燗酒の季節

IMG_20171202_134317「粒うに」の瓶詰めが安かった。199円。
この小川うにの「粒うに」は近所のスーパーではしょっちゅう目にするもので日頃は398円だから、なるほど「特売お一人様2本まで」と赤札がそばにあったわけだ。
熱いめしにのせてよし、燗酒の肴によし、私は酒呑みだから、もっぱら酒の相手として消化していく。大根おろしにのせて雲丹おろし、もどした塩くらげとあえて雲丹海月、佃煮昆布を切り刻んだものと混ぜた雲丹昆布、これらを割れ山椒の小鉢に盛り、熱めの燗酒をちびりちびりとなめるひとときは何物にも代えがたい。
年中売られているものだが、なぜか冬に美味しく感じられるのは自分の想像が勝手にそうさせているのだろう。あるいは酒を燗して呑む機会が多くなるからこともあるからだろう。
なんだかんだ言っても日本酒が一番美味い。お米の国の人だからが当然である。
地酒の銘酒となるといろいろうるさい人たちがいて、なかには半可通なことを言い合っているが、なに、酒とくに燗酒にとって肝心のエッセンスは「厳寒」と「空腹」のふたつだけである。
このふたつの条件が揃っていれば、「通」たちを唸らせる銘酒でなくとも、ごく普通の大酒造会社の、さすがに合成酒や増添酒は御免こうむるが大吟醸までいかなくとも純米酒クラスなら充分に美味い。
とくに空腹状態で少しずつ流し込む燗酒の美味さといったらブランドのべつまくなしである。五臓六腑に染み渡る、という表現はこういうことであるのかと身をもって知ることができる。
内蔵を癒やした酒精たちは次に折からの寒気に凍えた身体を駆け巡り、ほこほこと少しずつ温めてる、こわばった筋肉をほぐしてくれ、心身ともにだらりと弛緩させてくれた時、しみじみと酒なくしてなんの人生ぞと思う。
夏に昼過ぎから必死に水分絶ちをしてアフター5の生ビールごくごくの楽しみに備えるように、冬の休みの日の私は朝から何も食べないようにしている。五臓六腑それぞれにに「夕方まで待ってろよ」と声をかけつつ。

貴乃花親方には相撲協会(を一度)ぶっ壊して欲しいものだ

暖かな雨の降る水曜日であった。寝床の中で朝の雨の音を聞きながらうつらうつらまどろむのは格別である。
昨日の仕事関連の講習会で実技的に体力を使うカリキュラムがあり、その名残の痛みが筋肉や節々に残っている。
講習会の後、皆で新開地の安酒場でちょっと一杯をやったのがいけなかった。ちょっとがかなりとなるのは酒飲みの常。その安酒場で2時間近く過ごし「そろそろ河岸を変えて、この近くにええ焼き鳥屋があるのを知ってるんやけど」と同僚の人が誘ってくれたが、その焼き鳥屋の名前はだいたいわかっていたのであえてお断りした。
いずれにせよ大痛飲はせずとも年のわりには相変わらず多い酒量であり、酒が疲労を抜けにくくしているのか、身体全体がアンニュイで怠惰と懶惰が布団の中で私をはがいじめにしている。
雨の音が伴奏となって半醒半睡の状態の中で様々な思念がかけめぐる。あるいはこれまで来してきた齢60の間にあったことのあれらこれらがランダムに蘇ってくる。
それらにひたりきっているうちにあれらこれらの「物語」の輪郭はぼやけてきて、いつしか眠りに堕ちていく。自分の寝顔など見られるわけがないが、さぞかし天使のような、あるいはいわさきちひろの絵に出てくる少女に似た淡い可愛さにあふれたあどけない寝顔であろうと思う。
午後の3時過ぎ、目が覚めた。今日は休みという解放感でよく眠れたのはいいが、私の場合寝過ぎると体中が痒くなるのである。
特に尻の部分が痒くなり、誰もいないことをいいことにパジャマ代わりのスエットと柄パンを半ケツ状態に下ろし、ボリボリボリボリ尻を掻く。初老おやじの情けない姿とケツがそこにある。なにがいわさきちひろだ、あどけない少女だ。
テレビをつける。日馬富士問題でもちきり。上に絶対服従の体育会系体質の象徴みたいな角界において横綱に土俵外で楯突く平幕力士などありえない。誰も日馬富士の暴走を止めなかったのかと識者がコメントを出していたが何もわかっていない。
それにかてて相変わらずの相撲協会の隠蔽体質。姑息卑劣を通り越して傷害罪という刑法犯をかくまい、よってたかってなかったことにしようとしているのはまさに無法集団だ。
貴ノ花親方の対応が常識なのだ。まともなのだ。どんなことにせよ先に手を出した方が悪いに決まっているじゃないか。子供でもわかるわ。暴力は相撲界では「可愛がり」になるらしい。愛の鞭というやつかね。アホか。理屈とトリモチだけはなんにでもひっつく。
親方に対してあそこまで片意地になることはないという意見があるが、こんな当たり前のことの是々非々すらきっちり決着をつけられない限り相撲協会はますます暴力輩集団化するだろう。
貴乃花親方は自分の現役時代に某昭和の大横綱(物故者ゆえ名を秘す)が星の貸し借り売り買いを繰り返し、いわゆる「やらせ」の優勝回数と連勝記録を積み重ねていく姿を目の当たりにしているだけに角界の悪しき慣習一掃に力を入れてきた人だ。とことん頑張ってほしいものだ。いっそのこと相撲協会なんぞぶっ壊してまえ。
明日は早朝からご出勤で午前0時前にご帰館のIt's been a hard days night~♪。小鍋仕立てて2合の日本酒を燗してちびりちびりやって早めに寝るとすっかね。

