのである。そこへもって子分女(娘である)が「あかんあかん、カード取りあげだけやったらあかんて。スマホも押さえとかんと。ネットで買いよるわ」と余計な、しかし鋭いところを突いて来てぬかしやがったのである。
「あほ、ネットで買うつもりやったらとっくに買うとるわ」と、腐っても一家の主の空威張りでスマホ取り上げは御免となった次第。女にわかってたまるか、時計に対する男のロマンちゅうのを。ああ~G-SHOCK欲しい。

チプカシの魅力

カシオの安物デジタルウォッチなら、今まで何十個という表現がオーバーでないほど買っては内蔵電池が死ねば捨て、また新たに買うことを繰り返してきた。
今つくづく惜しいことをしたと思っている。押入れの中のごった煮の闇を探ればもしかして奇跡的に捨てられずに生き残ったやつ、4~5個は見つかるかもしれない。
ここ数年、手首まわりをチープに演出してくれるガジェットとして「チプカシ=チープなカシオ(のウオッチ)」なる言葉とともに、そのあまりの値段相応のトホホぶりながら、へんに高機能でわりと使えるじゃんな時計として脚光を浴びている。
惜しいことをしたと書いたのは、捨てないで置いておけば一大チプカシコレクションとして壮観なる画像を披瀝し、チプカシコレクターの間でドヤ顔出来ていたかもしれなかったからである。
2年前に久しぶりにチプカシを買った。カシオが海外でしか生産販売していないアナログ表示タイプ、長針短針が時間を示すだけの超シンプルなものをAmazonで1300円で売られていたもの。ベルトは例の黒いウレタンゴムながら如何にも時計本来のデザインですといった潔さに洗練されたものを感じる。これの文字盤が白いタイプは超人気製品でカスタマーレビューの数もダントツである。
で、このたび2年ぶりに新たなチプカシを買った。デジタル表示。これぞチプカシの本命、チプカシがチプカシたるアイデンティティを保っているのはこのデザインのものである。チプカシはこの手のタイプがその嚆矢である。
定価(メーカー希望価格)2000円、そこをAmazonは1485円+送料350円、ヨドバシ・ドット・コムなら960円で送料無料。当然ヨドバシをチョイス。昨日発注してなんとさっき到着した。
ヨドバシやるなあ。Amazonにいいようにやられている日本のネット通販、どうせなら日本の企業に頑張って欲しい。ただ品数がAmazonに比べたらまだまだ少ないのが難点。
で今朝届きし型番F-201WA-9AJFのブツはちゃんと箱に入れられ、マニュアル冊子まで付いている。内蔵電池寿命は10年という長さ。日常生活防水(5BAR)、曜日英表示、むろんオートカレンダー、12/24時刻表示切り替え、ストップウオッチは2位まで計測でき、アラームはなんと5個まで設定可能、しかもそのうちひとつは月日まで指定できる。この無駄にすごい機能はチプカシならでは。グリーンライト点滅で暗闇でも視認できる。別の場所の時刻もわかるデュアルタイム機能までついて、なんと1000円を切ったお値段でのご提供です!とジャパネットの塚本君みたいに叫びたくもなる。cats
値段が同じようなものなら機能の数が多いを方を選ぶのは、遠い昔「冒険王」「ぼくら」「まんが王」などの少年月刊雑誌で付録がぎょうさんある方が得やん、てなわけで月々付録の数で買う雑誌を決めていた貧乏性の伝統とDNAが今なお私の中で脈打っている証である。
アナログ時刻表示からほぼ15年ぶりにデジタル時刻表示に戻したのは、仕事の都合上、分単位まで記録しておかねばならぬという事態がままあるということで。アナログ表示だとデジタル表示に比べ即認性にかけるきらいがある。長針は何時を指し、短針は何分を指しと一旦頭の中で翻訳せねばならず、デジタル表示なら見たその瞬間に何時何分何秒というのが数字で出ている。
この時間の視認性のよさは口喧嘩の時も大いに役立つ。たとえば「いつ俺がそんなこと言うたんや。何時何分何秒に言うたんや!」と大人げないことを返された場合、さっと腕のデジタル時計を見せて「この時間から3分前の何時何分何秒におまえは言うたんや!言・う・た・ん・や!」と、こちらも大人げなく念を押してやれば相手はぐうの音も出ない(と思う)。
件のブツは残念ながら時刻修正電波受信機能(いわゆる電波時計ね)はなく、ソーラーバッテリーでもない。1000円でそこまで求めるのは残酷すぎるというもの。
であるから時々時報などを利用して修正してやる必要があるのだが、ここがチプカシとダイソーで売られているワンコイン(500円)ウオッチとの大きな違いで、前述したアナログ表示のチプカシ、買ってから2年間一度も時刻を修正したことがないながら1分しか狂っていない。たとえチープと言われようと肝心な部分はけしておろそかにしない日本のメーカーの矜持や心意気みたいなものが感じられ、だからこそ人はリスペクトとラブを込めてあえて「チプカシ」と呼ぶのである。チプカシは蔑称でなく尊称なのだ。
小腹が減ったので「大盛りイカ焼きそば」を食う。買ったばかりのチプカシのタイマーを3分にセット。3分後、チ、チ、チ、チ…の電子音が。初仕事を見事に果たしてくれた腕の可愛いヤツを撫でながら、私は感涙にむせびそうになった。そして震える声で「オメガやロレックスがカップ麺出来たで~って、し、し、知らせてくれるのか?、ええ、おい」とつぶやいたものである。
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夢の柵の向こうからの残暑見舞い

