先日、大阪の実家に父、介護施設に入居している母の機嫌伺いに行った際、生野区の方に足を伸ばした。
大阪市生野区小路東、古くは腹見町と呼ばれた地で私は生を享け数年間育った。
父の昔話を聞いているうちに自分のいわば揺籃の地を訪れてみたくなったのである。
父はかの地で吹けば飛ぶような自動車整備工場を立ち上げ、母はそれを手伝い、夫婦付随で町工場を営みながら私に餌を運んでくれていたのだ。
小路東から同区中川周辺に父のお得意先の多くが住んでいた。
差別的に使っていないことを断って書くが、生野区といえば全国屈指の在日コリアの街としても有名であり、鶴橋や猪飼野といったコリアタウンはここにある。
父の営業エリアには、とうぜん「チョーセン部落」と当時の周囲の日本人から蔑まれていた一角があった。
父は幼い私を時々そこへ同行させてくれ、父が商談と世間話で長引く間、私はそこで得意先の家の子と遊んでいるうちに、数名の子らと友だちとなり、それぞれの家にも招かれ「クルマ屋のボン」として、遊び友だちの親に歓待された。
キムチやチヂミとのファーストコンタクトもそうした友だちの家でのことだった。
友だちのお母ちゃんとお婆ちゃんが話す時は当然朝鮮語であり、それも大きな声でやりあうから、こう書くと失礼だが、その頃は子供のことであるから面白がって聞いていた。
50年以上前の部落は劣悪な環境で、どの家々もトタンの張りの掘っ建小屋同然。
強い風が吹いたら軒並み菱餅状態になりそうな状態であった。
集落の横に地面と吃水面がほぼ同じ高さのドブ川が、悪臭汚臭を放ちながら青大将のようにのたくっている。
流れはほとんどなく淀みに近い、覆いのない暗渠めいた水路には生活の澱と滓のありとあらゆるものが浮沈していた。犬猫のむくろの腐れ身から骨が見えていることもある。
日本の社会の汚いものと矛盾のすべてを一身に引き受けている、いや押しつけられているかのような川であった。
そんな街景は今はさすがに見られない。雑居ビルや小規模なマンションが区画整備された街路に沿うて高低雑然と並んでいる。
しかしそういった家並みの間の路地を通り抜けると、バラックではないが茅屋の家も何軒か身を寄せ合ってありその合間を、大通りからの路地よりいっそう細い路地がうねっている。
人間の潜在の記憶というものはたいしたもので、路地のちょっとした曲がり具合から、はるか昔の風景を再現できてしまうのである。
上述した部落の在りし日の姿の細部まで蘇り、粗末な家屋の前に干されていた洗濯物の白さを思いだし、その時吹いていた風の匂いが鼻腔の奥でつむじ風となる。
こういうものは思い出そうと意識的になればなかなか思い出せない。
たとえば昔通った店を探す。それが都会の繁華な場所であればあるほど街の変遷も激しいから、なかなか見つからない。
しかし必ずといっていいほど、ランドマークといえば大げさだが、記憶を取り出すピックのような変哲もない、昔流行った言葉でいうなら「トマソン的物件」みたいなものでもいい、そんなものがひとつでもあったら「ああ、あれあれ。あれまだあったのか」とたちまちのうちにそれをきっかけにもつれた記憶の糸がほぐれて、あの頃の街の光景をセーターのように編み上げていく。
父も母も余命はわずか。今のうちにその記憶を出来るだけ引き出して、私なりのセーターを文章として編み上げ、親たちが生きてきた証というものに着せてやりたい。
それも彼らにとって終生不肖の息子であった私のせめてもの拙いが孝行だと思いたい。

都議選の結果は大方の予想通りだが、自民があそこまで惨敗するとは実に喜ばしいことである。
選挙前日の秋葉原、安倍首相の応援演説へ浴びせられた怒号の野次「安倍辞めろ」の5文字が全てを物語っている。
同じ場所で5年前歓呼によって迎えられた男は此度も同じ礼遇を期待していたに違いない。それが、である。
図らずも私は1989年12月21日のルーマニアの首都の光景を思い出した。
ブカレストの王宮広場の群衆。ルーマニア共産党本部庁舎のバルコニーに立った独裁者ニコラエ・チャウシェスク大統領。
自分を称賛させる集会で演説を始めたとたん起きた爆発事件。
それに勇気づけられたように長年の圧政に耐えかねた民衆たちの怨嗟に満ちた反逆の野次と怒号の砲火。
こんなことはありえないと言いたげにたじろぐ独裁者とその夫人。そして取り巻き。 
この後事態は急速に進み、大統領夫妻は反政府軍によって逮捕監禁され、あっというの間の裁判の結果銃殺される。
安倍晋三もおそらく同じ心境であったに違いない。「こんなはずではなかった。拍手の嵐がボクちゃんを包んでくるはずなのにぃ」と。
それがいらつきを呼び、自分をやじる人たちを「こんな人」呼ばわりをした。関西弁でいえば「それは言うたらあかんやろ」なことを口走った。

「銃殺」を比喩的に使えば、安倍晋三は今回の都議選の結果をもって潔く銃殺されるべきである。
自民党の最高責任者として選挙の敗北の責任云々よりも国民に対する犯罪に近い政策をごり押ししてきた点で。
この無能かつ希代の暴虐宰相はその夫人も含めパフォーマンスやスタンドプレーに長けても、この国の富裕層にいい思いをさせただけで、それ以外に見事なまでになんの業績も残せなかった。
ルーマニアの独裁者もその夫人も至近距離から撃ち殺されて、驕り高ぶった者の哀れな果ての屍体が全世界にさらけ出されたという屈辱を後世にまで見られてしまう結果となった。
安倍晋三夫妻もこの扱いにふさわしい。
それにしてもマスメディア、特に週刊誌はよく頑張った。新潮砲も文春砲も国政選挙と同じウエイトがあるといわれる都議選直前に轟き渡った。
悪質な選挙妨害だという声もあるが、メディアは時の政権の足を引っ張ることにその意義がある。広報係にはけっしてなってはいけない。
われわれ国民もそうで国家のやることに万事逆らう視座を維持しておかないといいようにカモられるだけ。
「国全体がひとつにまとまって」。ぞっとする。いい意味でも悪い意味でも私はごめんこうむる。