RSS(フィード)リーダー

このブログ、なんと2週間ぶりの更新ではないか。それに今月は3回しか書いていない。
ここで「これじゃダメだ、書かなければ、なんとか更新しなければ」と焦って変な義務感を抱いたらダメである。
アフィリエイトブログならその気構えは必要だし、またガツガツと日々更新しないとお金にならないわけで焦るのも当然だが、なにこちらは好きで、それこそ「気ままに」このブログをやっているわけで、更新を楽しみにしている方がいらっしゃればまことに申し訳なく思うが、こればかりは仕方がないことで諒とされたいなどと身勝手にもうそぶく。
罪滅ぼしに、わざわざこのブログまで直接出向いて頂かなくとも登録しているブックマークブログが更新されたら一括して読めるRSSリーダー(今ではフィードリーダーと呼ばれることが多い)なるものがあることを紹介したいと思う。
ブログというツールが生まれた2000年代初期からあった知る人ぞ知る、というより下手(したて)に居丈高な物言いをするが大抵の人が知っているサービスである。知らない人には「え、うそ?知らないの」と思わず余計なことを口走ってしまいそうなほどだ。
私が使っているのは「Inoreader」というそれ。デフォルトは英語表示だが日本語表示を選べる。アカウントが必要。RSS1
アカウントを作るのはイヤだ面倒だという人は諦めてもらうしかないが、捨てアカで充分というより捨てアカでないと「有料版にしたら?」という英語のメールが定期的にやってくる。いちいち煩わしい。無視を決め込むためにも。
画面左の「購読アイテム」リストが自分が登録した気に入りのブログなりサイトなりのリストにあたる。
ブログが更新されていれば太字で表示される、とともに右のリストにもアップされ、それをクリックしたらとりあえず記事や画像は見られる。(コメント欄などは閲覧できない、その場合直接そのブログサイトに飛べるアイコンがあるのでそれをポチすればいい)
もちろんスマホ等のモバイルデバイスとの同期も可能である。
ブラウザの「お気に入り」に似た機能ちゃあ機能だが、一度の手数で複数のサイトの更新を知るのは不可能である。いちいち一個一個クリックしないといけない。
その点、このフィードリーダーというツールはズボラで横着な私にぴったりなサービスだと重宝、5年ほど使い続けている。
2週間の間に季節が一段と進んだ。昼の時間がますます短くなり、冬特有のどす黒い厚い雲が浮かべばいっぺんに風が冷たくなる。一年のうちで私が一番きらいな時候である。夏の酷暑の頃も同じことを言ったような気がする。
ityo