加齢と今夏特有の気温もさることながら湿度の高さをともなった苛烈な夏のせいか、疲れがなかなか抜けにくい。
先日の終日勤務の疲労が、全身の血管に泥水を流しこんだかのように今なお沈積したままである。
そのせいか仮眠であっても熟睡できるのはありがたい。仕事の性格上、熟睡するのはあまりほめられたことではないが、身体がそれを欲求しているのだからしかたあるまい。
夢も「これは夢に決まっているではないか」という、半覚醒状態にみる夢にありがちな突拍子さやシュール性はなく、きわめて普通の筋運びとなる夢を見がちである。
それゆえに覚醒の瞬間は夢の続きの中にいるようで、しかし先ほどまでの光景、夢の中で目にしたすべてのものは寸毫も見あたらず、記憶の混乱は徐々に整理され、いつもの見慣れた部屋の光景が朝の白い空気の中で鮮明となりつつあるのを見たときは、夢の柵にもたれた背中に一ヶ月半も続いている酷暑が植えた汗疹のかゆみが走りだす。
リビングのテーブルの上に残暑見舞いの葉書があり、ありふれた夏空と海のイラストに、常套の時候挨拶が手書きの文字で入道雲の脇の筋雲のように流れ、裏返せば懐かしい名前が差出人の場所に恥じらっていた。男名前で差し出されているが、その偽名は間違いなく昔わりない仲であった女からのものである。
彼女の夫とは中学以来の友人というのが、彼女と知り合った端緒である。
自分の夫のことを一番よく知っている男性として、夫となにかあるたびに私は彼女の格好の相談相手となり、その流れで…世間によくある話である。男と女が紐帯の関係となるきっかけは多種多様にみえて、しかし根は単純なものだ。
そのあたりのあれこれを書くと煩雑になるので端折るが、結局彼女は私の友人と離婚、私は妻と幼い子供を持つ身である私が独り身となった彼女と肌を合わせるに至るまで時間はかからなかった。
およそ2年たらずの隠匿性を要する関係は時間が限定される分、濃厚で細密な逢瀬のひとときとなり、隠微さは淫靡さへと変わる。
それにしてもなぜ今頃になって斯様な葉書を送ってきたのだろうか。あの頃、世を憚る背徳の行為のほとばしりを弄び、それをなだめるために、彼女はこの男名前を使い、いくたびか私に手紙を送ってきたものだった。
電子メールというものがあるにはあったが、あくまで大学の研究者間同士のやりとりで実験的に使われている段階で、デジタル技術と生身の人間の恋とはまだ知り合わない間柄の頃だった。
結婚して4年も経っていない私に対する尺牘を女の名前で出す愚は避けて男の名前にしたのだが、この名前は彼女の私の共同の産物である。
夏のさかり、私と彼女は奥琵琶湖から余呉湖への小旅行を試みた。余呉湖畔の山荘風の小ホテルに一夜だけの二人の隠れ部屋を得た。
親湖である琵琶湖との間に横たわる山並みの尾根を茜色がなぞり、夜の帳は都会では見られない数の星たちを伴いながら降りはじめ、湖面はささいな風に神経質にうち震えて、薄墨色のモノトーンにアクセントを与えるかのような赤色のさざ波を送り出す風景を、私たちは握り合った手のひらに刷り込んで、いつまでも湖畔に佇んでいた。余呉湖
その年の夏は、前年の夏としては屈辱的な冷たさに終始していた鬱憤を晴らすかのように狂舞を演じ続けていた。昼間の大気の余熱がまだしつこくこの山峡にある小さな湖の縁を燻していた。
すでに漆黒の闇に包まれた湖面にホテルやロッジの灯りが蛍火のように点在している。生ぬるい夜風が小さな波をおこし蛍火を移動させ変形させ、彼女の瞳に飛び込ませる。私は彼女を思いきり引き寄せ彼女と唇を重ね合わせあう。