珍しく、家の近所の純喫茶店に入った。そこは60年ほどやっている店らしい。
今、喫茶店でコーヒー1杯は500円である。それもブレンドのやつ。
500円払うのだから、少なくともファーストフードや外資系や日本系のチェーン店でいるようにガサつきたくないので、岩波文庫版の萩原朔太郎「猫町」を取り出して、紫煙くゆらせながらページをめくっていた。
その方が格好がつく、こんな古ぼけた店と岩波文庫のカバーを外した昔ながらの赤茶の本はよく似合うからと思う、ミーハー極まりない理由からだけのことだが、本というもの読む場所によってカッコつけで終わらなくなるようだ。
西日が強く入る店で、本のページと日照の角度が時の流れに比例していくのがよかった。
煙草吸う、コーヒーすする、大詩人の遺した行間に夕暮れの色が差し込んでくる。
店はBGMなどいっさい流さない。
3本めの煙草に火を点けて、本を閉じ、漫然と窓の外を眺める。
人と車が行き交い、変哲のない営みがそこにあり、ぼんやりの度合いが進むと読んでいた本の効果もあって、いろいろな場所へ空想の中に旅できる。
4本目の煙草にさしかかる。客は私以外誰もいないようだ。
私だけの夕日を静けさが侵食していくと思われるほど静かだ。
時の流れの差配する帝王になれた気分。
時の流れが私の中のへんてこな空想を時制を変えてしまうにまかせて広げていく。しかしその限界を知る…
どこにいても結局、人は時間に対して王にはなれなくスレーブのままでいるしかないのかもしれない。
そんな時なすすべもなく、ただ夕暮れの街、それも自宅近所の、を行き交う人をぼんやりと見守ることしか為す術がないのだ。


たとえばこんな画像が載せられていた。
何もない雪原のはるか向こうに川が見えている。冬の鈍色の雲が何重もの緞帳のように垂れ、空はそこから始まっている。
寒々とした光景に、自分の内心に今なお残る葛藤めいたものを投影しながらも、それをきちんと認めてなんとか暖かく向き合いたいという撮り手の意志が、ふわりとしたセーターに姿を変えて知らない間にこちらの肩にかかっていそうな写真。
カラー写真でありながら暗色だけしか存在しない無機質な世界を広げさせながらも、しかし見ているうちに優しさと癒しにも似たものに満たされた微風が、画像からささやかな竜巻と変わって立ち上る。
そんな画像を載せて それに添える内省的な文章が、どこか含羞(はにか)んでいるのが微笑ましく、自分の日々の生を丹念に丁寧に縫い上げているのが伝わり、私にはおよそ真似ができないことを、私よりはるかに年少でありながら教えてくれているようで、この人のブログの更新を楽しみにしている。
静かに時を刻んでいた彼の暮らしに、どうやら華やぎのさざ波が立った模様である。佳きこと幸多かれと心よりエールを送りたい。
華やぎの波は彼の撮る写真にゆっくりと暖色を与え、それはパステルカラーのような輪郭へと変わり、春霞が刷毛となり花畑を淡く掃いている光景が、新たな方向への彼の旅立ちを象徴するものとしてこれから展開されていくのだろう。
いつか彼が写した日だまりの中の珈琲茶碗が、可視できないプリズムの静謐な乱舞と無邪気に戯れている。

人気歌舞伎役者の妻が足かけ3年にわたる乳がんとの闘いの末逝った。34歳の若さ。物心がつき始めた子を二人遺しての死は無念余りあるだろう。
以前から何かとネット上で話題になっていたこの人のブログを昨日初めて見た。
簡潔な、そしてとにかく努めて明るく明るく自分の日常を語る文章であるから、その精神力の勁さに圧倒された。
末期がん特有の症状である激痛に苛まれる中でも、なんとか自分に誠実に向き合っていたのだ。
不撓不屈という言葉はこの人のためにあるようなものだ。
事態この期に及んで、まだこの人とその夫を叩いている人たちをネットのあちらこちらで散見する。
死神というのは皮肉な奴で憑くべき者には憑かず、憑かなくていい人に憑いてしまう。
だからこそ死神と忌み嫌われるのだが。
相変わらずの、人様の死と哀しみでこの際思いきり飯米代を稼がんかなのマスコミの卑しさが目立ちすぎた。
哀惜の人にハイエナやハゲタカのように群がる。
権力者には腰が引けて、どころかへらへら尻尾を振って剝こうとしない怯懦と卑劣な牙を容赦なく向けている。
職業に貴賎はある。いわゆる芸能ジャーナリストである。
有名人のプライバシーを知りたい、あの俳優がどれだけ悲嘆にくれているか、「冥福を祈ります」とかなんとかいくら言い繕っても、所詮「他人の不幸は蜜の味」的な覗き見趣味だけがその根底に横たわる愚かなる大衆の欲望に応えることが仕事であり、崇高な義務であるかのように振る舞う下賤極まりない輩。
しかし人のことは言えない。私だって人の不幸をこうしてブログの記事のネタにしているのだから。
何か書くネタはないかと思ったら、ああこれがあったと。
あまりにも動機が不純すぎて自分で自分を「フン、どの口が記事冒頭の7行を言わせたのかい」と嗤っているのだが。
所詮他人事だから書けるのだ。他人の苦痛はいくらでも耐えられる。なぜならある程度想像できても実感がないから。遠い関係ほど想像>実感の>が広がる。
それゆえ、いけしゃあしゃあと身内でも友人でも知人でもない人の「ご冥福をお祈り」なんて出来ない。
私はそこまで厚顔に出来ていないことが小さな矜持でもある。

