ビートルズってそんなにすごいバンドだったのかなあ

最近、デアゴスティーニからビートルズのアルバムを1枚ずつ、それもアナログ盤で創刊号は約2000円、以降は3000円で随月リリースしていくわけだが、狙いは今再び再燃しているアナログレコードブームに乗っかってのことであるのはミエミエで、さてその音源となるとどの音源を使っているのかが問題である。
そんなマニアックなことは措いて発売ラインナップは「アビーロード」がつかみ、いわゆるキャッチで次は「SGTペパーズ」、第3弾は「ラバーソウル」。
まあ妥当な危なげないチョイスでとりあえずはそれ相応の売上が期待できると思う。
それにしても私をロックの世界に誘ってくれた、かのバンドの過剰評価が過ぎやしないかと恩知らずを承知で思う。
リアルなビートルズ世代の人よりすこしだけ「遅れてきた青年」だった私ではあるが、そしてビートルズのおかげで他の特にブリティッシュの方のロックを聴きまくった、いわゆるロック耳年増になったわけだけど、ストーンズ、ピンクフロイドやパープル、フー、ジミヘン、バッジー、クリーム、クリムゾン、ツェッペリンetc…枚挙にいとまないが、ことロックでくくればビートルズってはたしてロックなのかと疑問符をつけてきたのである。
今回の記事ではとりあえず「ロックとは最初から終わりまで諸楽器の音が緻密でどの楽器もプレイも完成された技巧を聴かせるやかましい(笑)音楽である」と仮に定義すればちょっとそれは、つまりビートルズこそロックのすべての創始的な存在であると言われたら、おいちょっと待てと言いたくもなる。
ビートルズ真理教みたいなファンはハードロックもヘビメタもパンクも、はたまたサンプリング打ち込みもすべてビーが最初にやってのけたのだと言う。
そうかなあ?(笑)たまたまそうなっただけで後づけのこじつけくさい。
ほら、今の日本のロックアーティストが例えば矢沢とか桑田とか「やっぱビー、FAB4にインスパアされた」てなことを言うけどほんとかいな。
例えばハードロックかつヘビメタの創始だとよく評価されるこれ、

どこが”ハードロック”なん?ヘビメタなん?
同時期に日本のジャックスという伝説的バンドがこういうのをリリースしていたこれ。

ハナからビートルズはチャラけたロックライクなものとして拒否しているかのようのな、当時としては日本初であり発のハードロックだ。
諸楽器(笑)全部ビートルズより巧い。はっきり言って。
ちなみに私はビートルズの楽曲すべて好きである。しかしあまりに神格化されるのは如何なものかと思う。よってこんなヒネクレた記事を酔いにまかせて書いたのである。
目覚ましはiPodに入れてある「Here Comes The Sun」、もちろんオリジナルである。
ポールはなぜかジョージのオリジナルの楽曲に素晴らしいベーステクを披露する。特に曲の中盤からはリンゴがのドラムとデュエットしているかのようだ。