お金について書いていたらだんだん卑しくなってきた

依然勤務シフトが揺れている。日勤夜勤ごちゃごちゃと入り混じりの日々、体調のリズムが取りにくく極力体調管理に励んでおかないとこれからは風邪ひきが怖い。
風邪は万病の元。裏返した意味でもこれは言えていて風邪だと思って、適当にうっちゃいといたら後から考えたらあの風邪に似た症状が思わぬ大病の初期症状だったということがあるから怖いのだ。
夏の暑い時の風邪症状は「なんで今頃風邪なんかひくのかなあ」と一応警戒してみるが、冬なら風邪などありがちなのでついナメてかかってしまう。厄介極まりない。
以前に比べて仕事が蜜になっており、その分緊張とストレスもたまりがち、それらの圧迫感鬱陶しさからつい仕事ひければコンビニでストロングタイプの缶チューハイを買い飲んでしまう。朝帰りであろうと夜遅く帰ろうと。
これが曲者。年をとると余計にアルコールは体力を奪うものであるという当たり前の事実に気づく。若い頃ならありあまる体力がアルコールが減じさせたそれを補ってお釣りが来ていたものだが、今は飲んだら必ず疲労倦怠感が澱のように身体の底で、まるで蛇のようにとぐろを巻いて沈積している。これがとぐろを解いて肝臓や膵臓あたりを食い散らかすようになればやがてが腫瘍や癌へと突き進んでいく。
でもなあ、アルコールが陳腐な言い方をすれば五臓六腑に染み渡る時のあの感覚は何事にも代えがたく、首筋から肩のあたりのコダワリが弛緩し、何よりもそれまで四角四面ガチガチのカタチであった気分というものが、絹こし豆腐のように軟らかくなっていき、やがてグダグダになってそこへ眠気も入り、まさにとろんとろんらりるれろの状態になる時の開放感はたまらない。
わずかな給金、糊口糊するたつきのために心身すり減らすウサも一瞬だけだが飛ぶ。ああ、お金が欲しい、と身も蓋もないことをつぶやいてしまう。
ああ、金が雨のように天から降ればなあ。kanesensu
小口から始める株式投資やFXなども考えたことがあったが、長期の取引ならともかく短期で稼ごうとすれば毎日絶えず相場とにらめっこしておらねばならず、それはそれで面倒くさい。
だいいちあんなもの、おいしい情報にすぐにアクセス出来る大口投資家がほとんどの利益分を持って行き、後は誰でも知っている、すなわちほとんど価値のない情報頼りに落ち穂拾いみたいに個人投資家がちょこまかちょこかまと儲けた損したと騒いでいる。米俵から落ちた米粒つついて回る雀のようでいじらしくもどこかさもしい。
よく「私はこの方法で5億円稼ぎました。こっそり教えるFX必勝法」てな本があるが、この著者はコンスタントに5億稼いでいるのか、というよりその方法で確実にいつでも5億稼げるのか、と少しツッコんで考えてみたらいかにアホなことを書いているのかわかりそうなものなのに結構売れているのだから、世の中得するヤツと損するヤツの違いが如実にわかる。
でも、投資でもやっかという人の気持ちはものすごく分かる。パチンコ屋の前に早朝から並んでいる人もそう。JRAの場外で赤鉛筆耳にはさんで煙草ふかして競馬新聞広げての人、宝くじ売場の窓口の横のカウンターでナンバーズの紙を塗りつぶしている人もそうそうそう。みんな一攫千金が大好きなんだ。
人間、口では「汗水垂らしてコツコツ地道に稼ぐのが正しい姿」などと言うが、なに楽して稼ぐことが出来たらそれに越したことはないではないか。
労働という無駄なプロセスなしに雨の代わりに金が降り、土を掘ってみたら小判がザクザクと出てきて、なんてのが一番である。寝ている間に口座にどこからともなく金がじゃんじゃん振り込まれているなんて笑いが止まらん。
とまあ欲望にまかせるままお金について書き連ねてきたがなんだか気持ちが卑しくなるねえ。武士は食わねど高楊枝とまでいかなくとも、金金金金とこう書いているだけで、人間それだけじゃないんだよなあとため息のひとつも出てくる。
このお金に対する卑俗感、自分の中に俗物的なものをどこか否定するものがあるかぎり、お金儲けは無理なんだろう。
あるいはそんな自分を乗り越えていけた人こそ、お金=自分そのものが確立してお金はその人から離れなくなるものだろう。