SNSの「友人」が少ないせいか、タイムラインに流れてくる画像はどうしても同じようなものになってくる。
私以外は猫好きな人ばかりなので、それぞれの愛猫の写真が流れてくる。
猫という動物、見ている段にはどの猫も可愛いものだが、私のような無精星という星から横着という衣をまとってやって来たような人間にとって、あの猫特有の気ままさにはついていけないものがあるので、見ているだけでは飽きたらず、いざ猫を飼うとなればその決心だけで猫虐待の濫觴となろう。
いや猫のみならず、およそ地球上地球外問わず生きとし生けるもの、私なんぞに飼われた日には、はや暗剣殺に向かう運命を曳きあてたようなものだ。
人様の猫写真を眺むるか、街や公園を歩いたり寝そべったりしている猫を見れば気向き次第で写メを撮るくらいが、ちょうど猫にとっても私にとってもほどよい距離となる。
猫の写真がひとしきり続けば、あとは日々の食事の写真が多い。
これは猫画像よりも楽しめる。というのは今晩のおかずの写真が多いのだが、これを作っている人のあれこれを想像する。
菜の材料を刻む包丁の音が作る人の言葉や鼻歌となり、作る人のその日のご機嫌次第で、素材たちはまな板に引っかかりながら、あるいはするすると自分を切った包丁に素直に乗って鍋なりフライパンなりに落ちていく。
包丁でトントン、鼻歌ふんふんやっているうちに忘れていたはずの遠い昔の歌を思いだし、あの頃の自分がありありと浮かんできて、網膜に映像と浮かび上がり、ということもあり得るかもしれない。
料理というのはいろいろなプロセスを含んでいるが、プロの調理人ならいざしらず、毎日毎日の作業であり、食べる相手は勝手知ったる家族である。あるいは自分のためだけの個食である。
手を抜くところは手を抜いて能率最優先である。いきおい単純作業となるのだが、何もそれを責めているわけではない。
こう書けばフェミニストから叱られるかもしれないが、世界のどこでも「おうちごはん」を作る人のたいていは主婦であり女性である。
家庭内において、女性は男性と違って他にやることは山ほどある。いちいち炊事に時間をかけていられないのはわかるし、こんなめんどくさいことを毎日よくまあ出来るものだと尊敬する。
しかもその多忙という時の銃弾雨霰の中をかいくぐってそれなりに体裁を調えたものを食卓に並べていくのである。驚嘆に値する。
だから、流れてくる特に夕餉の食事の陣容のひとつひとつを入念に拝見する。
それぞれ、ほとんどネット上でしか見知り合いがないのに「あの人らしいな」という個性みたいなものが出ていて面白い。
他人のご家庭の夕めしなのに「味噌汁も少し濃いめに願えません?」「鳥の唐揚げいいですな、わたし的にはむね肉よりももも肉を使ってください」「ああ、サラダはいいけどトマトはいけない。ブロッコリーもやめて後生ですから~」「天ぷら!いいですねいいですね。ただしなす天とカボチャ天はのけといてください」「ビール下さいな」「ごはんお代わり」となんとかパソコンやスマホのディスプレイに向かって、ぶつくさ注文をつけているのである。
これだけでゆうに30分は楽しめる。いやしい。まことにいやしい。