イヤなら辞めろ。

一昨日と昨日は先月のちょうど同じ日に早朝出勤深夜退勤の、日当的にはおいしいが些かハードなシフトの「憂き目」に遭った。
よりによって久しぶりに蒸し暑さがぶり返した中での勤務。堪えた。今日は夜勤も休みで、さっきやっと離床したのだが全身の倦怠感は否めぬ。
日頃の運動不足のツケがまわっている。
肉体労働ではないが、神経を使う分しんどいものはしんどい。肉体の疲労感は精神的疲労を余計に助長するから、やはり常日頃の健康維持は大切だ。体力や健康管理もたとえ少ない給金といえど仕事のひとつであるから。
その一環としての禁煙取り組みも今のところ順調。9月に入ってから1本も喫っておらず。
しかし、依存しがちなものを一つ減らすと他の依存的なもの、私の場合は酒だが、に対する欲望が増えるからやっかいだ。
なんでこんなシフトになったのか、先月と同じ同僚オヤジが休みやがったからである。
65歳にもなってこのオヤジ、休むのはいいがどこか無責任なところがあって、「いつまでに復帰出来そうです。今日はかくかくしかじかな状態で云々」と連絡して来ればいいのにナシの礫。
会社側がいちいち連絡してやらねばなにも言ってこない、連絡すれば「さあ、どうだかわかりません」と他人事のようないい加減な返事をよこすらしい。
よってシフト編成がうまく組めず、結果何人もの人間が振り回される。
人間年とれば身体のあちこちにガタが来るのはわかるが、前述の如く自分の健康管理も仕事のうちと考える私はそれが腹立たしい。
金をもらっている以上プロであるのだから、痛風や糖尿といったジジイにありがちな持病持ちならその症状が出ないように努力すればいいものを、食べたいから食べるという自堕落な性格からブクブク肥えやがっていっかな治そうという気がないようだ。
正社員であろうと契約社員であろうとアルバイトであろうと休む権利はある。それは認める。
しかしちゃんとケジメをつけろ、いい年こきやがって、あんた一人が休んでいるおかげで他人が休む権利を奪っている。
このバカオヤジのおかげで、ある人なんか本来休める日にずっと出てこなければならず、その分日銭が稼げるからいいじゃないか、という問題でもなかろう。
やる気がなければさっさと辞めてしまえ。こんな奴に働かれる方が傍迷惑だ。人手不足につけこんでの横着かましならなおさら許せない。
「辞めさせたらよろしいねん。あんなええかげんなおっさん」と私は本社の現場人事担当編成者に言うのだが「いや、そういうわけにはいかないんですわ。今はほら、募集かけても人は来ないからね」とボヤく。
「おっさんが出勤しても中津川さん、キツいこと言わないでね。お願いですから」と手を合わせる。
雇う側の事情もわからなくもないので、なんともまあ忸怩たる思いでいるのだ。 と同時に俺が社長なら絶対にブラック経営者になっとるわとも思わなくもない。