舌と舌のもつれあいからみあう隙間からもれる吐息は蛍火と変わり、形をなさない言葉の響きが狂言の鼓の音となり、明日が見えない男の女の隠れ恋の道行き模様が湖ぜんたいを幽玄の羽衣が覆ったように錯覚した。
いくぶん照れ屋の彼女は巧みに互いの舌先のほつれをほぐして、「夜になっても滋賀県の奥でもけっこう暑いね。滋賀は暑かねぇ」とおのが故郷である九州の方言でおどけて言ってみせた。
「滋賀は暑かね、か。それ名前にならないか。しがわあつかね、なかなかいい響きだと思う」
「そんなもの名前にしてどうするの?」
「男の名前だから、今度から僕に手紙を送る時は差し出し名無記名だと、さすがにうちの者が怪訝な顔つきの度合いを深めてきているんだ」
「そう」
彼女は言ったきりしばらく黙っている。さまざまな思いがその胸と思案を行き来し葛藤し怯懦と開き直りが錯綜していることは、自分たちの行いがけっして赦されるものでないことを自覚している私には痛いほどわかっていた。
沈黙の重苦しさは破綻への足がかりに続いていくのは必定であることに二人とも気づいているので、耐えられたものではなく、努めて私は明るく、「しがわのしは志、がわは川という字をあてて…」と言いながら彼女の手をとり、その手のひらに「あつかねは、厚兼、こう書くんだよ」と指先で漢字をなぞってみせた。
「だいたいわかるよ。じゃその字で書いてみる」
と言うなり彼女は私の胸に飛び込んできた。
「おもいきりだきしめて。ただだきしめて、それだけ」
彼女のいうとおりにした。風がまた、しかし今度はやや強く吹いた。人工の蛍火の動きと鼓の音の密度が増した。しかし時間は止まった。互いの鼓動と脈動がひとつとなり気流と変わって漆黒の天空をかけあがり、散りばめられた星々の間を揺曳している間は。たしかに。
その志川厚兼からの残暑見舞いの葉書がリビングのテーブルの上に置かれている。
私がそれを手にしたとたん、もたれていた夢の柵は倒れ、そのあおりで目が醒めた。
覚醒の場所はむろん家ではないから、葉書などあるわけがない。しかし夢の中の葉書の差出人、志川厚兼の右肩に記されていた住所、大阪府守口市某町某番地は彼女が住まっていたマンションの住所である。いく度か泊まったこともある。
今も住んでいるのかどうかはわからない。あくまで夢に出てきた住所であるが、志川厚兼という名前といい、実際にある住所が表記されていることといい、どこか名状しがたい感慨めいたものを、近頃やや遅くなってきた乳灰色の空を朝焼けが淡く照らすいっとき煙草の煙の中に散らしてみた。
大阪の実家や介護施設に父母を訪ねた足で葉書に書かれた住所を一度は訪ねてみよう。たんに酔狂なのか、あるいは遠い日の未練の切れ端をどこかに無意識nしまい込んでいたのか自分でも定かではない。
葉書には電話番号が記載されていなかった。これは電話をするなということか。おいちょっと待て。夢の中の葉書ではないか、現実ではないんだと思わず苦笑してしまった。
携帯電話も市井の人間までには普及していなかった頃、電話といえば固定電話であるが、彼女のその番号などもはや覚えていない。06の904か905(大阪市内局番が3桁の頃である)か、それ以上は思い出せないのである。
夢の柵の向こう側にいけばわかるのかも知れないが、こちらから意識的にいける場所ではない。さすれば住所とて同じこと、たまたま夢が私の脳に思い出させただけである。それだけのことで現実にそこを訪うことは、なにかを冒涜するような気がしてならないのだ。