昨日は友人たちと三宮にて飲む。
男のほうは神戸市内の美術館に足を運んだ帰りであり、展示されていた画家のファンだという女のほうと画家について話が盛り上がっている。
その方面にはとんと無知は私は聞き役に徹するしかない。
少し前の私なら、のけ者にされた、とヒガミ根性丸出しで、なにかと余計な茶々を入れ、なんとかその話柄をぶち壊しにかかったものだが、人間丸くなったものだ。
(ふーん、そんな画家がいるのか。しかしこいつらたいしたもんだ。よく知っているんやな)と感心しながら、黙って拝聴に預かっていた次第であったのだ。
彼と彼女の芸術談は、しかしいきなり「蒼井優が高層ビルの建築現場最上階の狭い足場で助けを求めていたら助けに行くかどうか」という話になって、いや俺は高所恐怖症だからいくら蒼井でも無理無理と男は手を振り、女のほうは、蒼井優が山田孝之なら助けに行く、と答え、じゃ飼っている猫ならどうか?となり、もちろん助けると。その流れであんたなら足場に誰がいたら助けに行く?と私に話が振られてきた。
その時の私は、酒場に置いてあるテレビが消音状態で、北朝鮮で拘束されたアメリカ人が解放され帰国したとたん死んだ、北朝鮮はアメリカ人に何をやったのだろうとか、とのニュースを報じており、それを見るとはなしに見ていて、今後米朝関係はますます悪化するやろなと案じていたところへ「足場に誰がいれば助けに行くか」ときたのである。
(またほんまにしょうむないことを。知らんがなそんなこと。こいつらときたら)と呆れながらも、さあわからんなあ、まあ俺は足場に誰がいても助けに行くどころか、そこからさっさと飛び降りて死んでまえと言う、と適当に答えを返す。
しばらくこの話題でああだこうだと、3人の年齢を足せば170歳をゆうに超えるおっさんとおばはんが喧々囂々と語り合っていたかと思うと、男が突然立ち上がり、このTシャツええやろ。ハシビロコやで、と言い始めた。
女は、いやほんまやハシビロコや、ええやんそれ、と男が誇らしげに見せている背中にプリントされた絵を褒めちぎる。
(ハシビロコと聞こえたが、おそらく女性であろうデザイナーかイラストレーターが描いたんかこれ)と私も見ていたのだが、二人の話を聞いていると、どうやら「ハシビロコウ」という名前の鳥がいるらしい。その鳥は獰猛でなんちゃらかんちゃらで、らしい。
鳥なんぞは鶏コケコッコーか雀チュンチュン、鳩ポッポー、燕スイスイ、後は鷲とかコンドルとかペンギンくらいしか思い浮かべない私はすんでのところで、ハシビロコって誰やねん?そんなイラストレーターがおるんかいな、と訊くところであった。まさに大恥をかくところであった。
この大恥はこれから先、ずっとこやつらの酒の肴となり語り続けられるだろう。そういう奴らなんやこいつらは、ンマにもう~。おまえらが足場から墜ちてまえっちゅうねん。200階くらいの高さから。
店を出て、お決まりのカラオケルーム繰り込み。ジャスト2時間の歌合戦。歌ののど前は男抜群に上手い、女そこそこ上手い、私話にならない、のいつものパターンである。
170歳トリオはその後プリクラに入る。撮れた結果を見てひとしきりはしゃぐ。
やっていることはJCかJK、被写体はJB(ジジイとババア)である。時間帯からしてCとかKのほうはさすがにいない、というよりたしか午後7時以降はお子たちは入店禁止だったか、この手の店は。
「おつかれさん」と3人それぞれの家路に足をふみだし、ここに今宵の酒宴お披楽喜と相成る。
家の最寄駅から降りた時、小雨がぱらつき始めた。夜半から大雨に注意という予報があっただけにこれはツイていたのだが、当然、西の上空にいつも光っている金星は見えない。
一昨年だか、ちょうど同じ場所で流星を見たことがあった。初めてのことだった。おおっ!と見据えた瞬間、鋭く煌いていた光の細長い尾があっという間に闇に吸い込まれていった。
誰と飲んで歌って騒いでも、終わればなんとも言えない一抹の寂寞感に包まれる。躁と静の落差の大きさはあの時見た流星に似ているものがある。
そういえばさっきのカラオケで谷村新司が唄われていたな。谷村の「Far Away」ではなかったが、一度見た流星のブレードのような光芒の軌跡を思い出すと気分はこの歌だ。
星が消えいった先はあまりにも遠すぎるが、あくまで私の視界から消えたのであって、遠く離れた別の場所で燦然と輝いているに違いない。


あと一ヶ月と数日で齢60となる。
と、アラビア数字で書けば59の次で61の前という数列の中の1数字であるが、六十歳と漢数字で書けばちょっと重いものを感じる。
還暦、という今時あまり意味のない言葉が変にのしかかってくる。
「(60年で再び生まれた年の干支に還るからいう)数え年61歳の称。華甲。本卦還。」(『広辞苑』)
2017年はなるほど酉年だ。そうかそうか俺は生まれてから今年で5回めの酉年を迎えているわけか、しかしだから何だと言うのだ。それがどうしたとも。
だいたい干支なんか年賀状の時にしか縁がないし関心もない。
しかし、「還暦だね」と言われるととたんに「ついに俺もジジイの仲間入りしたのか」と気分からしてめっきり老けてしまう。
本来はめでたいことらしいが、実感は禁忌に近いものがある。
「還暦」など顔をしかめて手を振って「やめてくれ」とあっちへやりたくなる。鬱陶しい。
だからといって、アンチエイジングとやらに取り組む気持ちは毛頭ない。トシになんか負けるかと無理して若々しくいたいその神経が理解できない。
「60歳!いやあお若く見えますね」なんて言われて喜んでいる奴ぁありゃアホだ。
「お若く見える」の褒め言葉の裏には「それだけあんたトシ食っていて」の反語毒が盛られていることに気づかないのか。高校生に「君、若く見えるね」って言わないだろうが。当たり前だ。実際に若いのだから。
どんなに若造りしたところで、本モノの若者に勝てるわけがないだろう。
渋谷やアメ村でたむろしている若者と同じようなファッションをして得意になっているジイさんバアさんに時々出くわすが、周りに「そんな格好はやめなよ」と止める人がいなかったのか。
止めるどころかむしろ残酷な人ばかりなんだろう。「おだてりゃすぐ図に乗ってあのジジイ、見てみな今日はあの格好だとよ。嗤うよな」と自分たちのお笑い種のピエロにして喜んでいるのだから。
年寄りは年寄りらしく、濃口醤油で煮しめてまた色あせさせたかのような風合いのよれよれの服とズボンかスカートを付けて、ゴムがゆるゆるになって3歩歩くとすぐにズルズル下がってくる毛玉だらけの靴下で包んだ足下でスーパーで売ってそうな790円くらいのサンダルをペタペタ鳴らして背中を丸めて、何も口に入れていないのに口をもぐもぐさせながら、「音が大きな屁ェほどこいたらケツの穴が痛いんじゃあ」とかなんとか訳のわからないことをブツブツ言ってその辺を歩いてりゃいいのだ。死臭が混じりだしている加齢臭にサロンパスの匂いが混じっているというなんとも名状しがたいかほりを周囲に発散させながら。
私はこんなジジイを目指しているのだ。こんなジジイに憧れているのだ。こんなジジイなら特別な努力もなしに今すぐにでもなれる自信があるのだ。
その兆しはすでに出ている。人様の顔を見るのつい眼鏡を鼻ごと下げて上目遣いにギロッと「なんじゃ?」という目つき、老人特有のあの視点の置き方をやってしまう癖がつきはじめた。
立つたび座るたびに「どっこらしょ」「よっこらしょ」と声を出さないと立ち居の所作の区切りがつかなくなったのはもうとっくの昔にクリアしている。
夜中の頻尿は去年あたりから。さすがに尿漏れはまだない。これが課題だ。まだまだ憧れのエリエール「アテント」が身につけられない。
髪の毛関係。白髪が増えだしたが、総白髪まではまだ遠い。ハゲ方面。悔しいことに毛が多すぎて散髪してもすぐに伸びてくる。ハゲ頭に恋しているのにフサフサの我が髪が恨めしい、と職場の62歳のハゲオヤジに言ったら、えらい怒りやがったし。髭方面も色も密度も濃い方ときている。
体格は最近体重が減ってきてだいぶスリムになっている。出張りに出張っていた腹が引っ込みはじめているし。どうせなるならハゲ、デブ、チビの喪男三冠に輝きたかったのだが、チビでもないしなあ。
いわゆるそのアッチ方面。これは若い頃にくらぶればずいぶん弱くなっているのはたしかだが、まだまだスケベ心旺盛。ごくまれに起床時にその、あれ、だな、元気な時がままある。男が完全に性欲を無くしたらもはや抜け殻。生き仏、いやミイラでんがなガハハハハハ。
などといろいろ考察するにジジイへの道はまだまだほど遠いのう。65歳になっても今とそれほど変わってなさそうな気がする。
総合的に判断して5年後の私はこんな感じだろうか。かなり当たっているように思う。
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うーん、私がこれまで書いてきた理想のジジイ像とえらい違うのだが、こればかりは仕方がない。不本意だがもってうまれたものは変えられないから諦めるしかない。