お水の人との恋愛

誰かが忘れたのであろう、帰宅途次のJR電車内の座席に雑誌のようなものが置かれていた。book
「なんやろな」と手にしてページをめくっていたら、キャバクラ女子、ホスト男子のいわば求人雑誌のようであった。
全頁アート紙使用のフルカラーにしてフリーペーパーである。紙代印刷代だけでも相当金がかかっているのがわかる。
眺めていてこれがなかなかおもしろい。キャバ嬢ホストとともに時間給はどのお店も最低4000円。「俺もホストに一丁応募したろかい」と興味津々にページをめくっていく。
ikemen「中津川秀明」なんぞそのままホストの源氏名に転用できそうだ。お客さんに「ヒデアキ」とか「ヒデ」なんて恋人気分で下の名前で呼ばれて店外で花咲く恋の展開に妄想も募る。
ペーパーは募集面だけでなく、おもに大阪ミナミの人気キャバ嬢ホストの面々が紹介されている。
女子はやはりきれいなおねいちゃんばかり、ホストはいかにも今様のイケメン、スレンディ、なによりも若い子ばかりが居並ぶ。host-horz
「わははは。わしには無理やな。イケメンだけやがな共通項は」と「俺」が「わし」に変わって、わしは思わず苦笑する。
ましてやホストの世界、チャラチャラと見えてあれでなかなかの体育会体質社会と仄聞する。
上が白を黒といえば白と言え、上下のけじめのキツさは体育会を超えてヤクザ並みの厳しさ。私が一番苦手とするタテノリ社会の典型たるものである。
彼ら彼女らが行きつけのミナミの食事処飲み処がクーポン券付きで紹介されている頁もある。
その頁も含め、なぜか飲食店関係は焼肉店の広告が目立つ。
おねいちゃんもおにいちゃんもあの商売、肉体労働に近いものがあるしな、やはり店がはねたらスタミナ付けておかんとな、そういえばホストたち営業反省MTGも兼ねて焼肉屋に集まっているのをテレビの斯界のドキュメンタリー番組で視たことあるなあと思い出す。
ミナミ同様、キャバクラやホストクラブ密集地である梅田の堂山町や太融寺界隈で、なんで今頃から焼肉屋開いてるんやとニュージャパンのサウナ泊まり明けで会社へ行きしな、怪訝ながら目撃したこともあったし。
私自身、ホストクラブはもちろんのことキャバクラなどついぞ行ったことがない。オッサン相手の普通のクラブ(平坦に発音しない方のクラブ)は接待がてら会社の金で何度か行ったことがあるけど。
さすがに遠い若い頃、性欲盛んというより頭の中はそればかり考えていた時分には、性欲処理専門の各種フーゾクにはお世話になったこともあったが、根本的に黄白と交換の閨事のなんともいえない味気なさ、事後のけして安くはない黄白をたった一度か二度の解消で失ったことへの虚しさに嫌気が差し、25才を越えたあたりからそっち方面へ足を向けたことは一度もない。
近年、何度かキャバクラへ誘われたこともあったが、接客のプロ中プロである彼女らの仕事ぶりに興味関心はないでもないものの、どうもあのキャバ嬢特有のアトモスフィアというかアウラというのかが苦手で、安くはない酒を飲み、キャバ嬢の機嫌しだいでは客のこちらが彼女の気褄を取らされる事態もありかねないのは物心ともに無駄過ぎて、と手と首を横にひらひら振って断っているうちに誰も誘わなくなったことは重畳の至り。
しかし、男にしろ女にしろそれらキャバクラやホストクラブにのめり込み、多額の金を使い場合によっては公金に手を付けてまで入れあげる気持ちはわからなくもない。
たとえ敵は商売でやっているとはいえ、金さえ払えば一夜殿様かお姫様気分に浸れるわけである。
昼間は異性に鼻もひっかけられないブオトコやシコメの寂寞感寂寥感を癒してくれるどころか、しばしモテ男モテ女の夢を見させてくれるのである。
それだけでいい、そこを割り切ってお金で買っているというのなら、むしろ普通の恋愛ごとにありそうな後腐れもなく、時間と金が尽きればハイそれまでよとさっぱりしていて気も楽である。
もっともそういった疑似恋愛だけでなかなか済まないところが世の常ではあるが。
男女とも若い頃仕事や勉強一筋で来て、性格生真面目(裏返せば小心者)な人がひとたびこの疑似恋愛の陥穽に陥るとこわい。中年になって初めて異性から異性として、とりあえず表面上はまともに取り扱ってくれた喜びは蟻地獄と表裏一体である。
だから、若いうちに多少のやんちゃと夜遊びはしておいた方がいい。水商売の異性に惚れたはったも経験しておくに越したことはない。かくいう私にもスナックのチーママに入れあげた黒歴史がある。あの時は高い授業料を払ったものだ。
若いうちのバカは「若気の至り、俺たちにも覚えがある」とわりと好意的に見てもらえるが、中高年の、それも海千山千のお水の方々への熱愛などみっともない以前に大バカ者と嗤われるしかない。

