日本民族の御先祖様に感謝。

昨日終日降った雨上がりの朝である。まだ外は暗い。
ここのところ単独夜勤が続いている。
きつかった先月の変則シフトご苦労様という慰労の意味で「粋な計らい」的なゆるいシフトにしてくれているのか。まさか。仕事に甘ったれた考えは禁物である。
甘い考えといえば民進党の前原代表は見事に女狐小池にしてやられた。
小池新党の勢いに便乗して、かつての政権第一党を壊しても小池に尻尾を振った結果があのザマである。
枝野から「約束通り腹切らんかい」と迫られても弁解の余地はない。その枝野は枝野であらたに「立憲民主党」なる新党を結成した。
あいも変わらず国民置いてぼりの議員先生方の椅子取り遊びに呆れてしまう。
夜勤は夜勤だったが相勤者あり。テレビでオリコン関連の歌番組がやっていて、半世紀前からのあの歌この歌流行歌が当時の画像もまじえ紹介される。相勤者とともに盛り上がる。
人間齢50を超えれば雑談の話柄に「(こんなこと)あったあった」と「(あんな人)いたいた」ネタが多くなってくる。
それにプラス、あまり誉められたことではないが、そこにいない人の悪口や噂話と。
昨夜とて「今日は日共オヤジがいなくてよかったな」「そうそう、あれがいるとうるさいんやわ。なにせ、歌謡曲やロックは大資本の商業主義が生み出した退廃的な音楽でほんまの大衆音楽ではない、なんて未だにそんなこと信じているのやから」「昔の歌声喫茶で歌われていた労働歌やロシア民謡こそ大衆に生きる活力を与えるもんや、とかなんとか」「あははは。シーラカンスかいな。博物館行きの考え方やなあ」とこれはこれで陰湿に(笑)盛り上がったものである。
まあこれだけは言える。日本人が偉かったのは歴史的にキリスト教と共産主義を全体的に忌避してきたということ。
どちらも唯我独尊の典型で権化みたいな宗教であり思想であるからして、和を以て尊しと為す民族性にアレルギー反応を起こさしめて本能的に怪しげなものと見破り、生き残るためには拒絶した方が得だと判断したのだと思うが。
遙か昔のご先祖様たちのこの判断が、世界には珍しく自国内で同国民同士が長年にわたって相身互いに憎悪しあい殺しあうという悲惨な事態を免れてきた国として生き残ってこれた。
これからもキリスト教信者と共産主義者たちは社会の極少数派として世間の片隅で自分たちの世界の中で自己満足的に完結するしかない状況に永遠にいることだろう。
そういう国なんである日本という国は。それでいいのだ。おでかけですかレレレのレ〜。天才バカボンでおなじみのレレレおじさんの声優が亡くなったと早朝のニュースが報じている。