「欲望の街」~馬車馬ロック 

一人鍋が一番美味いことに誰もが気づき始めた

鍋物の季節到来。butatiri
生活パターンや価値観の変化に伴い、孤食が当たり前の時代になってきた。かつての孤食のイメージはどうしても「孤独」「寂寥」「ミジメ」といった暗い語彙で語られがちだったが、独りで好き勝手に気ままに食らうメシがまずいわけがない、という至極当然のことにようやく世間の凡人どもは気づいたらしい。
特に鍋物や焼肉は「みんなでわいわい楽しくにぎやかに」という枕詞を伴っていたものだが、「みんなでわいわい楽しくにぎやかに」は裏返せば「鍋やコンロを囲む面子たちのそれぞれの思惑と駆け引きめいた」というものに常に気を張らねばならないということとトレードオフである。
常から同じ屋根の下に暮らす家族同志ならともかく、それ以外の者たちとの鍋囲みにはたとえばすき焼きならば肉片ひとつつまむのになにかと気を遣う。
「肉だけを単独でつまむと欲張りなやつだと思われるのも癪なので白糸と春菊でこう包むようにしてつまんで、いや待て俺はこれで3回めの肉なんだよね、ここは一つ遠慮して焼き豆腐単独で一呼吸を置き」とかなんとか気を張りつめてしまう。
「みんな話に夢中になっているし誰も見てないから肉いってもいいか」と、鍋から引き上げた瞬間に限って、対面に座っているヤツが一瞬、肉をつまんだ自分の箸先に目を光らしてロックオンしているものである。
ああ、やだやだ。さっきはさっきで「生から煮かかりかけた頃合いの肉が一番好きなんだよね」とかなんとかいちいち言い訳をしながらおそるおそる遠慮がちに箸を出しているのに「おいそこ待て待て。まだ味が沁みてないだろう。俺の絶好の味加減が台無しになるだろう。も少しがまんしろ」と横槍を差し出した奴はいつもの鍋奉行。
「うるせ~~黙ってろバカ、男のくせにごちゃごちゃ小舅みたいなことをぬかすんじゃない!」と言い返すと何かと角が立ち、鍋の一夜の序盤を白けた雰囲気にしてしまう恐れがある、そうなれば「ほんと空気が読めないやつ」と烙印を押されるのがイヤさに「あはは、そうだったな。俺がいやしんぼだった。悪かった悪かった」と苦笑して頭のひとつも掻いて箸を引っ込めばそこは丸く丸く収まって。
まこと鍋料理というものは「自分を殺してみんなとの和を大事にして横紙破りは容赦なく村八分にする」という、日本人の麗しくも悪しき集団優先主義的生き方をこなしていくための教材であり、それゆえ愛される冬の定番料理なのである。
鍋料理の湯気の向こう側に「みんなが黒い髪だからたとえ先天性のものでも茶色の髪の毛は断じて許さない。みんなと合わせて黒く染めなさい」という人格と人権を甚だしく無視した校則を押し付けるバカな高校とアホな教師、それらを受け入れる日本という国の空気がうっすらと見えてくる。
この国全体ががそうした集団ファースト思考や論理から抜け出し、成熟した個人主義社会へ至る過渡期にあるのだろうか、鍋料理的価値観が崩れ去ろうとしているのは欣快事である。
鍋の具材に欠かせないマロニーの製造元が堂々と一人鍋を全面に出して該商品をPRする時代である。もはや鍋は「みんなでわいわい」とやりたがる方が旧弊であり古い因習にしがみついている化石のような人である。あるいはメシを食う時まで絶えず人と群れていないと安心出来ない可哀想な人でもあろう。
独りでつつく鍋の美味さときたら。気兼ねというものがまったく不要。独りなのだから当たり前であるがこれが一番美味の肝となっている。
yudofuしっかり煮えていようが生煮えであろうが好きな時に好きな具を食べて、テレビやオンデマンドの映画を見ながらでもよし本を読みながらでもよし、合間合間に粋(すい)な酒のひとつもちびりちびりやりながら、しんと静まった冬の夜更けの過ぎ行きを楽しむ。これで窓外雪も舞い散れば冬蛍の趣ありていとあはれ。