本好きの季節到来。

6月以来ではないか、朝からまとまった雨が降り続け、夕方にようやく収まったというのは。
今年最初の本格的な秋雨だ。これから一雨ごとに木々の葉の色を変えていく。
雨の音を聞きながら本を読むひとときは何事にも代え難い。
一週間前に図書館で借りてきた「筑摩現代文学大系第92巻/野坂昭如・五木寛之・井上ひさし集」を読む。image
いずれの作家も作品も早い頃では高校時代に読み、20歳になるまでに読んだ作品ばかりだ。
まずは五木の「さらばモスクワ愚連隊」と「蒼ざめた馬を見よ」を読み終えた。
懐かしい。高校2年の頃だったと記憶しているが、この人が訳した「カモメのジョナサン」が大ベストセラーとなり、自身の大河小説「青春の門」のヒットと併せ、作家のオトコマエさもあいまって一大五木寛之ブームを巻き起こしていた。
彼のエッセイ集「風に吹かれて」は、ブンガク的に背伸びしたがり盛りのガキどものちょっとしたバイブルみたいなものになり、新潮文庫で出ていたそれをカバーもかけずに裸のまま丸めて持ち歩くのがお洒落とされていた。
私はその頃から性根腐りのヒネクレ者で、何が五木やねん、よし俺は森進一やとばかりに「おふくろさん」のシングルレコードをジャケットが見えるように持ち歩き、「お・ふ・く・ろさんよ~お・ふ・く・ろさんよ~♪空を見上げりゃ空になるぅぅぅ~~♪」と森進一の顔真似をしながら教室内や廊下をふらふらと歌い歩いていたというのは嘘である。
何が五木やねん、まで戻す。野坂昭如で張り合っていた。角川文庫で出ていた「ゲリラの群れ」や「騒動師たち」を皮切りに、大阪の得体のしれないオッサンどもが徒党を組んで暴れたおす姿を、あの独特の五七五調を崩し気味にした戯作調饒舌文体といわれる異色の文体で書き綴ったものを好んで読んでいた。
図書館で借りた本にはその流れを組む「エロ事師たち」「とむらい師たち」が収録されている。その時分に既読だが、43年ぶりの再会の楽しみは後にとっておく。
五木の「さらばモスクワ愚連隊」「蒼ざめた馬を見よ」であるが、あの頃読んでいてかっこいいなあと思った文章がすっかり色あせてしまっている。はっきりいうと古色蒼然ですらある。
この作家が村上春樹登場と入れ替わるかのように小説の世界から遠ざかり「人生かくあるべきか」的自己啓発本ばかり書いている理由がなんとなくわかったような気がする。
村上のような今も読むに耐えるPOPでかつ深い文章の書き手が現れたら勝負にならないと思ったのだろうか。
2作とも内容的にみてもなんだか薄いなあという印象しか得なかった。
どちらもソ連という図体だけはアメリカ並みの大国なのに、共産主義国の常である表現の自由が厳しく制限されていた窮屈極まりない国が存在していた時こそ、その作品世界も重く深く受け止められたかもしれないが、作品のモチーフを支えている重要なファクターが今や消え失せてしまっているのだからどうしようもない。
ぶっちゃけた話、五木にもう少し筆力があれば確固たる古典の地位を獲得し、今も版を重ねているのかもしれないが、彼の小説作品はほとんど絶版状態である。映画にもドラマになりもしてあれだけ人口に膾炙した「青春の門」(たしか20巻くらいあったと思う)も古本屋で見かけるしかないのだ。
五木寛之の文句ばかり書いているが、読後の感想がこういう惨憺たるものしか私の非才な頭が受けつけなかったのだから仕方がない。
とあれ野坂の上記2作品を読み、井上ひさしの「手鎖心中」へと読み進めよう。井上の当該作での若旦那と幇間のやりとりは落語そのままで笑わせてもらった記憶がある。
ま、しかし10代に読んだ時と60の今読むと五木の例を挙げるまでもなく、それはずいぶんと違ったものになることは必定だと覚悟しているが。