文化の破壊者としての「受動喫煙」

朝から雨が。この雨の後ぐっと気温が下がり、11月並みの寒さになるという。
気がつけば禁煙して一昨日で一ヶ月を過ぎていたのである。
最近では禁煙しているということすら意識に上らなくなった。ごくまれに煙草が喫いたいと衝動が発作的にあるが十秒もしないうちに霧散する。
とはいっても喫煙欲はまだ残っているわけであるから、まだまだ油断できない。
煙草や喫煙者を嫌悪を超えて憎悪の感情でもって、親の仇のごとく見られるようにならないと真に禁煙したとはいえないだろうと言いたいが、それでは自分の嫌いなものは問答無用で世の中から排除すればいいというファシストの幼稚な論理となんら変わりはない。
だいたいがだ、受動喫煙の害など本当に存在するのか。平山雄という医者が厚生省(当時)の委託を受けて著した論文が1981年に発表されてから、受動喫煙なる言葉が一人歩きしている感がなきにしもあらずという指摘が結構ある。
当該論文自体に統計学的見地から見て誤謬があり、最初から「禁煙ありき」の前提にたつもので客観性に乏しいといった反論が数多く用意されている。
偉い学者先生に考えてもらわなくとも、私たちド素人の市井の者共レベルで「昔は男も女もスパス日常的にまるで水でも飲むかのように煙草を喫っており、誰もそれが害だとは認識もしなかった。だのにガンや循環器系の病気で死ぬ人は今よりも遙かに少なかった。煙草がそれらの病気に関係はまったくないとは言わないけれど、いわれるほどたいした影響など与えていないではないか」と普通に思ったりもする。
私が禁煙に踏み切ったのはただひとえに煙草代が惜しい、ただそれだけのことである。
受動喫煙がどうの周囲が迷惑だのなんので止めようというそんな殊勝かつしょうもない心がけなど少しもない。
JTから1年分の煙草をプレゼントします、なんていわれたら喜んで頂戴して美味しく一服の煙を楽しませてもらう。
冬の夜空の下、しょうことなしにベランダに出て寒さにうち震えて、煙草を喫うことを余儀なくされている、それすらも「ホタル族が喫う煙も害だ」とまったく根拠もなしに喚き散らしている、狂気と紙一重のヒステリックな連中の言いがかり攻撃にさらされているいたいけな喫煙者の存在を側聞するたびに他人事ながら憤りを感じる。
15世紀の大航海時代にラテンアメリカからもたらされた煙草はシガーやシガレットへ分化していき吸引道具の製造とあいまってひとつの文化を築きあげてきた。
文学や音楽、美術などの芸術作品を彩る小道具としても欠かせないアイテムであり、人間の精神文化にも大きく寄与してきた。
徹底した第三者的な目線で科学的にその害が証明されたならともかく、今のところ怪しげなカルトの教義のレベルでしかない「受動喫煙」とやらの4文字で、人類の偉大な文化遺産である「煙草」とその文化が世界的に抹殺されようとしている。まことに由々しきことではある。

君の誕生日

今日は古い友人の誕生日である。まずはおめっとうはん。
彼とはずいぶんと長いつきあいを頂いているが、その誕生日を知ったのはつい最近のことだ。
そりゃそうだろう。野郎同士で互いの誕生日を覚えて、毎年毎年「おめでと~」なんてメッセージを交わしあう気色の悪いことなんて普通はやらない。少なくともリアルでは絶対にやらない。
SNSで5年ほど前に「ふーん、10月いっぴなのか。えらいまたキリのええ日付やな」と知った次第である。
祝っているのかどうなのかわからんようなことを書いてしまった。
そのお詫びと言ってはなんだが、ここにボロちいギターがあるので、これをつま弾きながら心を込めて友人のために歌を唄う。
がほ、げほ、ごほごほ、まずは咳払い。
では、いざ、ギターをAmからジャカジャカかき鳴らしてと。
ジャカジャカジャカジャカジャカスカラッチャジャカスカン……
君の誕生日、あ、ホレ!
ふたり祝ったよ、あ、ヨイショ!
あれは過ぎた日の、あ~ソレソレ!
思い出のひとこま~~ときたもんだ、わははははは~
手拍子ごいしょに~ハイハイチャチャチャ!ハイハイチャチャチャ!
「やかましいねん!近所迷惑やろ!さっさと仕事にいかんか」
襖をがらっと開けて鬼婆吠えてぴしゃりと襖を閉めてまた開けて「ほれ、弁当や」と弁当包みを投げつけるように渡しやがったのである。
私の大好きな海苔弁当。弁当箱の底にご飯を敷き詰めて全体に醤油を塗る。
その上に鰹節をまんべんなく乗せて海苔で覆う。
image醤油をさっとかけまわしたその上にごま油で炒った玉子をこれまた隙間なくびっしりと敷く。
実に中学生の頃からこれが好きなのだ。
私でも食べたい時にいつでも作れるからだ。しかしこの手の弁当は出来立てはそれほど美味くない、というよりまずい。
製造後5時間ぐらいが一番おいしい。すっかり冷めているのになぜか安物の素材たちがほどよくいい味を出してくれている。
赤いウインナーなどこんな弁当のために生まれてきたようなものだ。
今日も相勤者なしの夜勤。お行儀悪だが弁当を食べながら、れいによって「霧越邸殺人事件」を読み続ける。
120頁に至るというのにまだ変事出来せず。この物語の書き手と設定されている作家志望の男がひそかに思いを寄せる劇団の女優になぜかここの邸の関係者は注視の視線を送ったり、また彼女の肖像画めいたものを飾っていたりする。
トレーナー姿で時折出没する謎の人物が出てきた。
耳をすませば虫すだく声がしきりに聴こえる。どっしりした本を読むふけるのにこれほどふさわしい秋の夜長もないだろう。