昔ながらのノンフライ麺即席麺もいい

西友新長田店は今時珍しく取り扱いがすっかり少なくなったインスタントラーメンの名作、「マルちゃんの昔ながら中華そば」5袋入りパック、醤油味と味噌味の両方を常備置いているスーパーで時々買って帰る。昔中華1
昔ながらのノンフライ製法のインスタント麺で、昔は結構このタイプの商品が各メーカーから売られていたものだ。
記憶をたどればはるか45年前の昔、日清の「生中華」、エースコックの「麺生」がこの手の製品の走りで、当時の丸坊主の中坊は昼時にこれらをすすりながら、テレビに映しだされている吉本新喜劇の岡八郎の「こう見えてもワイは昔は空手やってたんや。…ただし通信教育やけどな」ギャグを見て笑い転げて、いや転げていたらラーメンをこぼして火傷に至り大事になっていたはずなので、笑っていたのだ、に訂正するが。
それから月日は流れ、世紀新たになってから、ノンフライ麺インスタントラーメンは「昔ながら」を除いてほとんど見かけなくなった。
この「昔ながら」も皮肉なことに、同じマルちゃんブランドである「正麺」シリーズが火を付けた新製法による生麺食感ラーメンブームに押され気味となり、どこか肩身を狭くしているような気がして不憫でならず、時々「おお、おまえまだいたか」と、わが眼差しに慈悲があふれ、つい緩頬の表情となり「よしよし」と手にしてレジに持って行ってやるのである。
昔中華私としては今時の生麺食感ラーメンがイマイチなじめないのだ。生麺食感モノが最大の売りにしている麺のツルツル感なら実はノンフライ麺3分間茹でのところを倍の6分間茹でると、それこそ本当の生麺よりツルツル感がより増す。しかもどういうわけか知らないが茹で過ぎると逆に腰も強くなるのだ。
新製法生麺タイプは6分間も茹でると、変に生麺に近いことが災いして、ただの伸びたラーメン、煮ずぎてドロドロに近いものになってしまう。
「昔ながらの中華そば」は「昔ながらのノンフライ麺」という名前にしてもいいではないか。ネットを見ると隠れたファンが多数いるのだから。とにかく東洋水産さんにおかれてはこの製品けして廃することなく、またこれはノンフライ麺ではないが夏にしか、それも希少種的に目にする、どうみたって冷やし中華やんこれはと思う「マルちゃんの冷やしラーメン」をいつまでも細々としぶとく作り続けていただきたいものである。
朝飯にさっそく「昔ながらの中華そば~醤油味」を昔ながらのラーメン丼でいただく。昭和の大衆食堂や社員食堂、学食でラーメンといえばたいていこの手の味のスープだった。やっぱり「昔ながらの中華そば」という名前の方が正解か。
半切りにしたゆで卵とチャーシュー2枚、そして一切れのナルト、メンマ少々、刻みネギぱらぱら…具はそれだけでいい。逆にこれらのトッピングが一番絵になるラーメンである。
ま、今回はメンマとネギだけしかなかったのでそれで我慢しておいた。

