ビートルズの(というより彼らがカバーした50年代ミュージカルの名曲)「Till There Was You」がベースになっている、ということ。
なるほど雰囲気は似ているような気がするが、まったく別の曲になっている。
換骨奪胎のいいお手本だ。
人に教えられて「へえ」と思った。

井上陽水「東京」


ビートルズ「Till There Was You」


人に教えられて、と書いたが、人というのは我が愚娘。
「26歳の若造がでなんでこんなことを知っておるのか、友だちが音楽に詳しいのか、オマエら年代でビートルズとか陽水とかありえへんやろが、え、おい」と問い質したら「まあね」とだけぬかしやがった。
「年がおっさんのカレシ」という変な虫がついとりゃせんやろな。

家にあった3年ほど前の「オール讀物」を職場に持ち込み読んでいたら、同僚のおっさんが「なに、読んでるの」と訊いてくるので「小説の雑誌や」と答えたら「お、部佐さんも芥川賞を目指すんか」ときたもんだ。
これが同じ文藝春秋の「文學界」、あるいは新潮社の「新潮」、講談社の「群像」といった文芸誌を手にしていれば、芥川賞狙いの勉強の一環で他人の作品を読んでいるのか(実際その手の雑誌を常時購読している人間にはたしかに芥川賞ワナビが多いのだが、というよりそんな連中にしか読まれていない)と言われるのはわからなくもないが、通俗小説系の「オール」を読んでいるのを見て、芥川賞云々に言及するのはお門違い、とこの同僚に言ったところでわかりっこないだろう。
では、通俗小説が対象となる直木賞狙いといえばよかったのか、と返ってきそうだが、直木賞はぽっと出の作家には与えられない、それなりに実績を積み、そこそこ名の売れている作家に与えられる賞である、と説明したところでわかってもらえないレベルに同僚はいる。
この同僚にとって芥川賞などは「去年か一昨年か、お笑い芸人が受賞した、小説とかそっち方面の有名な新人賞」ぐらいの認識でしかない。
別に同僚をバカにして言っているのではない。普段に活字だけの本や小説なんぞこれっぽちも読まないという人にとって文学の賞などは、自分の興味関心の範疇のはるか外にいる。
うちの妻娘もそうだが、芥川賞が「まるきりの新人賞であり、本を出したらもらえる賞である」と誤認しているのもむべなるかなである。
「あのな。とりあえずは商業的に作家デビューしてから十年以上経ってもらった人もいるし、受賞作品はまずは雑誌に掲載されたものが賞の対象になるんやな、芥川賞というものは」と言い、さらに「その雑誌も『文學界』『新潮』『群像』『すばる』『文藝』の、いわゆる五大文芸誌と呼ばれる雑誌に当該年分前年に掲載されたものが対象で、…っておい聞いとるのか!」とせっかく説明してやっているのに、二人に欠伸とそっぽ向きで応じられた。こんなものである。
ある程度本を読んでいる人の中にも「芥川賞=駆け出しの新人に与えられる最高レベルの賞じゃないの」とこれまた笑えない誤解があって、商業文芸誌デビュー2、3年あたりの新進からベテラン作家まで幅広い層を対象にした「川端康成文学賞」「三島由紀夫賞」の方が、同じ作家の「芥川賞」候補作よりもずっと出来のいい質の高い作品が選ばれることが多い。当然のことだが。
私の好きな芥川賞作家で最近の例を挙げると、西村賢太が「苦役列車」で芥川賞の誉れに輝いたのだが、それより前に発表して、候補止まりの川端康成文学賞「廃疾かかえて」、同じく候補で終わった三島由紀夫賞の「どうで死ぬ身の一踊り」、この作品は芥川賞候補作にもなっており、結局、誰が見ても上記二作より見劣りのする「苦役列車」が芥川賞を穫ったのである。このあたり不思議で仕方がない。
皮肉なのは又吉直樹の「火花」。三島由紀夫賞を逃した作品が芥川賞では合格であった。
ここまで来ると芥川賞、最近のに限っていうなら作品の質よりも話題性を先行させているとしか言いようがない。たしかにこの程度の出来映えじゃ「三島」では落とされるわなと妙に納得したものである。
おっと、階段を上がる音が聴こえてきた。こんな本を読んでいたら、それこそ「芥川賞を狙ってるのか」と言われかねない。慌てて鞄にしまった。
image