2017/06/18(土)
晴れだが蒸し暑い、と思ったら昼過ぎより曇りだす。
土日になると休日ダイヤ。朝夕の時間帯は1本逃すと次の電車まで10分近く待たされる。JRも神戸市営地下鉄も。
待つことが大嫌いな私はこれが非常に不満。何事も7分以上待たされるとイライラがすぐに高じてくる。
だから行列が出来る店とはいまだに無縁。いくら巷間話題の店とて足を向ける気にならん。例えばたかがラーメンでなにをあんなに並んでるんやアホちゃうかケッ!である。
だいたいやね~、たかが食い物で列をなすことほど卑しき振る舞いはないんですよ。だいたいやねえ~ラーメンでしょラーメン…え?おごるって。さっ並びましょ並びましょ。
ここ数年、JRは通勤通学路線において早朝深夜、昼間の閑散時間帯をどんどん間引いている。JR東やJR西は東京圏大阪圏の通勤通学路線がドル箱であり屋台骨でもある。
その大切な常連客をうっちゃっておいて、JR西は年に数回しか列車になんぞ乗らないリタイア世代、それもお金持ちのご隠居たちをヨイショするかのように、無駄に豪奢な「豪華クルーズトレイン『TWILIGHT EXPRESS 瑞風(みずかぜ)』」を今日のお昼発車させた。
1泊2日お1人様25万円~75万円の運賃である。
ずいぶん前から予約完売。世の中お金はあるところにある。持っている人はとことん持って、持たざる人はどこまでいってもずっと空っ穴。
ニッポンの格差社会を象徴しているような列車は、大阪駅から福知山線経由で城崎温泉へ。山陰本線を走り山口県下関へ向かうという旅程。沿線各地では列車に手を振り、停車駅では歓迎セレモニーが賑々しく催されたそうな。
平成版お大名行列狂騒曲ではある。沿線の地元の人らは手や旗を振り、乗客たちは万札やきらびやかな宝石を振り回す。ああ、あほらし。
この列車にかつての「夜汽車」が持ち合わせていたある種の詩情と叙情性などまるでなし。ただひたすら走行風が福沢諭吉をチラシ代わりにばらまいていく。

2017/06/17(金)
晴れ。昼間の暑さ。やはり今夏は熱夏だ。
午睡タイムに寝床に入ったが、あまり眠れなかった。室温が高かったせいかもしれない。朝食で腹が満ちすぎたかもしれない。
「共謀罪」いや「凶暴罪」というべきか、民進党の稚拙すぎる戦術が災いして良識の府であるはずの参院であっけなく採決されてしまった。
例えばたんなる駅の風景や鉄道車両の写真撮影であっても、駅員や乗務員が「テロの下調査かもしれない」と判断すれば鉄道警察官に通報、即逮捕とまでいかなくとも、恣意的に任意同行を求めいろいろと事情聴取することが出来る。
引っ張られた側は、この撮影はテロの下準備ではけっしてないことを自ら証明しなければならない。
「テロの事件性がある」ことの判断はあくまで捜査機関側だけに委ねられ、その判断の基となった事象事物を証拠だてる必要はないのだ。
そのあたりの法理論といったものを具体的に構築整備しないまま法案を通してしまった。
これで国民は国家の完全監視下に置かれたわけだ。
物言わば唇寒し。国民はますます萎縮し、不要な外出は控え、お上のご意向にとにかく逆らわないように逼塞して生きていかざるを得ない。
国民の側にも責任がある。今回の採決はあくまで法の手続きに則ったもので、野党がひとつ覚えのように叫んでいる「議会制民主主義の破壊」でもなんでもない。「中間報告」が問題視されているがあれもちゃんとプロセスをふまえている。
これからの世代をますます苦しめることとなった法案を廃案するには次回の選挙にこぞって、とにかく野党およびその議員ならどこでも誰でも(与党が数の力を恃んでごり押ししたようにこの際、質より量で)いいから票をやって与党を圧倒的多数で超える議席を与えるしかない。