ろくでなしが仮装して「ろくでなし」を歌いたいのよ

なんだ、ハロウィンって今日が正式なその日なんだ。
先週末にニュースでれいのバカ騒ぎを報じていたので、あの日がそうだったんだと思い込んでいたら。
と、勘違いするほど私らの年代にはあまりどころかぜんぜん馴染みがない。
馴染みがありますちっちゃい時分から毎年楽しんでました私60歳です、てな人は育って来た環境が私とはあまりにも違う人なんや。あっちいけ~~。
ここ数年、9月の中ぐらいからスーパーやダイソーの片隅がオレンジのなんきんで占められ、年ごとにそれが広くなっていくような気がする。
「ハロウィンてあれなんですのん?わたしら年寄りやさかいわからしまへんねん」
「ああ、あれはおばあちゃん、ヘロインというそれはそれはきついきつい麻薬があってやね、外人は年に一回それを吸うたり注射してやね、それでふらふらになりながらカボチャの化物になれたら幸運の証やと騒ぎますねん、せやねえ日本でいうたら織田信長の時分にヨーロッパで始まったらしいんですわ。実は日本にもザビエルちゅうキリスト教のおっさんが持ち込んできて流行らそうと思たけど、あの時分は渋谷スクランブルも六本木アマンドもミナミの戎橋もなかったさかいあかなんだ。そのときにヘロインがハロウィンに聞こえたんで日本ではハロウィン言いまんねんな」
「へえ、そうだっか。あんた物知りやねえ」
「いやいやそれほどでも」
とまあ、顔見知りの83歳のおばあちゃんのお褒めに預かった次第だが、私の耳がおかしいと言われたらそれまでだが、ハロウィンとヘロインの発音がよく似ていて、本気でどっかに麻薬絡みの謂れがあるんやと思い込んでいた。
そんなこたあどうでもよろし。仮装かコスプレかなんだか知らんがそんなものにウツツを抜かして、とにかく群れ合わないと何も出来ない日本人の悪癖というのかDNAというのか、そういったものをきっちり血脈の底に隠し持って西洋由来の祭に悪乗りして大都会の繁華街に参集しての狼藉、騒擾、乱痴気、破廉恥騒ぎ。ほんまにこいつらなにかクスリやっとるのではないかと思いたくなるほどである。
いや実は彼ら彼女らが本当は羨ましいのですよ。私が若ければ絶対ああいうことやっていたと思う。根が調子乗り、関西弁でいう「イチビリ」の塊である。
若くなくとも今でも金と暇があれば私が鬱勃と心の底で熾り火ちろちろ燃やしている女装への情熱を満たしていることだろう。ゴージャスなキンキラキンのお衣装に身を包み、思いきり色っぽく艶っぽく「ろくでなし」を歌ってみたいのよ。 
だのに近場へ酒飲みに行く暇もないのに依然貧乏なのはなぜなのだ。今日も一応休みであるが、午後7時までは「酒飲まないで待機していて。また急にあのおっさん休むかもしれないから。頼みます。時給1.5倍増しするからさ」と言われているので缶チューハイすら飲めないじゃないか。あと2時間は。
ええい、こうなりゃチェ・ゲバラに化けて共産主義革命に終わりはないとかなんとか葉巻をふかしてカッコよくほざいてみたいわ。