一日寝てばかり。

朝から今ひとつはっきりしない天気、湿度やや高く蒸し暑さを感じた一日であった。
禁煙6日目もノンスモーキンで過ごした。ニコレットは1個の消費で済んだ。
今度こそなんとかイケそうだが、目覚めと何時間かおきに現れる喫煙願望がある限り、ゆめゆめご油断遊ばされるな殿、である。
今日も休みで、大阪へ父母を訪ねなくととも済み、という言い方は親不孝もいいところなんだが、あの介護施設の現状というのか現場を見るのが厭で厭でたまらない。
認知のレベルは我が母は軽い方でなんとか見舞えるのだが、他の認知症ドストライクにいる老人を見ると、人間の尊厳とはなんぞやとつい考えこんでいる。
よだれと排泄物を垂らし、糞まみれとなり、しかしそういう自分を意識できず、訳のわからぬことをブツブツ言っていたかと思うと、いきなり奇声を発する、暴れまわって介護職員の手を煩わせ、その手首に噛み付いたのはいいが、歯が全部抜けているものだから、ふがふがふがと締りなく、まるでマンガやんけと失笑をこらえた次に情けなくなり果てに無性に腹が立ってくる。
こんな姿をさらしてまで生きたいのか。生かしたいのか。なにが生命(いのち)の尊さやねん、あほらし。こんな恥さらしな状態なら死んでいる方がましではないか。
朝昼兼用の食事の後、急に睡気を催してきた。そのまま夕方まで寝たようだ。厳しすぎた夏の疲れが相当溜まっているのだろう。一日無駄にしたようであるが、眠れる時には眠っておくに越したことはない。
あくび一発の後伸びをして起きたら、風呂が沸いていて食卓には義兄の店から回ってきた鮪のぶつ切りに湯豆腐の小鍋。窓の外は茜空。幸せなんぞはこの程度が一番よろしい。
yusora

私にとって醜態さらしは自殺ものである。

快晴の朝。やや湿気感ずる。午後は雨との予報あり。
禁煙5日目。目覚めの一服への希求まだやまぬ。失敗したとはいえ電子タバコをくわえ、深呼吸のつもりで大きく5回吸い込み、ニコレットを噛みだす。これでなんとか喫煙欲をグイと抑え込むようにしてやりすごす。
1個のニコレットをいつも1時間30分は噛み続ける。昨日あたりからニコチンの厭ったらしい苦さだけが後味となって累積し、軽い吐き気を催すようになってきた。こうなればしめたものである。
脳がニコチンは気にくわない奴だと拒絶しはじめているのである。あともう少しだ。
禁煙は5日目が一番苦しいと、禁煙成功者は口を揃える。かつての私も成功者であったでこのことは体感的に経験している。
今日と明日は連休である。今週は妹が父母の機嫌伺いである。しかし先々週のように彼女に急用の事態出来ということもありえる。
まずはスタンバイといったところ。以前のように休みだからと日の明るいうちから酒を呑むことは慎んでいる。
いつなんどき何があるかわからないから。
スワ有事か一大事かとばかりにおっとり刀で駆けつけた時、酒臭い息を発散させている惣領を見て身内はどう思うであろうか。
「昼日中から酒くろてなにをやっとるのや」と妹などはもろに口にし、義弟はさすがに口に出さずとも(これでも義理がつきながら一応兄なんや。情けない)と侮蔑の念を深奥に秘め、向後は彼にずっと軽蔑されるだけであろう。
我が嫁や娘も肩身狭く思い、嫁の頭に(明日、区役所行って離婚届の用紙もろてこ)という考えが浮かんでこないとも限らない。
娘なんぞは(あんたなんか父親でもなんでもない、ただの小汚い酔いたんぼのジジイや。私を娘なんぞと思わんでくれ。昼間酔うた勢いで、私が家におらんと思て私とおかんのショーツをかわりばんこに頭にかぶり自撮りしやがって。知らんとでも思てたんか)と唇を噛みしめるかもしれない。
そんな醜態はさらしたくない。私はこう見えてもいつもスタイリッシュで見栄はりでクールなイメージをふりまいているつもりなのだ。
そうすることが私にとっての男の美学なのだ。
常にかっこよく清く正しく美しく、女であれば宝塚歌劇のフィナーレで大階段をさっそうと下りてくるトップスターの心意気を常に持ち続けたいのだ。
image顔とスタイル、音楽的才能や全身から漂うオーラはさすがに少しだけ向こうに負けていることを認めるにやぶさかでない今日この頃ではあるが、神戸の福山雅治、あるいはいにしえのシド・バレットはたまたロバート・デ・ニーロだと自他ともに認めている私にとって醜態さらしは自殺したいほどの恥辱である。

(文中、ショーツかぶり、はもちろんフィクションである。他は事実)