2017/06/16(木)
これだけ晴天が続くと後のしっぺ返しが怖い。
昨夜の酒で二日酔い。それほど飲んだ記憶がないのだが。すっかり弱くなったものだ。老いというものに後ろから襟首を捕まえられた段階か。
午後の3時を過ぎても、頭の中に濃い霧がたちこめ重く沈積したままの状態。疲労が澱のように四肢の隅まで行き渡り、為すすべもない倦怠感の中、半分呆けたまま冷麦をすすって夕食となす。
テレビは女優野際陽子逝去を報じている。享年81。さすがに美人女優、もうそんな年だったのかと驚く。
彼女を初めて見たのはもう半世紀近く前のドラマ「キイハンター」である。アクションシーンで美脚が露わになった時、私は勃起というものを知ったのである。それまでに無意識的なそれがあったかも知れないが、無意識ゆえに忘れていた。
きれいなおねえさんを見たらおちんちんが大きくなるのだと意識した最初だった。
家族とこたつの中で観ていたのだが、ズボンの前がふくらんだままこたつから抜け出すのが恥ずかしく、しかし尿意はますます強くなり、尿意がゆえ勃起の状態はおさまらず、たまらずちょろりと漏らしたら、それは急速に萎えていった。
野際陽子は私にとって、私なりの「ヰタ・セクスアリス」に気づかせてくれた女優であったのだ。謹んで冥福を祈る。

2017/06/15(水)
またまた快晴。ちょっとおかしくはないか。いくらなんでも。
またーりと読書とネットサーフィンに終日明け暮れる。
漫画の手口を真似て民家に入り込み女子中学生によからぬ行為をした35歳のバカ男が埼玉の方で捕まった。
35にもなってなにをしておるのか。漫画の真似をしたとは。日本の大人の幼児化がいわれて久しいが、真似された漫画家の方も漫画家だ。
「わいせつ事犯があなたの漫画から手口を模倣したといっている。この手口は犯罪になる旨、作品のどこかに書いておいてくれ」という埼玉県警の申し入れ唯々諾々と従ったという。
君は今すぐ「表現者」という看板を下ろしなさいとこの漫画家に言いたい。
明らかに刑法の猥褻罪にあたる漫画を描いていたのならともかく手口を真似されただけである。
県警の申し入れは憲法が保障するところの「表現の自由」を大きく逸脱している。
なぜそれを県警の頭悪の警察官に指摘しなかったのだ。指摘して「あんたらにとやかく言われる筋合いはない。帰ってくれ」と言えばいいのだ。
この漫画家は自称に近い漫画家のようで、コミケで売った漫画が当該事件に絡んでいるらしい。
それでも漫画という表現を警察という土足に踏み込まれたことは間違いない。
こんな申し入れを一旦受け入れると警察はすぐにつけあがって、他の表現分野にもいらん茶々を入れかねない。
「共謀罪」の行く末次第では警察が秘密警察化しかねない時期だというのに。
それにこの一件を自分のブログやSNSで発信すれば、またとない売名のチャンスだったのに。
この漫画家が有名になりたければ手段を選んではいけない。利用出来るものはなんでも利用する。
あれだけ「原発反対」「原発反対」と叫んでデモで練り歩き、いざ反原発ムードの潮が引きだせば知らん顔して離れていった一部の無名の、いや失礼、知る人ぞ知る「アーチスト」や「クリエーター」たちを見習え(笑)。
どんな機会も見逃すべきでない。世の中にのしていこうとしたい表現者たるものは。

2017/06/14(火)
今日も快晴。風がさらりと美味い。梅雨の中休みにしては長い。このまま「梅雨?今年はもうなしよ」か。
それならそれでいいが米が不作になりそうだ。
これで冷夏ともなれば余計にそうなるだろうが、地球温暖化が定着してしまいまた今年も酷暑に違いないだろう。
今日と明日は休み。夕方まで家の中でまったりと過ごす。
夕方、垂水図書館に借りていた丸山健二「人生なんてくそくらえ」という過激なタイトルのわりには、大人など国家など権威など信じるな、といったことがアジ演説のように繰り返し書かれており、もうウンザリと返却した。
この作家は齢70以上なのだが、何か中学生が背伸びしているようで痛い。
権威を信じるな、と言いながら芥川賞作家という権威がこの作家に箔を付けているのはご愛敬か。
小説の方は、難解だが詩小説か散文詩のような精緻で美しい言葉を紡いだ文体であるから余計に違和感があり、読むのを途中でやめてしまった。

2017/06/13(月)
快晴で清々しい日が続く。夜になれば肌寒いが。
今秋、夜勤生活から解放されるかもしれない。
人が家路をたどり家族の団らんに憩いの時を過ごそうかという時間帯に仕事に向かい、逆に仕事に向かう人で混みあっている朝のラッシュの電車や駅を仕事あがりの疲れた体で、ため息混じりに見送ることの連続は、私にとっては限界に近くなってきている。見えない、あるいは気づかないところで心身に負担をかけているものだ。
馴れてしまったらなんとも思わない、というほど私は鈍感に出来てはいない。
人間は昼に行動し夜には眠るものだ。人間とて動物である。
夜行性動物を除いて基本的に夜明けに目覚め日の入りとともに眠りに入る、太古の類人猿や原人はそれに近かったはず。その習性は本能の中に細流ながら脈となっている。
夜中に働いている人がいるこそ、特にインフラ面や治安面で社会が正常に機能することは承知であるが。
とにかく私はもうご勘弁、放免してもらおう。