たそがれ時の月

昨日は実に5年ぶりに金曜が休みとなった。
シフトの都合でたまたまそうなったに過ぎないが、シフト勤務に無縁だったサラリーマン時代には当たり前の権利として、いやそう権利という熟語を出すほどの大仰な意識すらなく土日は休み、その前の金曜の夜は花の金曜日であることは、たとえ太陽が西から昇っても崩れないものだと思いこんでいた。
土日など関係なしのサービス業で働いている人の存在など頭になかったのである。金曜の夜
はそういう人たちがいるからこそ飲み食い歌いを享受できることにあまりにも無頓着だったのだ。
その無頓着のしっぺ返しを今喰らっている。嗤うしかないのだが。
とにかく久方ぶりの金曜の夜、いつになく気持ちも華やぎ、録り溜めしておいた映画などを観ながらちびちびちやっているうちに酒量のピッチがあがってしまい、そのツケは二日酔いとなって本日午後2時くらいまでまったく使い物にならない自分を寝床で持て余していた。
食欲ほとんどなく素うどんを1杯すすり夜勤に出る。
たそがれゆく空に月が浮かんでいた。月もこうして見ると蜻蛉のようでなんとも儚げでどこか間が抜けている。5日ほど前には三日月だったが今は半月と満月の間くらいか。10月5日か6日あたりが満月だろう。image
今夜は相勤者はなし。落ち着いて「霧越邸殺人事件」を読む。
わがままな女優、それに寄り添う彼氏の前で女優とテレビ関係者の密会をばらすお調子者の男優、邸の階段わきになぜか劇団のもう一人の女優にそっくりの絵が飾られている、なぜか電話を貸してくれない、つまりは外部と連絡されるのを嫌がる邸の執事。
話の道具立てが少しずつ調えられてくる。ここで物語の第一幕は下りる。
第二幕のタイトルは「"吹雪の山荘"」。本格推理小説好きにはたまらないシチュエーションが用意されているのかとそそられる。このケレン味たっぷりの演出がたまらない。

お気に入りのチャーシュー

昨夜は夜勤シフトオンリー。今朝に至る。
夜明けの空気の冷たいこと。5時半現在、日はまだ明けやらぬ。日の出日没もこれからどんどん冬シフトに変わっていく。
給料日直後とあって、昨夕カアチャンは家の近所の肉屋さん名物チャーシューを奮発してくれた。
imageそれでチャーシュー麺大盛り。チャーシューはバラ肉に限る。
ここのチャーシューはあの豚特有の臭さがまるでなく、豚の脂のジューシーと旨味だけを堪能させてくれる。女性の握り拳より一回り小さい塊で600円の値づけが納得できる。
「霧越邸殺人事件」74頁まで読む。(注意:内容に触れている)
邸の食堂にて熱いチャウダーやポトフを振る舞われる遭難者たち。テーブルに添えられた椅子の数に不信感を抱く劇団主宰者の槍中(これが探偵役と思しき)。
その後、サロンに移りそこに飾られてある陶器やガラス細工をめぐってのディレッタントなやりとり。
これまた本格推理小説にありがちなシーンで、退屈な描写が続く中に重大な手がかりと伏線が仕込まれているのだから、あだやおろそかに読み飛ばせない。
邸の住人たちが執事に続いて料理人、秘書役の各々女性が登場する。皆無表情で無愛想な態度で劇団員たち町医者に接する。
邸の主、そして殺人事件はまだ出てこない。
なにせ692頁の大作。そうトントンと筋を運ばせるわけにもいかない。
90年代は分厚い推理小説の全盛期だった。80年はじめに新本格の旗手として「占星術殺人事件」で島田荘司がデビューしてから陸続とその書き手たちが現れる。
この記事の綾辻行人をはじめ、歌野晶午、二階堂黎人、笠井潔といった錚々たる作家が世に出て新本格時代を絢爛に彩っていくとともに長編の頁数の肥大化もすすみ、90年代初めに衝撃的なデビューを果たした京極夏彦に至っては講談社ノベルズで出していた初期の長編群などどれもドカ弁の様相を呈していた。
なにせ「狂骨の夢」などは10センチ近くの厚さがあり、しかも段組は二段、よくもまあノベルズとはいえ持ち運びにやっかいな本を持ち歩いていたものだと今さらながらに感心しているのだ。