男が多い職場である。
あっちの気(け)がある男を何人か見てきた。
あっちの気があるらしいという噂を含めたら、実にあっちの気の含有率が高い職場であると一見思ってしまうのだが、母集団がそも男が多いから子集団に含まれるあっちの気の人もそれだけ多くなるわけだから、率の高低(たかひく)を論じるても意味がないが。
文章ここに至るまで「あっちの気がある」という言い回しを何度も使ってきた。
こういうボカシ表現やもろに「ホモ」「オカマ」呼ばわりは差別やヘイトであると捉える風潮が高まっている。
LGBTの方たちの人権に配慮してのことだという。
またLGBTというひとつの価値観を、人間の他の基本的かつ普遍的な価値観として認めるべきだという考え方が世界的規模で敷衍されている。
そのこと自体は非常に大切なことではあると思う。
かの人たちの価値観を損なうあらゆる言説や動きにノーを突きつけることは知性主義のひとつの現れであり、揶揄的に語られる方ではない「意識が高い」ことの証左でもある。
しかし、LGBTそのもの、あるいはそういう生き方を選びとった人々の価値観は認めるにやぶさかではないが、個人の好みの問題でそれを拒否する自由も担保されてしかるべきであろう。
かいつまんで、ざっくばらんで、で言えば「男が男に向ける性愛の情(女性同士のそれもあわせて)を含んだ好意の視線がなんとも気色悪い。俺はごめんだ。俺はそんな趣味はない」と、慌てて手を振り否定し拒否する自由も担保されなければいけない。
LGBTの人たちが「僕(私)たちを気持ち悪がる権利は誰にもない。僕たちを嫌がることは人権侵害だ」と殊更に声高に叫ぶのなら「おいおい勘弁してくれ。気持ち悪いものは気持ち悪いのだから。これは仕方がないだろう」と小さな声で異議申し立てしたくなる。
それって逆にLGBT側の非LGBTに対する価値観の一方的な押しつけ以外の何物でもないだろうが、とも思う。
最近、某作家のミステリ短編集を読んだ。全面的にそのことを打ち出さず、話運びの小道具として小出しに表現されているが、探偵役はゲイのカップルである。
ゲイのカップルの生活ぶりそのものは具象的に描かれていないが、そういう関係の男同士が互いにパートナーと認め合って、一つ屋根の下に性愛を伴った暮らしを共にしているという小説上の事実が、なんともいえぬ不快なものとなって、ミステリ小説本来の楽しみである、伏線探しやらトリック解明やらの興味が後退し、ついに読了できなかった。
あらゆる人の基本的人権はこれを認めなければならない。LGBTの人のそれも同じこと。それを侵害する権利は誰にもない。
しかし、だ。自分の中の倫理観がそう思っても感情の部分で如何ともし難い部分があるのは、生身の人間だから致し方のないことでもある。

仕事で朝帰りの途中、家路最寄り駅よりひとつ手前で降りて、松屋に入り牛めしでちょい飲みを楽しんだ。
ライバル吉野家も2年前あたりから、この「ちょい飲み」サービスに力を入れている。
これからの季節、ビールで喉をうるおしがてら、ちょっと虫養いしたいという時にこの手のサービスは重宝する。
松屋でオーダーしたのは牛めし並盛とハイボール。
290円の牛めしに150円のハイボール合計440円。ワンコインで釣りが来る。まことにリーズナブル。
夜勤明けの疲れた体、それから来る喉の乾き、そして何よりも空きっ腹にまずは一口、と飲むブラックニッカのハイボールが実に美味い。
牛めしの牛に紅生姜を乗せて七味をふりかけ肴となし二口目を飲む。三口目は紅生姜単独で、四口目はこれが松屋のいいところなのだが、サラダドレッシングやBBQソースなどの調味料が充実していて好きなだけ使える。松屋の牛にはサラダドレッシングが意外に合う、でそれで。
アルコールが心地よい疲労を体全体にゆるやかに拡散させてきたところで、〆として牛めしの御飯之部に味噌汁とともにとりかかるわけである。
〆に移らず、もうちょっと飲みたいと思えば、券売機でハイボールなりビールを買えばいいし、店によって追加オーダーは口頭でも受け付けてくれるところもある。
松屋は一品サイドメニューも多く、これでは「ちょい」から本飲みに進みそうだが、松屋も吉野家も尻を落ち着けて酒を飲もうという雰囲気を醸成させていないので、さすがは客の回転が第一のファーストフード店、酒を飲ませてもちゃんと計算ずくなのだ。