2017/06/12(月)
午前中曇、午後より晴れ。寒気団がシベリアから下りているらしく涼しい。
モデムが不調。コードをプラグから抜き電源を落としては入れてを数度繰り返すうちに復旧する。
室温が25℃を超えるととたんに冷却クーラーのファンがうるさくなりだす。
OSをLinuxに変更してネットに接続。さすがに軽いのでファン音やや軽減する。
WindowsはVistaだが、今もなおその前のXPのシェアがまだまだ高いという。
ネットセキュリティの知識が多少あればファイアウォールの設定もお仕着せではなく自力でやれるし、市販のバカ高くて重いアンチウィルスソフトなぞ入れなくてもAviraやAvastなど、フリーでOSのバージョンを問わず、バックグラウンドできびきび動くものがネットには山ほどもある。
インストールして使うには多少の英語読解力が必要だが、パソコンやネットに関する基本的な知識があれば何も英和辞典などを繰らなくてもわかるはず。
ファイアウォール設定とウィルスワクチンソフトの組み合わせの妙でXPやVistaでも充分使える。そのうえLinuxを入れておけば万全とまではいわない、かなり安心できるレベルだ。
以下は貧乏人の負け惜しみと笑わば笑え。
家電量販店あたりで、ハッピを着たショップの人が薦めるままに金にあかせて最新のマシンを買い、何も考えずにデフォのままの状態で使っている、ある意味お幸せな人よりも、一世代も二世代も古いマシンを四苦八苦しながらチューニングして使っている方が確実にパソコンやネットのスキルは上達する。
無知な客ほど、サポセンに頓珍漢な質問ならまだしも、「お客様は神様だ!」言わんばかりに、おマヌケ丸出しのクレームを居丈高に入れて、逆にスタッフに陰であざ笑われているものだ。これは何もパソコンに限ったことではないけれど。

2017/06/11(日)
朝はどんよりと曇り蒸し暑い。昼から晴れ間広がる。それにつれて湿度が下がったのか風さわやかに吹く。
藤井君という弱冠14歳のプロ棋士が連勝記録を伸ばしている。将棋は多少知っているので、彼の大胆不敵な戦法の素晴らしさがよくわかる。
特に一昨日の飛車を相手に与えて角道を生かし、一気に攻め込んでいったのは「あんな手があるのか!考えられんわ」と唸ってしまった。もっとも彼と対局した棋士すら解らなかったのだから当たり前だが。
年をとるごとに、既成の概念や経験知が新鮮で奇抜な発想をスポイルする。やり始める前にこんなことあり得ないと思い込んでしまったら何も出来ないよ、と中坊に教わったわけだ。
藤井君の活躍で、子供に将棋を習わせる親がえらく増えているという。
何かの分野で突出した活躍をする子供や若者が出現すると必ずこういう手合いが出てくる。
自分の子供の頭の出来ぐらい自分自身を顧みたらわかりそうなものなのに。まったくもって何をやいわんや。

2017/06/10(土)
晴れ。梅雨の谷間の晴天らしい。昨日に続いて日差しがきつい。
今年初頭から須磨海岸砂浜増設工事がなされていたのだが、電車の窓からいつ見ても広くなったとは思えない。
ただ須磨海水浴場は東西にやたら長く、JRから見えるのは最西端だけであるから、もしかしてスマスイの前の東エリアが変わっているのかもしれない。
完全に人工海浜となりはててしまったものを暑い最中わざわざ見に行く価値はない。
そういえばずいぶんと海水浴にはご無沙汰である。
自宅のすぐそこに須磨よりも水がきれいな「ダジュール舞子」という、笑わせてくれる名前の海水浴場があるのだが、子供が小さい頃に行ったきり。
以降、海水浴シーズンは散歩がてら、砂浜で寝ころんだり戯れている女の子の水着姿を拝みに行くくらいしかない。
須磨は家族連れが多いが、舞子は比較的若いカップルやグループがウエイトを占める。
時々、どう見てもその筋者あるいはそれに近いとしか思えない、いかにも金がかかってそうなヨットパーカーに身を包み、光り物を腕や胸に飾っているオッサンが複数の女の子をまわりに侍らせているのを見かけることがある。
どの子も美顔美ボデーでうらやましい限り。やっぱり男はなんちゅうても甲斐性やなあ、つまりは金や金。札束で頬を叩かれて怒る女なんていない。失礼なこと言わんといて。あかんあかんきれいごと言うな、金に対する執着の深さは女の方が男より上なんや、物欲旺盛やから、それが生きる源泉となって男より長生き出来るんや、女は貧乏ないい人よりも財布が福沢さんでパンパンに膨らんでるワルに惚れるもんやで。あんた女を絶対バカにしてるわと怒りたいとこやけど、カルピスが濃いの薄いので悔しがっているセコさをなんとかしてから甲斐性がどうの世の中ジェニやで~てなことをぬかしてんか。

2017/06/09(金)
晴れわたるが昼間の暑いこと。
駅の自動販売機で「カルピスウォーター」の500mlのペットボトルを買い、飲みながらなにげなく自販機の商品群を見やれば「濃いカルピス」というのがあるではないか。同じ500mlのペットで値段もいっしょの160円。
「こんなのが出てたんや。よく見ればよかった」と悔しさのあまりボトルを持つ手が震えた。
同じ値段なら、当然カルピスの原液含有量が多い「濃い」の方を選ぶべきだった。
「ちょっぴりの水で薄めたカルピス」と「カルピスの味がする水」ではえらい違う。むろん前者の方が得に決まっている。
大損をこいてしまった。なんたることだ! 自分としたことが。
憤怒、悄然、悔悟といった感情が入り交じり、ふらふらとベンチに座り込みうなだれて「チキショー!チキショー!」とように呪詛のようにつぶやきながら、太股を拳で叩き続けるのであった。
そして「自販機の商品は上下左右よく見てからコインを入れること」と、後半生を生き抜くための戒めのひとつにしっかりと加えたのである。