綾辻行人「霧越邸殺人事件」と20年余の再会。

一雨ごとに秋が深まる。ここひと月ほど仕事に振り回された感がある。季節のうつろいをじっくりと味わう余裕もなかった。
そんな時だからこそ、空き時間には、こう、なにか脳にどっしりと来そうな本をじっくりと読みたくなってくる。
分厚い本格推理小説なんかは格好だ、とまあ無理やり話をこじつけていくのである。
押し入れの中からたまたま取り出した綾辻行人「霧越邸殺人事件」再読をテーマにした記事を書きたいがために。kiri
新潮文庫版の同作、実に22年ぶりの再読である。文庫の奥付を見る。平成7年2月20日2刷となっている。
当時わりと綾辻行人ファンであった私は彼の文庫化作品(ほとんど講談社文庫だったが)はだいたい初版で買っていたものだが、なぜかこれは2刷目である。
なにゆえにと考えをめぐらせてみると、ああそうか大震災があってまもない頃だったんやと、本なんか読んでいるどころではなかったんやと思いがそこに至る。
記憶の取り戻しはそこで止まる。この文庫本を大阪あるいは神戸のどの書店で買ったのか思い出せない。おそらく大阪だったのだろう。神戸は壊滅状態だったからジュンク堂や駸々堂(その頃あった)で買えたはずがない、梅田の旭屋か紀伊国屋で贖ったものと思われる。
うまいぐあいに作品の中身もほとんど忘れてしまった。本格推理小説の冒頭のお約束である、事件の舞台となった豪邸の見取り図が添付、登場人物の紹介ページを見てもさっぱり思い出せない。
つまりはなんともまあお得な記憶力のなさで、初読とまったく同じなのだ。
(以下7行作品の中身に触れることを断っておく)
東京のアングラ劇団員8名が公演の打ち上げに信州まで旅行にやってきた。さて東京へ帰ろうとホテルの送迎バスが駅まで行く途中でエンスト、峠のようば場所から歩かざるをえなくなった。
信州の澄み切った晩秋の晴れ渡った空の下、劇団員は峠からハイキングのノリで下りていくのだが、一天にわかにかき曇り、突然の吹雪に遭遇、遭難死寸前に湖畔に立つ豪邸にたどり着き、そこには同じく雪から逃れてきた地元の初老の医者がいた、とまあここまで読んできたのだが、「故障した送迎バスの運転手の言葉にわずかに関西弁のニュアンスがある」とさりげなく記述された一行になぜかかすかに記憶の底の底にたまる淀みにいる夜光虫の如き妖しい燐光をみたのだ。
同じく綾辻に「殺人鬼」という大作があるが、これに「関西弁云々」が密着してしまうのである。まったく突拍子もない、素っ頓狂な飛躍もいいリンクなのだが、なぜそうなったのか自分でもわからない。しかしこれは自分にとって重要な情報である、と反故コピーの裏紙メモに走り書きしたのである。
本格推理小説の楽しみのひとつに、このメモを取りながらのページめくりというのがある。
本格マニアの中には1作1冊のノートを用意して臨むという豪の者というのか変態というのか、あんた暇なんかというのか、登場人物の行動タイムテーブルまで作成しなければ気が済まないというのがいるからすごい。
いろいろな考えがあるところだが、本格推理小説の醍醐味はトリックよりも伏線の張り方の巧さに思わず唸らされる瞬間にあるのではないかと思う。
クリスティの某作品だが、なんと1頁目に犯人を示唆している伏線が張ってあった。もう一度読み返したら、なるほどなあ、これはわからんかったなあ、参りましたと。
不世出のミステリーの女王の「ふふふ、だから最初に書いてあるじゃないの」の含み笑いが聴こえてきそうだった。
これから読み進めていく「霧越邸」、どうか最後まで犯人も伏線も思い出せませんように(笑)。