電子タバコは失敗だった…

早朝は肌寒いくらい。どんよりした曇り空のスタートだったが、昼過ぎに一旦晴れたかと思うと、空気に湿り気が混じりだし、薄暮には再び曇りとなった。
imageアマゾンより昨日発注した電子タバコ到着。
さっそく喫って、いやこの場合吸ってみる。はなから分かっていたことだが、要は湯気を吸い込んでいるようなものだ。
なまじタバコの形状をしたものから吸い込むという所作の分があるだけに、本物のタバコへの渇求が増しかねない。
これは失敗だった。700円足らずの勉強代で済んだのはもっけの幸い。
今日で禁煙4日。なんとか続いている。禁煙と減酒は60代ファーストステージの最大目標である。ヘビースモークと大酒喰らいは必ず身を滅ぼす。物心ともに大いなる破壊をもたらす。
「出来れば10年前に戻ってやり直したいというおまえ。未来から戻って来なよ。今やり直しておくんだよ。10年後悔悟とともに振り返らずに済むように」
2ちゃんで以前見かけた無名の人の書き込みである。原典みたいなものがあってそこから引っ張ってきたかどうか定かではない。
しかしまあいいことを言うじゃないのと感心したものだ。
あの悪名高き巨大掲示板でレスされたものだけに、よけいにその前向き感が目立った。
2ちゃんねるもたまには覗いてみるもんだ。

電子タバコ発注して内親王婚約寿ぎて。

さわやかな好天が続く。しかし昼過ぎからやや湿気を帯びた空気が淀んできた。明日の午後は雨との予報。
禁煙3日目。今日もなんとか喫わずに一日を終えそうだ。
ニコレットを買いトライしては挫折のくりかえしを1年ぐらい続けている。
今回は目先を変えて、ニコレットがあと14個しか残っていない心もとなさもあり、トップランドという会社が発売している「トゥモロー」なる電子煙草をアマゾンでポチした。
500円ギフト券を使い、配送料込み730円ほど。3級品煙草約2箱分の値段である。明日着予定。image
タイコスやブルームテックなど1万前後もするその手の製品で、それでも禁煙失敗だったとなれば目もあてられない。
出勤前、テレビを点けたらU局以外はどの地上波チャンネルも内親王婚約内定記者会見の模様ばかり。
先帝陛下御崩御の時もそうだったが、こうも金太郎飴みたいな番組編成をやっていると、あの当時よりもずっと多チャンネル多メディアの時代、テレビ地上波チャンネルは完全にそっぽを向かれる。
それはともかくとして、内親王眞子様は比べるのもおこがましく畏れ多いが我が娘と同い年。
内親王ご幼少の砌の映像を愚娘の幼き頃のそれと重ね合わせ、ある種感慨めいたものを抱く。
秋篠宮殿下の御胸中、いかな殿上人とはいえ、そこは世間一般の父親の如く些かのお寂しいものがあると拝察する。
とあれ末永くお幸せにとお祈り申し上げる。
ところで皇室御一家は吉野家の牛丼や王将の餃子なんかをお召し上がりになるのだろうかと、大内山関連のニュースが流れるたび、いつもそんな下世話でくだらないことを考える。
まさかお忍びでお召し上がりになられるのだろうか。変装やサングラスで容姿をカモフラージュして、うつむき加減に吉野家にお入りになり「牛丼特盛、ツユダクで」とか御注文遊ばされるのだろうか。
「餃子2人前とチャーハンな、餃子焼けてからビール、うーん、そうやな生中の方持ってきてな」と御注文された後、東スポあたりを開いて、きょう日の下々は何をしとるのであろうぞと目をお通しになるのだろうか。んなわけないやろ。
こんなことを、出勤前の私一人だけの早い夕食時に視ているテレビに一人でブツクサとツッこんで一人でボケいたわけです。

そのへんの車窓から〜JR須磨・舞子間。

今朝スマホで撮影したもの。
朝の光に海がほどよくきらめき、雲の群れも初秋にふさわしいやわらかさで漂っていて、電車から見ていて(写していて)なんとも気持ちのいい風景だった。

苦いはうまい!