そんなもん知らんがな(´・ω・`)な詩と歌

「コンビニエンスストア」 詩・川口晴美

夜中に
急に
甘いものが欲しいような気がして
きっとメロンパンが食べたいんだと思って
部屋着のままコートをポケットに財布だけ入れ
コンビニへ行く

セブンイレブンのメロンパンは外側のビスケット生地が
少し固めでおいしかったから
 セブンイレブンへ行く 途中の路地で
抱き合っているカップルがいる
横をすり抜ける
ゴミ袋の横をすり抜けるように
セブンイレブンの自動ドアが開き
パンの陳列棚の上から二番目にメロンパンを見つけたと
 たん
なんだかちがう気がして
食べたいのはこれじゃなかった気がして
買うことができない
仕方なく
明るい店内をぐるり一周し
セブンイレブンをあとにして
大通りを渡りローソンへ行く
ローソンで売っているベルギーワッフルがわたしは好き
 なんだ
思い出して バームクーヘンの並んだ隣に残っていた最
 後の一コをレジへ向かおうと
歩く 数歩の間に ベルギーワッフルを噛みしめたとき
 の歯応えが
にじみ出る油っぽい甘さが ありありと口いっぱいに感
 じられて
全然ちがう
棚にベルギーワッフルを戻して
やっぱりメロンパンだったのだろうか
ローソンのメロンパンが売り切れている
沖縄黒糖ドーナツ、ちがう
チーズ蒸しパン、ちがう
六枚切り食パンを買って帰ってバターとブルーベリージ
 ャムを塗って食べてみようか
それともタマゴサンド でもおなかがすいているわけじ
 ゃない
何か ほんの少しでいいのだ
舌触りでもいい味でもいい わたしを満たすもの
カスタードプディング、じゃなくて、アロエヨーグルト、
手にとってはやめて
甘いものじゃないかもしれない
さらさらと口の中でこわれてなくなってしまうもの
ポテトチップス・コンソメ味、とんがりコーン、イチゴ
 ポッキー、コアラのマーチ、
でもちがう
わたしは何が欲しいんだろう
ここにはない
駅の向こうへいく
電車はもう終わっている
食べるものじゃないんだろうか
郵便局の隣のファミリーマートの前で
電話ボックスの中の誰かが誰かに電話している
わたしも電話してみようか
でも誰に
ファミリーマートの入口には運び込まれたばかりの雑誌
 が並べられ
週刊新潮、アンアン、SPA!、近いようなきがするけ
 ど
部屋に持って帰って一人でそれを読むのを想像すると
小さな活字がもっと遠のいていき
スーパーマイルドシャンプー、植物物語メイク落とし、
 (物語……?)
紙コップ、パンティストッキング、乾電池、封筒、
わからなくなる
わたしは何が欲しいんだろう
まだこの先にサンクスがある
あるから
いつかわたしの欲しいものが見つかるんじゃないかと
わたしの欲しいものはどこにもないんじゃないかと
思いながら
歩いていくことができる
コンビニがなかったら わたしはメロンパンが食べたか
 ったと
思い込んまま 夜に押しつぶされるばかりだったはず
だから
わたしは
夜の道を 次のコンビニの明かりへと歩き出す
歩いていく
ポケットの中で ぎゅっと手をにぎる

『lives―川口晴美詩集』(現代詩人叢書 ふらんす堂 2002年刊より)
※改行の際の1字アキ等ママ


「俺の借金全部でなんぼや」 詞・三上寛 曲・上田正樹、有山じゅんじ



アルバム「ぼいぼちいこか」(バーボンレーベル1975年リリース)より

人出不足(=雇用改善)の業界は限定されている

最近忙しさにかまけてブログの更新も滞りがち。
とはいってもだいたい2日1回のペースでさほど滞っていず、人様のそれとくらぶれば結構更新しているクチであるが。
SNSの方はとんとご無沙汰である。ここ数日ログインすらしていない。
別にイヤになったわけではなく、ログインしたらしたでコメントしたがりのタチだから、コメントする、それに対するレスポンスが気になる、スマホ見られない(=ネットにアクセスできない)時間がここのところ多く、それがいっそ苛立ちを呼び、ならば最初からログインしなければいい、といわばズボラをかましているわけである。
いまだ勤務シフトの定着化が見えてこない。
わが業界の人手不足は深刻で募集をかけていてもなかなか人が来ない。来たら来たでまことに失礼な言い方だが、ちょっとモノにならなそうな人だったりと人事担当はいう。
人手不足が常態となっているほど、少なくとも東京や関西の大都市圏では雇用情勢は改善されたというが、サービス業や底辺産業、ガテン系お仕事、3Kワークなどが人手不足だけなのである。
しかもそれらの従業員はほぼ全部が非正規雇用。
非正規がゆえに給金は時間給単位だから、それを上げてでも人を集めたくなる、いきおい法定最低賃金は上げざるを得なくなる、それはすなわち賃上げの現象につながる、だから非正規の賃金が改善されたことになる。まさしくボトムアップではないか。
ここらあたりを誤解も多分に含まれた評価をもって世間の大方の人が「安倍晋三はよくやっている」と、このたびの総選挙であの男に国政を信任した結果に終わった。めでたしめでたし。ああこれで栄光の大ニッポンも安泰だ。
関西圏の鉄道は台風一過後24時間以上経っても未だ不通区間がある。それほど関西的には近年まれに見る台風だった。
image