「もうひとりの俺」はいつまでたっても中坊なんや

ここ数日の変則シフトで生活のリズムが崩れ、どうにも疲れが溜まりがちである。
休みの日の間隔も不規則で予定が立てづらい。
こんな日々の見返りは月の給金にしてわずか1~2万の端金が増えるのみ。
この仕事のうま味は「待ちの仕事」の性格上、給金が発生する拘束時間内にアイドルタイムが結構あり、それを利用してこうしてブログ記事を書いたり、まだ捨て切れぬ夢の生地の仮縫いをしたり、本を読んで時間つぶしが出来たのだが、シフトの都合で時々別の部署に行かされることが多い今それもままならない。
相勤者とテレビを見ながら愚にもつかない床屋談義に興じることが多い。
同僚の中に日共シンパなオヤジがいて、これがまたテレビに向かって何かツッコミを入れないと損と思いこんでいるやっかいな男、少しは静かに見ればいいものを何かと茶々を入れたがる。
68歳という現場最高齢者でそれなりに顔を立ててやらないとすぐに拗ねる、どんな話柄でも自分が中心になって語り合わないと気がすまない、仕事の案件にかませておかないと俺をないがしろにしたと後がうるさく、とはいっても絡むだけ絡んで自分が美味しい思いが出来なければすぐに知らん顔しだすという、70近いジジイにありがちな厭な部分を集大成したようなオヤジである。
一昨日あたりからトランプと金正恩の口撃合戦がエスカレートしているが、それを視ながらこのオヤジはいみじくも言ったものだ。
「子供の口げんかやがな。もっと大人にならな。そうやろ」
と意見を求められた時、私ともう一人の54歳オヤジは「そ、そうですね~~」と嘲り笑いを噛み殺して同意したふりをしたものだ。
(大人にならなあかんのはあんたの方やんけ)
そうした日々の夜勤明けの今日は夜勤は休みだが、明日は早朝出勤。
昼前にまずはトンテキで一杯。トンテキ夕方まで寝るつもり。考えたら今日は土曜。
土曜に休むなど何年ぶりだろうか。家の近所にフォーク酒場めいた店があるが、そこをひやかそうか。
やめとこ。調子にのると深酒必至。とてもじゃないが出勤時間前に起きられやしない。
20代、梅田の某会社でアルバイトをしていた頃、酒の流れからバイト仲間を深夜だというのにタクシーで千里まで送り届け、送り駕篭は今度は梅田までの返し駕篭となり、朝までやっているお好み焼き屋で飲み、そのままなにもなかったかのように出勤、涼しい顔で仕事をこなしていた。
あの時、ビル街にたむろしているカラスどもがゴミ袋を漁っていた姿が今も目に灼きついている。
それを思い出すとふとあの頃の俺にふと戻りたくなる。あの頃なにも本当に怖くなかった。
そして60年も生きていてなにを得たというのかよくわからない。
仮に100歳まで生きて、「敬老の日」が来るとルーチンワークにように実施する行政やマスコミのどうでもいいようなインタヴューイがマイクを向けてきたら、「別に。なんにもないわ」と答えたい。
そんな態度が厨房とか中坊ぽいと言われてもいいよ。
でもな、いい大人が訳知り顔で分別顔していい人ぶりたがる。若者に嫌われたくない一心で理解示すフリする。
だからこの国はバカになったんよ、わはははは、ってだいぶ酔いが廻ってきた。