(画像はイメージ。「eoおでかけサイト」(http://eonet.jp/travel/data/3057774_1386.html)のものより拝借)

ガラスの言葉~吉田拓郎

さすがに盆を過ぎると日中(ひなか)はともかく朝夕涼しくなった。
夕暮れの涼風の中、海岸を缶ビール持ってぶららぶら歩いていると口をついて出てきたのが、記事タイトルの歌。
私はこの歌詞が好きで、こんなな~~んも考えてない、いや待て、何か意味あるはずと考えなおして、それでもなにが言いたいのかさっぱりわからん、というのがいい。
この曲が入っているアルバム「元気です」には、アコギの3フィンガーテクを充分に味わえる「リンゴ」も収録されているが、石川鷹彦がギターを担当している。
記事タイトル曲は本人が弾いている。それはともかく歌詞である。

ガラスの言葉 詞・及川恒平 曲・よしだたくろう

笑ってるよ白いワンピースの
長い髪に落ちていく影
それは誰ですか

ふと止まる鉛筆の中から
まっさらな日記帳に落ちていく影
それは誰ですか

ガラスの言葉が眠っている
遠いあの日の遠い街

こんばんわ どこへいく風
ミルクウエイに花が
ほらあんなにいっぱい、ほらゆれてるよ

風が吹いてるそのとき
風を見ていたその瞳
それは誰ですか

食べかけのチョコレートから
お幸せにと落ちていく影
それは誰ですか

ガラスの言葉が眠っている
遠いあの日の遠い街

食べかけのチョコレートから
お幸せにと落ちていく影
それは誰ですか


という歌詞である。あの「出発の歌」の詞を書いた人と同じ人とは思えない投げやりで、「落ちていく影」んところ、も少し他に言葉がなかったのかと思うけど、You Tubeの動画を見ながら逐語的に手書き、いや手打ちで書き写しているうちに、なんともいえないいい味が目を通じて脳に左脳でいったんろ過して右脳に伝わってくる。

「ふと止まる鉛筆の中から
まっさらな日記帳に落ちていく影
それは誰ですか」

なんて中原中也テイスト(あくまでテイストですよ)みないなものを感じる。
ちょっと調べてみたら作詞者本人が実にええかげんに作っていたのが判明
でも歌詞とか詩、文章表現というものひらめきみたいなもだから、ええかげん、いや言葉悪ければ「ラフに」作る方がむしろいいのが出てくるもの。

LEE20倍カレーとサドンデスソース

昨日の記事にも書いたが、2日連続早朝から日付が変わる時刻まで食うや食わずの状態で働いていた間、食べたくて仕方がなかったのが、とにかく激辛のカレーであった。
家で作るカレーは女連も口にするので、そう辛いカレーを望むのは無理で、こういう時のために常時買い置きしているレトルトの「グリコLEEの20倍カレー」にひたすらすがりつきたかった。
これに3年前からこれまた切らさずように心がけているサドンデスソースの、それも一番辛いタイプのものを数滴たらし、ヒーヒーと口内全域と舌に鞭打ちながら、ライスとルーとソースが織りなす激辛カオスをがっつり味わう。
エアコンをつけても流れ出る汗を拭きながら、そのあまりの辛さに小さな悲鳴をあげること自体に快感を覚えるマゾッホで倒錯的なひとときに浸りたかったのである。
それを本来の夜勤シフトに出る前に摂る少し早い夕食で実行したのであった。
いくら辛味が好きだといっても延々それだけでは単調になるので、生野菜にマヨネーズをかけ回したものをスプーン休めとし、凶悪レベルの辛さをたっぷりと堪能し、汗流しに風呂を使い、やおら出勤へという流れになった。
それにしてもサドンデスソースは重宝する。これ1~2滴使うだけで、世間レベルでいう極辛となりうる。さすがに刺身や奴、うどんやそばといった和食にはそれぞれ山葵や唐辛子に比べれば風味的にミスマッチは否めないが。
サドンデスソースを知ってから、夏期限定発売のLEEの30倍シリーズは買わなくなってしまった。
毎年、おもに中南米やアフリカ方面の熱帯で使われる液状の激辛調味料を別添え小袋につけて、それをもって20倍+10倍としていたようで、世界各地の激辛の味を知る好機でもあったが、どんなソースよりもサドンデスは私にとっては辛いのである。
先月末、ストックの最後の分を開栓したこの瓶もまたたくうちに費消して空になることだろう。激辛ソースは即空ソースでもあるのだ。
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楽してお金が入るにこしたことないではないか。