良くも悪くも本格推理小説

「霧越邸殺人事件」やっと読了。(全てに近い状態でネタバレしているので要注意)
結論からいえば、既読なのに結末に近いところまで犯人がわからなかったのは初読時の印象が希薄だったから、ぶっちゃけて言えばそれほど面白くなかったので、あれは傑作だった、また読みたいと思い出すこともなく記憶の彼方に飛んでしまったとしか言いようがない。
良くも悪くも「本格推理小説」であったことは間違いない。
「本格」ファンを唸らせる舞台設定、プロットの練り込み、雰囲気作り、散りばめられたフェアな伏線等々、さすがに新本格の旗手として島田荘司が一押しした作家である綾辻行人がものした作品であるが、これらの長所や美点がそのまま「本格嫌い」の格好の攻撃材料となる。
好き嫌い、支持不支持がきれいに分かれるリバーシビリティさがくっくりとし過ぎたのである。
著者デビュー後3年の同作である。文章に生硬さが残るのは否めないとしてまでも。
第1と第2の殺人を敢行した男に、第3の殺人の犯した男(探偵役でもあった)がすべてを擦り付けた挙げ句それが失敗となり自殺したというのが肝の筋である。
第3の殺人の動機設定があまりにも厨房過ぎて、まったく共感、殺人に共感もなにもないが、少なくとも感情移入は出来なかった。
いっぱしに劇団を主宰している30超えたおっさんが何を青臭い、というより小便臭いことを言うておるのだと読んでいて気恥ずかしくもなってくる。
皆を一室に集めて謎解きを探偵役がやるのだが、第1第2の犯行については子細に精緻に論理を組み立てて解明していくのに、第3第4のそれにいたってはえらくあっさりと片づけ仕事で語り流していく時点で、さすがに記憶力衰えとかどうかというより、初読でも後二つの犯人はこの語り手であると気づく。
4つの殺人全体を俯瞰して、なぜこういう殺人が起ったのか。
それは邸自体が未来を予測させるなにかの力があり、4つの殺人はその邸が持つ得体の知れない空気感がもたらすというくだりはバカバカしくなってきた。こんなのありか。
登場人物の姓名がどこか違和感めいたものを抱いたの最初からだったが、その姓名の頭の音を拾い読みすると探偵役=犯人にたどりつく仕掛けとなると噴飯物のレベルだ。作家のご愛嬌ちょっとしたサービスでこんなの脇のエピソードに入れてみましたというならまた別物だが。
これもトリックだとして、こういうことを書くからトリックに絡ませてストーリーを組み立てる無理とおかしさが生じてくると「本格」は批判されるのだ。
いやそれだからこそ「本格」なんだ。いわばゲーム性やパズル性を楽しむやお遊び心がなけれ
ば「本格」を読み楽しむ資格はないと言われたらそれまでだけど、やはり小説であるからしてリアリティも少しは追求してほしいというのが正直な思いである。
たとえば温室の天井ガラスに亀裂がなんらかの力で入ったという場面がある。
なんらかの力がなんであるのか、それも邸本来が持つグルーヴであるという説明の無茶さにあえて目をつむって、その亀裂からギリシャ数字の「X」読みは「カイ」、そこからまた登場人物の名前がシンボライズされたという相当なこじつけ解釈よりも、礼拝室のステンドグラスの天井に描かれた「カインとアベル」の宗教画から「カイ=甲斐(第1と第2の殺人犯)」の名前を結びつけた方がよほどしっくりと腑にすとんと落ちる。
これが20代に読んだならもっと作品側に好意的な立ち位置にいて評したかもしれない。
ましてや10代なら名前の語呂合わせや見立て殺人だけでワクワクし巻措くを能わず徹夜してまでも読みふけったかもしれない。
いかんせん、ちぃとは人生の酸甘かみ分けつもりの、夢もロマンも色あせた心はとうにすれてヒネクレて年経る初老男にはあまりにもお伽が過ぎた推理小説であった
コメント
プロフィール
記事検索