image

「グランピング」という名のキャンプ形式があるらしい。
寝泊まりする場所はロッジ風コテージ風の建屋になっていて、冷暖房入浴施設完備。
建屋の前でバーベキューを楽しむシステムになっている。
近年人気を呼び、シーズンは予約で満杯大盛況とのこと。
これのどこがキャンプなの、ただの貸別荘のミニ版じゃないの、と思うけど、アウトドア遊びは大の苦手、しかしキャンプの雰囲気もそれとなく味わいたいという発作が数年に一度ある、というまことに身勝手な私のような人間にとって、なかなか重宝できそうだ。
野外でのバーベキューは好かん。ただでさえ暑いし、肉や野菜を焼く匂い、人間の体熱と発散する汗に誘われて蚊や蠅、蜂に虻がやってくるし、紙コップについだビールはたちまちのうちにぬるくなるし、クーラーボックスの氷も3時間がだいたいの寿命だ。
ぬるい水が溜まっただけのクーラーボックスを見ていると、憎々しくて蹴りたくなってくる。
準備も後片づけも大変、かつ面倒くさく、BBQなどいいことなんぞ少しもない。
昔はよく家の近所の浜で親戚とその友人たちが開催するBBQに誘われていたのだが、義理絡みだから余計に行くまでなんだかんだグズグズ言い、行けば行ったでクソ面白くもない顔で通してしまうから、とうとうお呼びがかからなくなった。ほっとしている。
何が面白いのか未だにさっぱりわからない。
みんなでワイワイやるところがいいとも言われるが、ともに飲み食いするのは多くても3~4人までぐらいがちょうどいい案配であると思っている者にとってはただの苦痛のひとときである。
多人数になると必ず場を仕切りたがる奴が出てくる。
鍋奉行ならぬBBQ奉行然と振る舞い、あれこれ余計なお世話な指示を与えたがる。どうでもいいような蘊蓄とともに。
あれはいつのBBQだったか、あんまり暑いんで紙コップに赤ワインに注ぎ、自分の手のひらでクラッシュさせた氷片を放り込み飲もうとしたら、お奉行様が「たとえ安物でもワインに氷はルール違反やな」とぬかしやがった。
半分笑いながらの言なので、冗談半分とはわかっていたが、こいつのそれまでの仕切りたがりの出しゃばりな態度に相当頭に来ていたから、「うるさい黙れ。放っとけボケ」と紙コップごと、そのしたり顔にぶつけてやった。
「なにするねん!」と顔半分に赤ワインを滴らせた奉行はいきり立つ。「じゃかましんじゃ、さっきからおのれは。男のくせにごちゃごちゃと」とこっちも酒の勢いを大いに借りて立ち上がる。
「まあまあまあまあまあまあ」の声が×30回ほど周囲の人から起こり、その場の一番の年長者が間に割って入り、なんとか収まった次第であるが。
最近、一人BBQというのも流行っているらしい。道具や食材一切自分一人で差配し、行きたいところに行って、誰に気兼ねすることなく、小姑めいた横やりをあれこれ入れられることなく、生焼けであろうが焦げかけであろうが好きな時に肉を食らい、好きな酒を好きなだけ飲んで。
お笑い芸人のヒロシがこれに凝っているらしく、BBQの場所などだいたい同じような場所にあるから、そんな一人BBQファンの何人かといつしかお馴染みとなり、ひとときの交歓を楽しむというらしい。
それならそういう人たちばかりが最初から集まればいいではないか、と思った人は一人BBQのなんたるかを理解できていない。
この一人BBQ、たしかに一人気ままで楽しいだろうが、野外でやることには変わりない。
暑さと虫がうっとうしく、横着で無精な私はやはり冷房が効いた部屋で、当たり前だが、炭おこしなんか不要なホットプレートで、あらかじめ食べやすいサイズに切られた肉や野菜を用意して、ほん近くに冷蔵庫があり、すぐに冷え冷えのビールを出せるポジションで阪神の試合でも見ながら飲み食いできる、つまりは「一人おうちBBQ」が一番重畳なのである。