広島勝ちてカツ丼食って。

セ・リーグは広島が優勝。この日だけは完全に鯉のホームと化した甲子園での胴上げ、さほど腹立ちもせず。
関ヶ原の合戦でいえば虎も鯉も同じ西軍同士の誼みたいなものがある。
3位は東軍の雄、巨人に決まって欲しい。DeNAが相手では失礼を承知でいうが、わが阪神の相手としては役者不足。ヤクルト同様なじみもそんなにないしな。
中日は落合監督が引いてからまるで二流のチームになり、00年代のあの強かった頃の面影すらない。あの頃、中日さえいなければ阪神が何連覇出来ていたか。
興行的にも関西人は巨人が相手なら俄然盛り上がり甲子園球場の客の入りも違う。
今日はカアチャンがいないので、SNS仲間の真似ではないが、近くのスーパーの総菜コーナーでローストンカツ1枚と三つ葉、白ネギを買ってきて即席のカツ丼を作る。
行平鍋に創味の万能つゆを適宣希釈してだしを張り、そこにみりんと白だしを少々加え、切ったカツを放り込み、煮立つまでに溶いた卵と切ったネギをかけまわしてぐつぐつなりだしたら火を止めて、そのまんま丼めしの上にぶちまける。
そこへ三つ葉を乗せてカツ丼特盛完成。しかしなんだこの盛りつけは。盛りつけ以前の問題だ。image
まあええか。カツ丼なるものとにかく序盤から口をパワーショベルのようにして、鼻息荒くガツ食らっていくところにその醍醐味がある。
ガツガツやっているうちに気分も昂然となり、いわゆるトンカツハイの状態になる。
ただしこのトンカツハイトランスは丼の場合だけである。定食ではこうもテンションは上がらない。
よく刑事ドラマかなにかで刑事が取り調べ中の容疑者にそれまでの恫喝の大声を猫撫で声に変えて「やれやれ、おまえさんも頑固だなあ。だんまりもいいが腹が減ったろう。昨日からなにも食ってないんだろ。どうだ?カツ丼でも食うか」とのお約束のようなセリフがあるが、あれはおかしい。
完全黙秘を貫こうとしている容疑者の気分をたかめてどうすんの。
空腹感にさいなまれるうちに急に人情派刑事に変わった敵のやさしさにほだされ、ついほろっとなって「実は刑事さん、おっしゃるとおり…」となりかけていたところが、カツ丼を目の前に「ほら食え」とばかりに置かれ矢も盾もたまらず割り箸割るのももどかしくワシワシワシワシワシと食べ進めていくうちにトンカツハイの状態になり、おりゃ~なんでも来んかい、国家権力がなんぼのもんじゃい、わしは腐っても極道じゃい、絶対歌えへん(自白しない)ど!と完黙の決意も新たにされたら目もあてられない。
だからこういう場面では「腹減ったろう。おかゆでも食うか」かあるいは「そうめんでも食うか」でないといけないのだ。
腹ぺこで死にそうなところへ「おかゆ食うか」なんて言われてみろ。病み上がりでもない限り「ええ?おかゆて、そんな殺生な」とヘナヘナと戦意喪失も甚だしい。
「遠慮するな食え」と飢餓状態にある目の前で1束分のそうめんがガラス鉢の中でまるでやる気がなく漂っているのを見て「こんなちょびっとのそうめん、誰が遠慮するねんな」とため息をつき肩を落とさない方がおかしい。
なんてくだらないことばかり考えているから、カツ丼のお供には必須、これがないとカツ丼の魅力が半減もいいところである赤だしとまっ黄っ黄の沢庵2切れ添えを忘れてしまったではないか。
カツ丼がっつりの合間の赤だしズズっのひと啜り、沢庵ぽりぽりのひとかじりのひとときほど、中盤から終盤へのスパートを盛り上げてくれるものはない。まさに格好の箸休めである。