先週一週、このブログに何も書いていない。
先週前半はあまりの酷暑になにをするのも億劫、後半、といっても昨日一昨日だが、事情があって夜勤シフトから、朝夜明けとともに家を出て、夜は日付が変わる直前に帰宅。わずか4時間の睡眠を余儀なくされ、その間、仕事の合間を見つけては「とにかくかっ込んでおけ」というやり方での食事を余儀なくされた。
だいたい私は義務的な早起きを強いられると余計に眠れないタチにできている。そこのところはデパスのジェネリックであるエチゾラムを増量して無理やり眠るようにするしかなかった。
てなわけで当節流行りのブラック企業の過酷な勤務に似たものを、シフトの都合上2日間連続で体験したのである。断っておくがうちの会社はブラックではない、むしろホワイトな方で賃金が安いのだけが唯一の欠点(笑)。
2日間、朝から深夜まで、スマホでネットにアクセスする時間もろくにないほど働きづめに働いでも日給換算で1日1万円足らず。
世の中こんな条件で2日間どころか、365日ほとんど休日も与えられず働かされている、もはや奴隷労働というしかない仕事でたつきを得ているひとは今の時代、いくらでもいる。
たった2日でへとへとである。60歳の私だからそうであるのかもしれないが、これではどんな頑健な若い人でも毎日毎日、早朝から深夜まで睡眠時間も削られ休日も与えられずに働かされた日には過労死するか、自立神経系の制御が効かないようになって思いつめた果てに自殺を選ぶのも無理もない。電通やユニクロ、ワタミの悲劇はまだまだこれから先起こりそうだ。
「俺(わたし)達は若い頃は血の小便出たほど働いたものだ」なんてくだらないことを自慢するオヤジ(オバハン)が経営陣や上司にいる企業はそれだけでもブラックであるという認識がまるでない。
「長時間会社に居残って時には徹夜もしたのだ」というのは何の自慢にもならない、時間を無駄に使い非効率のまま働いて生産性を高める工夫をしなかっただけ、出来なかっただけの能なしのたわ言にすぎない。
「人間楽してお金は手に出来ない」と、戒め的に昔から言われていることだが、そうだろうか。
できるだけ楽して、効率的能率的に少しでも多くお金を得られる方がいいに決まっているではないか。そのことを真剣に考えて実現させてこそ「人間らしい」生活ではないか。
それにはやはり印税生活が一番である。寝ている間、遊んでいる間に銀行口座に多額の金が振り込まれて、という濡れ手に粟、棚から牡丹餅、金色(こんじき)と薔薇色の人生をめざしたい。
印税を得るには本を書く、音楽を創る等表現物を世に売り出すしかないのだが、音楽や絵や漫画は特別な才能が必要。文章は誰にでも書ける。さほどの才能などいらない。
文学ならともかくこれから言及する自己啓発からみのビジネス書か、夢をかなえるとかスピリチュアルがどうの引き寄せの法則がどうのとのたまう自己実現本などむしろ文学的才能など邪魔で、当用漢字の知識、それに普通に作文さえ出来れば、後は詐話の能力とハッタリさえあれば誰でも書ける。このジャンルの書き手は売れ出すと文章の能力すらいらない、編集者が適当にまとめてくれる。
30年ほど前ある著作で世に出た某売れっ子の著作物などほとんどこのやり方で書店の棚に並んでいる。出版業界の公然の秘密だ。
それはともかく出版不況がいわれて久しいがこの手の本はいつも書店で目立つ場所に平積み状態に置かれている鉄板の売れ筋本である。
それだけ世の中にはこんなものを有難がる手合が多いという証であるが、他人の同じような書物を30冊も読めば、なんとか自分の知識としてでっち上げ著すことが出来る。経済の知識の基本を抑えておいてそれらしく書けばビジネス自己啓発本一丁ハイ出来上がりましたと澄ました顔をしていればいい。
実際に手に取ればどの本も内容貧相で安っぽい大きな文字で行間スカスカ、改行の連続で頁を稼ぎ、装丁だけは上質本ハードカバー、それを覆うカバー写真には著者がアゴに親指をあてる「いかにも私賢いんです」てなポーズの顔写真が麗々しく刷られていが、なに中身なんてたいしたことは書いていない虚仮威しもいいシロモノばかりだ。
スピリチュアルや、引き寄せの法則で夢叶います本も同じようなものである。
この手の本が売れた著者はたいていまとも怪しげ関わらずなんらかのセミナーでの講師に呼ばれる。
売れっ子になると2時間ほど他人の知識をパッチワークのようにつぎはぎして、面白おかしく講釈たれていればギャランティの50万も楽に稼げる。時間給25万のバイト。両津勘吉の目が$マークに変わるてなもんだ。
セミナーの後は著者本の即売コーナーが必ず設けられているから、本人に適当にサインのひとつもしてやればカモがどんどん買ってくれる。あらたな印税も懐に入ってくる。
どんないいかげんな著者でも「先生」と呼ばれ、ゴルフと美食三昧の日々、日々新たな知識を仕入れたりといった努力なんぞしてますかいな、ただ毎日遊びほうけている。
自己啓発本界の超売れっ子のあの人やこの人などの本を適当に2~3冊選んで立ち読みしてごらん。「使い回し」というしか言い様がない内容だから。よくまあこれで金取れるなあと呆れてしまうから。
しかし、売れた者勝ちである。需要があるから供給ありの資本主義の原則に従い、どんなに拙劣極まりない本にも羽根が生えて飛んでいき、札束くわえて戻ってくるのである。
こんな美味しい生活はない。これは俺にも出来そうだ、よしこれでいこうとこの2日間そればかり皮算用しておったのである。