ようやく朝夕めっきり、という言い回しが似合う頃合いになった。
昼間の日差しは夏の最後の抵抗か、往生際悪くカンカン照りつけているが、風の冷たさが日差しのきつさを霧散させてくれる。
昨日一日、そして今朝と典型的な秋の空の碧さが広がり、綿菓子の外縁部をちぎって投げたかのような雲が点在している。IMG_20170831_173233
これは以外に早く本格的な秋がやってきそうだ。私の見立てでは早くとも9月半ばとにらんでいたのだが。いずれにしても酷暑がもはや過去のものになったのは嬉しいことだ。
こういう季節の変わり目には好んでスーパーやデパートの食品売場をウオッチングする。
秋刀魚が出だした。松茸も中国産のこぶりなものが並びはじめた。栗や柿はさすがにまだか。こういったものを見てまわるだけでも楽しい。
秋刀魚はここ数年中国や台湾の漁船団の乱獲によって品薄、今年も高騰でのスタート、1尾がまだ500円近くする。
今秋はとくに秋刀魚の好漁場である北海道東部沖に、北朝鮮がミサイルを打ち込んできたこともあって高値止まりのまま推移しそうである。
もっともいくら高いといっても、出回れば上は300円下は200円ぐらいに落ちつく。安いものだ。あらためて自然の恵みに感謝する。
秋刀魚とて様々な料理が考案されて、それ用のためか最初から筒切りにした状態でトレーに乗せて売られているものもある。
あれはいただけない。やはり秋刀魚は尾頭付きで銘刀のような長い一閃の銀光を放ちながら、生鮮売場の一角でずらっと並べられているのが壮観でよろしい。
秋刀魚に凝った調理は不要。塩パッパッ振ってそのまま焼いて、焼き網から脂をポタポタ落としてそのたびにモワモワと煙が火山の噴煙の如く舞い上がりというのがいいのだが、集合住宅では無理な話でガスレンジのちんまりした魚焼きのオーブンで焼くしかないのだが、それでも充分に旬の魚の脂の旨味が楽しめる。
新物は腸も新鮮で腸の肝(変な言い方だが)である苦味も安心して味わえる。あの苦みは栄螺つぼ焼きの砂袋の苦みに匹敵するほどの美味である。
どちらの苦みも嫌って、腸なり砂袋を捨ててしまう人がいるのだが、好みそれぞれとはいえちょっと理解できないものがある。
栄螺の方は夏の盛りの昼間の浜辺で、焼かれて香ばしくなった醤油が垂れてくる砂袋をつまんで顔の上方から一気に口に持って行き、パクっとくわえて袋を破る際の抵抗を歯に感じながら咀嚼を開始、動物でいうところの贓物部分の粘りつくような柔らかさの食感を楽しむ暇もなく苦みが口腔内を覆いつくした瞬間、よーく冷えたビールをぐびっと飲る。ビールと貝の苦み渾然となした時の快感といったら、あなたそりゃあたしなんざ死んでもいいくらいでございます。これを家の中でやるとそこまで思えないはのが不思議。
秋刀魚はとくに腸の部分に関しては家の中がいい。酒はビールより熱燗。腸だけを身から分離させて、すだち(秋刀魚のコロンにこれ以外の柑橘類はありえない)を軽く絞って汁を垂らし、まさに綿に似た感触を舌の味蕾の上に広げ、やや舌を回し気味にして口の中全体に行き渡らせる。ほどよく苦みが回った頃合いを見て、やや熱めに燗した酒(こういう場合はへんに高価な純米大吟醸酒よりも安めの吟醸酒か純米酒の方が旨いような気がする)を腸の苦みと酒をしみじみ語り合わせるつもりで少しずつ舐めるようにちびりちびりと呑む。
その時、集く虫たちの声が聞こえ、三日月が群雲の中に煌として光るのが見えたら思わず口走る。「父ちゃん母ちゃん、日本人に産んでくれてありがとう」と。
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