豊田真由子の地金がよくわかる。

台風は思ったよりも、こと近畿一円にとってはヘタレな台風でまずはよかった。
これでいっそう秋の深まりが早まる。「狂」の字が似合う酷暑にあえいでいたのがほんの一ヶ月前のことであるのが嘘みたいだ。
時折の強風が窓を叩く音を聞きながら、相勤者と現場事務所のテレビを見るとはなしに見ていた。
秘書に対する暴言暴行で、高学歴を誇るエリート育ちのお嬢様育ちという人種、その実下品で人格の欠片もない手合いが多いという事実を世間に再認識させた豊田真由子という女性国会議員が宮根誠司のインタビューに涙ながらに答えていた。
「なかなか自己肯定できない(性格なんです)」と目頭をハンカチで押さえながら訥々と殊勝気に語るわりには、謝罪会見と称しながら最初から終わりまで自己肯定と言い訳の連続だったが。
政治家と芸能人の流す涙は5割引でみておくのがちょうどいい。
広い意味では彼ら彼女らの仕事は詐欺師でもあるのだから。
こやつらに真の誠意など求めてもどだい無理である。嘘とだまくらかしが服を着て歩いているようなものだ。
人間、修羅の時ほど地金が出てくる。本当の人間性が表出してくる。
たとえ政治家秘書など政治家から見れば奴卑奴隷同然といえど、仮にも妻子がいる男子のプライドと体面を女の分際でズタボロにした一連の暴言暴行の中にのみ豊田真由子の実像が存在するのだ。
こんな性悪な性格など変えられる訳がないのに、な〜にが「変えるぞニッポン」だ。この記事を書くためにネットから下ろして初めてこのimageポスターを見た時、久しぶりに大笑いしたわ。
それゆえ反省の弁など上辺だけのことである。後半の宮根誠司ごとき低いレベルの人物の説教じみた問いかけにも、だからこそ大仰にも涙を流して神妙な面もちで聞いているフリが出来るのだ。
逆に言えば本当に反省していれば、むしろ宮根のお為ごかしのあまりにも安っぽい言葉の並べ立てに腹を立てなければいけない。
豊田真由子といった女性議員や政治家を見ていると「雌鳥歌えば国滅ぶ」との中国の古い言葉を思い出す。
女が政治に口を出せば必ず国は滅ぶ、という意味で、現代の基準からすれば「何をふざけたことを」と特にフェミりん君たちあたりから猛烈な反発を受けそうだが、なぜにこうした言葉が古代より中国に残り、その間日本にも伝わり、今に生きているのか考えてみるのも意義あることだ。
かのような俚諺の類は人間が長きにわたって蓄積した生活の知恵、生き方来し方の秘訣の表象でもある。反発するいや賛同するは別にして。
女が生意気にも男の前に出しゃばるものではない。ましてや天下国家を論ずるな。家事に専念して天下国家の戦士たる男を生活の雑事に煩わせるな。
男には女にはない沽券というものがある。それをないがしろにするな。
男の言うことにいちいち逆らうな。黙って聞いてろ馬鹿者め。いいかげん聞き分けのないことを言ってるとその糞生意気な頬げたを張り倒すぞ。
女は男のやや後ろで楚々として控えていてこそ、下品で無教養な毛唐の女どもならいざ知らず、こと大和撫子の美しさが際だつのである。
男に「おい!」と呼ばれたら「はい」と遠慮がちにそして些かの含羞をたたえて蚊の鳴くような声で返事してこそ日本の女性の気品と美が内面からあふれ出てくるのだ。
豊田真由子とうちの女どもにはまったくそれがない。腹が立って腹が立って、つい心にもない、不本意なる一文をものしてしまった。
普段の私は常にレディファーストに徹し、騎士道精神にあふれ、か弱き女性が危急の際には身命を賭して彼女の盾となりお守りする、心底女性を太陽の如く崇め、水たまりがあればその上に我が上着を敷きつめ、女性の御御足元が汚れないように努め、というジェントルマンなのである。
くれぐれも男尊女卑を絵に描いたような団塊世代以上のオヤジといっしょにしないでくれたまえ。