夏なんです

蝉しぐれが缶ビールにしきりと汗をかかせている。
ひとくちの目の冷たさと苦みが喉を引っ掻いた心地よい痛さはすでになく、ビールは流した汗の分だけ懶惰の生ぬるさだけをだらしなく口の中で広げていた。
境内と社務所に誰もいない気配をいいことに、不敬は承知で煙草の先に火を投じ、深々と喫いこむ。
碧い空に積乱雲の子供たちががゆっくりと動いている。
蝉の音はいっそう高まり、自在に四散する煙草のけむりに絡みついてくる。
静かだ。夏の昼下がりの無人の神社は、誰をも松尾芭蕉にしてしまうのか俳聖のあの有名な句がすとんと心の腑に落ちていく。
静けさの中で煙草を喫いビールを飲み、煙草の灰を指先で落とし、蝉の求愛の合唱はいやでも耳に蝟集し。
それ以外はほぼすべて意識にのぼらない。
無の境地とはこのことを言うのかどうかは定かではない。
そんな境地に凡愚凡人俗物の最たる私ごときがなれるわけはないと苦く笑う。
喫い終わった後の煙草は空になった缶に落とす。
底にわずかに残ったビールに消された火の音がかすかにしたのを確かめて缶を軽く振ってみる。
一陣の風が境内を走る。杜の木々たちがざわめく。
蝉たちは「ん?」とばかりに一瞬鎮まり、また争鳴に精を出す。
夏の日ざかりの境内はただ白い光の中でしらん顔してだんまりを決め込んでいる。


やっぱり国産牛肉は美味い!