2017/06/08(木)
朝のうち雨残る。昼より晴れだしたが湿気含んで蒸し暑し。
午睡後、近くの銀行で所用を済ませて仕事に向かう。職場のテレビのニュースにて巨人の13点ビハインド負けで13連敗の無様さを見る。昨日の記録した球団史上最悪の連敗数を超えてしまった。
ミジメを絵に描いたようなボロ負けで自分も含め同僚全員喜色満面、全員万歳三唱をしそうな雰囲気である。
仕事でなければそこらへんで酒でも買ってどんちゃん騒ぎをやりかねない。巨人の不幸は日本人の9割の幸福でもある。これは鉄則だ。公式だ。セオリーだ。常識だ。
いつまで「球界の盟主」「常勝巨人」「栄光の巨人軍」という、ナベツネ以下読売関係者、徳光和夫という、汚らしいだけのワザとらしい涙顔を時々見せる爺アナウンサーのような巨人ファン以外はだ~れも思っていないことにこだわっているんだ?
こだわっているからこそ、この球団旧来の鼻持ちならない自称エリート主義感覚もあわさって「監督は巨人軍OBでなければならぬ」ことに拘泥し、およそ監督職に向かない高橋由伸に指揮を執らせたのがそもそもの間違いである。
巨人などはとっくの昔にセ・リーグのただの1球団にしか過ぎないのに。そのあたりの意識改革をやらないと「栄光の」どころかセ・リーグのお荷物球団に転落しかねない。

2017/06/07(水)
朝から雨。時折土砂降り。最近、休みの夜に飲む酒の量がめっぽう少なくなってきた。体の不調ではなく経年で自然に酒量も減ることから来ている。人間の体は上手く出来ているものだ。
「飲む、打つ、買う」は昔から男の上方でいう「さんだら煩悩」、東京なら「三道楽」である。ようは「酒、バクチ、女」、である。男が堕落していく三大要素である。
さいわい自分は「酒」だけ、いや「女」も少し、であった。バクチにのめり込むことはなかった。博才はまるでゼロ、およそギャンブルに昔も今も縁遠い。
酒は最初に書いたように体力が限界を決めてくれるが、ギャンブルはそうはいかない。金さえあればいくつになっても際限なくのめり込んでいける。金が続く限りはいいかもしれないが、なくなると地獄である。
パチンコ代欲しさに爺さんがコンビニ強盗を働く事件を散見するが、「あほなジジイやなあ」と冷ややかに笑っていられる。シンパシーなど感じない。
後ろに手が回ることまでしてやりたいもんかね。パチンコなんぞ。あんなものとっとと禁止してしまえ、あれこそ亡国のギャンブルである。主婦が買物のついでに寄れる博奕場がある国を恥とせよ。
昨日買った「さいごの色街飛田」読み続ける。飛田については大阪の生まれ育ちであるから、何度か行ったことがある。さすがに「料亭」を表向きとした廓には上がったことがないが。
ほんの半世紀前まで、女の人権、とくに花街(かがい)のそれはないに等しく、牛馬も同然の扱いを受けていた。苦界に身を投じる原因も貧困であった。花も恥じらう乙女たちが自分の陰部で故郷の家族10人を養わなければいけないという境遇は想像をはるかに超えている。
今の時代は格差社会というが、昔はもっとそれがひどく、そのことを思えばまだまし、というが家計を助けるために風俗で働き出す女の子が激増している実態がある。
安倍晋三が打ち出した「一億総活躍社会」とは、下卑た言い方だが、貧困層の子女は下半身も活躍させなさい、ということだろう。

2017/06/06(火)
晴れ。朝晩寒いほど。仕事休み。このブログの記事を書いてアップ。テーマは最近の右傾化について。
元々どちらかといえば右っかわに近い思想というにはオーバーだが、そんな立ち位置だったが、さすがに共謀罪法案には賛成しかねる。
あれはテロリスト制圧にかこつけた、お上にとってはまことに都合がいい監視社会、それも姑息にも国民相互に監視させる体制づくりを目指しているのが透けて見える。
国連や民主主義社会が成熟した欧米諸国から「おい、こんな法律作って大丈夫か」と、大きなお世話な干渉を受けるのは当たり前だ。
また、ここ数年の官民挙げての「ニッポン素晴らしやいい国よ」ムードの醸成に苛立ちも覚えていた。
そう再々やっきになって「ビューティフルだ、クールだ」のと、自国を自慢たらしく見せつけている姿勢は気恥ずかしい。奥ゆかしさが日本人の身上でもあることを忘れたのか。
午睡の後、いい天気なので垂水まで海岸沿いをぶらぶら歩く。
古本屋チェーンの「本の森」で、新本に近い状態の新潮文庫版、井上理津子の「さいごの色街飛田」が216円で売られていたので買う。
垂水駅前の広場の木陰で缶チューハイを飲みながら読みだす。緑陰で爽風に吹かれての読書は気分がいい。
しかし、飲んでいるうちに煙草が吸いたくなってきた。吸う。吸いたくなったら吸う。それでいいのだ。

2017/06/05(月)
晴れ。昨日より、先日三度目の正直とばかりにAmazonでプチして買ったニコレット24個パックのうちの2個でなんとか喫煙欲を抑えこむ。
ふと思った。
「煙草を止める!」と決意するより、「煙草はいつでも吸える」とユルく考えること。
「止める」となまじ決めてかかるから、つい1本と手にした時に「やっぱり俺はあかんなあ」と挫折感を味わうのだ。
さすれば最初から「いつでも吸える」と思っておけば、つい1本が「ほら、いつでも吸えるんや。俺はフリーダムなんや」と開放感にひたれて、吸う煙草も美味い。
どうせ金出して買ったものを吸うのだ。おいしく味わないと損だ。
とかなんとかごまかしていたら、1本も吸わずに済んだ。それはそれで喜んでいたらいい。それだけのことだ。

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