今朝早く、大阪に住む老父が心臓関係の発作を起こしたと妻より電話があった。
90近い年齢の父は2000年頃、心臓のバイパス手術を受けた。
その後、長き小康を得ていたが此度の発作である。
原因は処方されているニトログリセリン関連の薬を多めに誤飲したとのことであった。
原因が分かり、そしてそのことだけが発作の理由であり、今は家にて養生していると、父の近所に住む妹より連絡が私の携帯に入った。
胸を撫で下ろしはしたが、いよいよ来る時が来ていると思った。
今後予断は許されない。これは肚を括らなければいけない。
母は痴呆も同然の身。
我が家にとっての有事に常に備えなければならない。
古くからの友人とたまに飲む機会は大事にしたいが、それ以外は勝手な言い草だが慎む。そう決めた。
実を言えば父に対しては確執がなきにしもあらずである。これが因でその血を分けた弟妹の仲もしっくり来なかった。
そうした愛想こもごもの思いが交差するが、やはり血脈がそれを凌駕する。
凡庸で浪花節的な「世にたった一人の親」という概念が、かく屁理屈めいたものを吹き飛ばす。
父のとりあえずの無事を告げた妹の声が父のそれに代わった。
「わしのことはええから、お母ちゃんがおまえの名前を繰り返して会いたがっている。会ってやってくれ」といった。
しわがれた声だった。
「火曜日にいくわ」とぶっきらぼうに応じた声が震えた。
鳥の声がした。一羽の燕が巣作りに懸命に行き交いしている。
60を前に初めて慟哭を知った。

大したもんだ、北朝鮮。日頃のあの国のどうしようもなさは少し脇に置いて。
アメリカにあそこまでよく盾突けるなあと感心する。
超大国アメリカが虎の子の空母船団を動員してまで本気になってかかっている。どこか小気味よい。
同時にアメリカにはとかく米つきバッタのようにへこへこせざるを得ないわが国が情けない。
アメリカが東シナ海から朝鮮海峡に向けて、前述の空母「カール・ビンソン」を差し向けていることが報じられ、頼もしいなあと思わざるしかない現実がなんとも悔しい。
昔、ハワイの真珠湾でアメリカの空母はともかく主力戦艦のほとんどを撃沈させた国と同じ国であることが信じられない。
戦後いいようにアメリカに転がされ、半植民地状態となり果てて今に至る。
沖縄で自国の女性が米兵に狼藉を働かれてもロクに文句ひとつ言えない。
腰を引かせながら「今後は気をつけてくださいね」ぐらいなことしか言えない。
戦争に負けるということはこういうことだ。
だから金正恩よ、やるなら勝てる喧嘩をやれと言いたい。それは無理だと自分が一番承知していることはわかるが。

_95279965_4abb443d-1c90-4f4f-97bb-4cb67b096494
              今、話題になっている写真。おんぶされるおっちゃんの表情にどことなく恐怖から来る引きつりが。


ポール・マッカートニーまた来たんかいな。もうええやん。
これじゃ完全にかつてのポール・モーリアかベンチャーズ状態。行けば必ず大入りなので出稼ぎみたいにやってくる。
ビートルズといえば音楽というジャンルを超えた20世紀カルチャーの象徴、レジェンドみたいなものなのに、かつてリーダーであった人物にこう再々来られてはだんだんその偉大さや値打ちも色あせてくる。
ニュースで見たけど東京ドームでのコンサート、最初の第一声はいつもながらのたどたどしい日本語で「コンバンハ、トウキョウドーム。コンカイモ、ニホンゴガンバリマス。オス(押忍)!」ってやっている。
その声は完全にお爺ちゃんの声であり、そんな声でお愛想ふりまく姿は痛いの一言に尽きる。なにが「オス!」だ。
やめろやもう。「レジェンド」、「象徴」が情けない真似すんなって。
コンサートでプレイする楽曲もビートルズ時代かウィングスの頃のものが中心。
舟木一夫が「高校三年生」、にしきのあきらが「空に太陽がある限り」をコンサートで必ず唄うようなものだ。
京セラドームでポールのコンサートがあって、たとえばお金あげるから、チケットやるから観に行きましょうと誘われても行かない。
ポール・マッカートニーをこよなくリスペクトしているから、としか答えようがない。

img_0_m

今日(正確には昨日)は仕事休みで、ブログの下書きとか雑文をダイソーの2冊100円の大学ノートに書き連ねていた。バックに安物のCDデッキでチューリップ流しながら。
ちょっと開けた窓から入ってきたぬるい風が、ファンタグレープの泡をブチブチといたぶりやがる。
チューリップはじつはB面とかアルバム収録曲に案外いい曲が多い。
そのなかでも「なくした言葉」は大好きだ。
なんとなくビートルズの「ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア」に似ているなあって我見か、