依然暑いが、昨日今日とさほどの湿気はなく風が吹けば汗がすっと退くぐらい。
こういう猛暑ならさすがに歓迎とはいわないが、まあ耐えられる。
昨日は久しぶりに動きに動いた。神戸へ帰り際、コンビニで缶ビールか缶チューハイなどを求め、涼と開放感を得ようと思ったがぐっとこらえる。なまじビールなどを飲むと腹がふくれてしまう。家に帰れば今夜は…。IMG_20170801_191617
娘が私の誕生祝いにと用意してくれたステーキは、神戸では老舗の精肉店森谷商店の神戸牛サーロインステーキ300g様であった。「野暮を承知で訊くが、これはいくらぐらいした?いや、無理をさせたんやないかと思てな」
「そんなことを訊くもんやないの」と娘は私の愚問をぴしゃりとさえぎり、肉を焼きにかかった。
「それより、本当に300gでいいの?ちょっと多いよ、てお肉屋さんに言われたわ」と娘は笑う。
IMG_20170801_191914私の見立てはこのステーキ1枚、樋口一葉1枚と漱石文豪1〜2枚はまず間違いないとふんだ。
私は娘に「はは~恐れ入りましたでございます」とひれふしそうになった。
レアに近いミディアムに焼き上げられたステーキの味付けは少々の塩と胡椒だけで充分。
さすがに肉質柔らかく、舌と歯をベルベットで包まれたのような感じ。
サシの脂分と肉そのものの味のバランスも抜群。
数回の咀嚼だけで我が口腔内は至福の園と化し、ただ陶然するばかり。IMG_20170801_194824IMG_20170803_082114_459

「国産の肉は変にサシが入って脂っこく、柔らかすぎてどうも肉を食ってる感じがしないんよなあ」と常々賢しらにほざいていたのは、高価な国産肉がなかなか食べられないことの言い訳に過ぎなかったんだと痛感する。
なんだかんだ言ってもやはり国産ブランド肉は美味い、本当に美味い、心底美味い。
付け合わせがショボいのはご愛敬、ワインもその辺のスーパーの1000円もしないチリ産赤ワインではお肉様に対して失礼ではあったが、付け合わせはともかくチリ産の赤ワインが私には美味しく、たちまちのうちに1本開けて、後は「角」のオンザロック。
300gのステーキをあっという間に平らげ、酒量も底なしに近く、自分の健啖ぶりに「俺はまだまだやれる。若い。老け込んでたまるかい」と意気新たに昂然となした次第。
次は500gに挑戦や!、と言えば「今度は自分で買いなよ」と娘に冷や水をかけられた。

情けない新還暦男。

先日、60歳になった。
べつだんの感慨はない。59歳の次は60、来年は61、ようは数字の並びのひとつに過ぎない。
還暦という節目の慶事年であるが、慶事「慶」の字が日常身辺に少しもない。
どころか、60年間いい加減に生きてきた天罰今こそ知れとばかりに先週来より、大阪の実家絡みで難事とまではいかぬがトラブル出来となった。
数日にわたって慌ただしく過ぎ、先日とりあえず家内を大阪に遣り、今日火曜日は仕事が休みの私がトラブルの総括と整理のために行く。
ただでさえ、先月来のほぼ1ヶ月に亘る酷暑にさすがに頑健に出来ているとはいえ多少バテ気味であるというのにちょっと気が重い。
そんなことをグズグズ言っていると、娘に「遅い誕生日祝いとなったけど待望の300gサーロインステーキを買ってあげる、キンキンに冷えたビールも用意しておくから、ぶーたれてないで行って来い」と背中を蹴飛ばされた。
鼻先にステーキをぶら下げられて涎を垂らす卑しさもあり昼前に出かける予定である。
娘にせつかれ食い物に釣られてようやくやる気を出す、実になっさけな~~い還暦男もいたものだ。