禁煙なんとか、禁酒まだ道遙か

9月1日以来昨日で16日間、煙草一本も喫わず。
「あ~たまらん喫いたいっ!」という発作は10日めあたりで消えて、「なんとなく喫いたいような」な気が1日何回か起こり、それもだんだんスパンが長くなり、しこうしてそれはつまり煙草を意識してしまうひとときが消えてきたことである。
禁煙ガムも電子タバコもつい持って出るのを忘れるぐらい。
ただ、最近は家呑みばかりだが、さすがにアルコールが入ると喫煙欲が昂進し、まさか酒肴ともにガムを噛むわけにいかず、電子タバコをぷかぷかやっている。
この電子タバコ、吸い込むとタバコの先が赤く点灯する。
つまりはタバコの火を模しているのだが「大人をバカにしとるのか」と苦笑もしたくなる仕掛けである。
これがやたら点滅しだしたら要充電通知であり、大事な機能であるのは承知だが、ほら昔、吹くとピューと音が鳴って蛇の舌のような紙紐が伸びる玩具の笛ってあったでしょう、要はあれの逆のバージョンで、よく考えてみれば電子タバコぷかぷかはなんとまぬけなナリカタチに見えなくもない。いい年した大人のオモチャ(変な意味じゃないぞ)であり、おしゃぶりみたいなものでもある。
ゆえに電子タバコぷかぷか、脇で見ているとあまりいい格好ではない。「アイコス」「ブルームテック」「フレボ」とて同じこと。
最近、仕事シフトがれいのズボラオヤジの見え見えのズル休みのおかげでむちゃくちゃである。夜勤明けの日はその日の夜勤は休みであって、次の朝は早朝に出かけて深夜までいわゆる通し勤務というハードさ。
休みの夜の酒もろくろく楽しめない。
しかしだ、たいてい休みだからと調子に乗ってネットを見ながら深酒。翌日は昼過ぎまでひどい二日酔いで頭も体もまるでモノにならず、ただ寝床の中で呻吟するだけになることが多い。
酒呑みが鬱病になりやすいのは、深酒大酒の果ての二日酔いの酒の抜けが悪抜けというのか、しつこくねちこく陰鬱極まりなく気持ちよく抜けてはくれない。
特にやけ酒が原因の大酒の挙句の酔い醒めはやけの原因をまたグジグジと思い出し、結果呑む前より事態はいっそう深刻となり、少しでもそれを振り払い前へ進もうと思っても二日酔い特有の疲労感とそれをさせず無気力もいい状態になる。
やけ酒でなく逆にたとて楽しい酒の果ての二日酔いとて頭痛吐き気倦怠気力減退感から免れず、半日を無駄に布団の中で過ごし、そのことへの起こさなくてもよい罪悪感を惹起せしめてしまう。
これが明日仕事で早起きしなければならないとなれば、いきおい酒はほどほどにして夜は遅くとも11時前に寝てしまう。これなら朝6時起きでもさほどつらくはない。
日給月給だから早く仕事に就き長時間働いた分、給金もそれだけ多くもらえるわけだから、少なくとも半日を二日酔いでつぶすよりはるかに有益である。
最近とんと酒にも弱くなったと実感しているので、このたびのシフト乱れ騒動の一件は「もうあんたはな、大酒はあかんの、無理やの。昔から酒と女は二合(号)までと言いますやろ。肴は楽しみながらちびちびとたしなむ程度にしときなはれ」と天が命じているのかもしれない。
たしなむ程度かあ、まだまだ遠いような気もする。自分で書いておいて何を言っておるのだと叱られそうだが、先日初めて呑んだ当節流行のストロングタイプ缶チューハイでウィルキンソンのドライハードってやつ。image
もともと炭酸水で有名なブランドだから、強炭酸が喉をほどよく刺激してくれて快感。ドライの名の通り辛口で缶チューハイにありがちなベタな甘さはいっさいなし。
喉が乾いている時なんかビール感覚でついごくごく飲んでしまうところへ、高い度数のアルコールがそれこそ冬の熱燗みたいに五臓六腑に染み渡りってやつで「うひょ~たまらんの」だ。
たしなむ程度しか呑めませんという人は逆立ちしてもこういう呑み方はしない。
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