豚肉の生姜焼を最初に考えた人は偉い。
この料理、トンカツと同じく日本オリジナルなのだろうか、それとも豚肉を使ったたいていの料理がそうであるように出自をたどれば中国に行き当たるものだろうか。
豚バラ肉の脂身のビロビロの部分から垂れ落ちる生姜味まじりの肉汁を白い飯めがけて落としながら、やおらパクつく瞬間のときめき感といったらない。
醤油と生姜で味付けされ、それを熱気でほだした豚肉の脂身の香ばしき旨さが、口の中で飯に混ざり込んでいく課程はまさに至高のひとときで、よくぞこんな料理を思いついてくれたものだと思わず右手に箸、左手に飯茶碗を持ったまま天を仰ぎ嘆息することしばし。
だったら最初から豚肉を飯の上に乗せて、いわば丼状態で食べたらさそや美味しいと思いきや、存外それほどではないからこれまた不思議である。
付け合わせの野菜はキャベツの千切り、これに限る。
そこがトンカツにも似ておもしろい、というより豚肉の相棒はキャベツもしくは白菜が一番であると再認識させられる。
豚角煮には大根だろうが!、酢豚におけるピーマンや玉ねぎの立場は?等々声がかかりそうだが、それはこの記事の都合上あえて無視する。
image

と、タイトルそのまんまである。では教えてやろう。
私が広告代理店に勤めていた頃にお取引頂いていた中小企業の社長さんたちの芳名を、実名登録が原則であるSNSで検索してもほとんど出てこない。
皆さん、私か私よりやや下の世代の人で「パソコンやネットが不得手だから」という言い訳は許されない、というより使えて当たり前の世代であるから、当然SNSとは何たるかをご存知であるはず。
しかるに登録すらしていない方がほとんどである。
理由は歴然としている。へんな言い方だがリアルで「リア充」だからである。
充実しすぎてリアルの人間を相手にして忙しくて、どこの馬の骨だかわからない「ネットのお友だち」とやらと繋がって遊んでいる暇なんかないのである。
ネットでことさらに「あ~忙しあ~忙し」と大昔の吉本新喜劇の谷しげるみたいなことを自分で言わなくたって、ただでさえ忙しいのである。むしろ「ふぁ~~~暇で暇でしゃ~~ない」と一度でいいからのんびり言ってみたい人たちなのだ。
社長さんたち、独立不羈と努力の人ばかりで、今の会社は自分が起業した人が7割、親譲りだが自分の代で大きくしたとまわりが認める人3割か。
誰しも若い頃から相当意識と志が高かった人たちであり、またそうでないと会社経営などやれないのだが、自分は「意識が高い」とは意識すらしなかったはずである。
だから「俺は意識が高いぜ。見てくれみんな」とSNSでアピールするという発想など起こりようがない。
そんなくだらないことにまわす時間があれば、ある社長は薄膜フィルムを計測するのにもっと高精細化を目指すことに費やし、別の社長はトランザクション処理の高速化プログラムを何回も書き直していたり、こちらの社長は金属加工において微妙で芸術的とさえ言える曲げの角度にこだわっている。
かといってこれらの作業工程のあれこれをネットにいちいち上げて「やっとうまいことやれました。これから自分へのご褒美に気に入りのお店でディナーしてきます」と、店に行きゃ行ったで料理の写真をうpして悦ぶような真似は逆立ちしてもやらない。
「おやりになったら如何ですか」と訊いたところで「なんでそんなことやらなあかんの。なんかメリットあるの。作業工程を見せる?そんなもんお得意さんに直接見せるもんでしょ。素人に見せてどないしますのん。褒美に料理?あほかいな。仕事してそのたんびに自分に褒美なんかやってたら、金がなんぼあっても足りますかいな」と至極当然な答えが返って来るだけだ。
真に意識が高い人とは、自分が目指していることや、大人として当然のことをさらっとして黙ってやってのけ、それをいちいち口に出さなくとも、まわりが勝手に認めて評価してくれる人たちのことである。
世に言う「意識高い系」とバカにされている人はこの逆で、非力でバカである自分(悲しいかな、そのことに気づいていない)を人気ラーメン屋ではないがマシマシにしてSNSを中心としてネット上で盛りたがる。
異業種交流会などでたまたまサプライズで現れた今をときめく企業(特にIT系)の社長の横にささっと近寄りぱぱっと自撮りして、その画像を載せてさもこの社長とは旧知の仲のように演出する。
夢語りはいいが「フェラーリに乗るのが夢」と臆面もなく語れる、稚気というよりたんに精神年齢が低いだけなのだが、勝手にやっとれ馬鹿かと哄(わら)いたくなるやつ。
何を夢見て頑張ろうがそりゃ本人の勝手だけど、即物的俗物的であんまり意識が高い夢とは思えんぞ。
「そういうやつのSNSの友だちをたぐっていけば類は類を呼ぶとはよく言ったもので、友だちもおんなじようなやつばっかりや」」と娘に言って講義はお開き。

↑このページのトップヘ