牛丼とビールで失われた30分。

なんであの時、牛丼なんか食べたのか、2日経った今でも慚愧に耐えない。
一昨日のことである。散歩に出た某所にある某量販型古本店の店先の100円均一の棚を眺めていたら、1973年刊行の新潮社「安部公房全作品集全15巻」のうち7~12巻6冊があったのを見つけた。
「おおっ」と手に取り入念に子細を調べる。40年近く前に刊行された本である。
各々さすがに経年焼けは致し方はないにしても、箱入り月報付きでさほどの汚れもなく、開きや折り癖、書き込みなど一切なし。函もほとんど傷みもなく完本に近い状態。
全巻揃いではなくいわゆる全集物の端本の集合ではあるが、これはやりようによってはAmazonやヤフオクに出品すればかなりの高値で売れるのではないか。
これだから量販店古本屋の店舗外陳列商品眺めは止められまへんわ、うひひひひひひとほくそ笑む。
しかし、この暑い中歩いて腹も減り喉も乾きに乾いている。
とりあえず虫養い、水分補給、汗乾かししようと、その店の近所にある牛丼屋に牛丼とビールを相手に、じっくりこの掘り出し物の販売戦略を考えようと入ったのが間違いの元だったのだ。
牛丼屋にいたのは30分足らず。腹はふくれビールと冷房で汗もひき、値付けと売り出しのタイミングプランもばっちり立て「さて、では」と上機嫌で、再び古本屋におもむく。
さっきの棚を見やる。ないのである。安部公房が1冊残らず消えているのである。安倍公房どこ行ったのだ!
さては店員が棚の整理のために他に移動させたかと思ったが、安倍公房の6冊の本の前後左右の本は30分前と寸分違わない。つまりは30分の間にどこぞの誰ぞがお買い上げになられやがったのである。
自分のことはすっかり棚に上げて「んまにもう。これやから油断も隙もないねん。どうせオークションサイトか密林で売りさばきよるんや。100円で仕入れてその数十倍もの値段で転売する悪徳商人奴が、さもしいやっちゃ、と憤慨のあまり、ひいたばかりの汗がまた噴き出してきた。
「掘り出し物において『次』と『幽霊』は出ない」という鉄則がある。
これはと思った商品を見かけたら躊躇せず買う、あるいは店の人間に頼み込んで1000円でもいい手付金、前約金を払い、他人に売るのを抑えてもらうのが鉄板の法則である。
「後で買う、次に買うは掘り出し物という名の気まぐれな幽霊には通用しない」ということ。
それをけっして忘れたわけではないが、酷暑と食欲が私に気の緩みを生じせしめたのだ。
たかが「牛丼とビールの組み合わせ」の魅力に負けてしまったがゆえに。
ほんまに口卑しい自分が情けなくなる。同時になんで古本屋の近くで牛丼屋なんか開いたんや、○○家のくそったれが、と見当違いの八つ当たりもしたくなる。
悔やんでも悔やみきれない。一昨日と昨日はAmazonやヤフオクはじめオークションサイトを見る勇気がわかなかった。
私が買い損ねた本を誰かが出品して、それが高値で売られたり落札されたりと知れば、悔悟、懺悔、嫉妬、怨嫉、憤怒、悲嘆、愁嘆、ありとあらゆるマイナス感情に襲われ、懊悩する羽目に堕ちてしまうのが怖いからである。
今朝、ようやくおずおずとそれらのサイトをスマホでのぞいてみると、安倍公房の件の本、全15巻揃いのものは別として端本には高値もついていず、入札価格も持ってけ泥棒価格からスタートしている。
まずは胸をなで下ろしたのだが、これがもし私が見立てた価格かそれ以上の値付けになっていれば歯ぎしりのために口腔内の歯は全部なくなり、血圧があがりすぎて口からおろか耳、鼻、陰茎、肛門、毛穴、体のありとあらゆる場所から血が間欠泉の湯のように噴き出し、あえなく悶死していたであろう。
しかし今後の予断と油断はゆめゆめ許されない。世の中には「こんなものでもいいの」みたいな物を高額で買ったり落札する物好き好事家がいる。
本の全集物、雑誌のバックナンバーなどを蒐集している人の中には一冊でも欠本があると必ず埋めないと気がすまない、死んでも死にきれないという人が結構いる。
いやそういう人の方が圧倒的に多い。この手のコレクションは全部揃えてこそ初めてコレクションと呼べるのだ。その情熱たるやすごいものがある。
自分が「こんなもの」と勝手に決めつけるのは禁物。人によってはそれが「これ、これが欲しかったんだ」という物が必ずある。
たとえ端本の集合であっても欲しければ金に糸目をつけず買いたい人が出てくるものだ。
それを考えるとまたまた「牛丼とビールで失われた30分」に対する口惜しさがむらむらとこみ上げてくる。
なんであの時、牛丼なんか食べたんや、ビールなんか飲んだんや、そんなもん後回しでもよかったやないか、なんでなんでなんでやね~ん、と頭をかきむしりながら悔し涙がボロボロとまではいかないけど、ああもったいなことをした。商機を逃してしまった。
当分牛丼屋に行かんぞ。
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