となり町にあるラーメン屋はわざわざ一駅分電車に乗って行くだけの価値はあると僕は思うのだが、開店してから40年は経っているというのに店の前に客が行列なす光景などとはまったく無縁であった。 
かといって閑古鳥が啼いて店の日々のやりくり算段に苦しんでいる様子もなく、食べていけるだけの儲けは出ている、そしてウチはそれでいいんですという、隣近所の住人だけが常連として店を続けさせている街中華屋の典型みたいなもの。 
なんでも女将さんが亭主に浮気され浮気の相手と逐電、ひとり息子を抱えて途方にくれていた姿を気の毒に思ったのだろうか救いの手をさしのべた人がいて、前の店のオーナーが居抜きで安く譲るという話を持ち込んでくれたらしい。 
そこからの女将さんの店の切り盛りの苦闘史はそれでそれでひとつの物語ではあるが、ここでは端折る。 
当時一杯300円で始まった醤油味一本のラーメン、あとは炒飯か餃子くらいしかメニューにないとい う細かい商いを重ねているうちに、息子も成長、大学に行けという母の願いも「いや俺はお母ちゃんのこの店と味を継いで守っていくねん」と言うことが、老舗のよくできた孝行息子そのままで、常連たちをいたく感心させ、よっしゃわしらも足繁く通って盛り立てたるわと、これまた新聞の夕刊の社会面片隅にコラムとして紹介されそうな下町商店街にありがちな店と客との絆のシーンがウエットかつワームフルに展開されて今に至る。 
女将さんのラーメンはラーメンというものを簡単に絵に描けと言われたらたぶん皆が皆こう描くであろう。 
醤油の濃い茶色スープに製麺業者が大量に作る鹹水たっぷりの黄色い綿が湯船に漬かっているように鎮座まし、麺の上にチャーシュー3枚、もやしがひとつかみ、きざみ葱ひとつまみ、厚くもなし薄くもなしの切り方のナルト1枚、女将さんはけっしてメンマといわずシナチクと呼んだもの5切れ、といった陣容はラーメンのイメ ージイラストのプロトタイプ、街中華の表のガラスケースにうっすらとホコリがつもった食品サンプルのようなラーメンを。 
いわばなんの変化球も投じてこない、ありきたりのラーメンであるが、このありきたりのラーメンをきょう日食べようと思っても、なかなかおいそれとそうはいかない。 
背脂系がなんしゃら魚醤と豚骨のコラボ具合のスープがほんじゃらとラーメン通を気取る輩の受けねらい、あるいは当節流行りのインスタ映えするかのような盛りつけで客の気を惹こうとする邪道ラーメンはびこるばかりで「たかがラーメンじゃねえか。大層なことぬかすなよ」と常々憤っている僕を慰撫するかのように女将のラーメンは、時たまやってくる僕の前で、たとえば春先の駘蕩にゆだねているかのような湯気を丼鉢からたゆたわせているのだった。 
そんな一服の至福の時を僕に与えてくれてきた女将さんもさすがに寄る年浪に勝てず、一切合切身代(というほど大きなものではないが )を息子に譲り、今は介護サービスの世話になり週に3度のデイサービスで同年輩のお友達とおしゃべりするのが楽しみなんですよ、と「最近お母ちゃん店にいてはれへんね?」という僕の余計な詮索である問いに笑いながら若旦那の息子は答えたものである。 
「お待っとうさんです」とカウンター越しに出されたラーメンの陣容は先代女将のものそのまま踏襲、しかしスープの味はまさに女将さんそのものだった。 
美味いと思った。「しかしまあここまでよく先代の味を出せたものやね」と口に出すのは、どこかなにやらのラーメン通気取りはともかく、常連やそれに準ずる顔見知りの客が僭越にも言いたがるお決まりのセリフがどうにも厭ったらしく僕は黙々とラーメンを啜っていく。 
この若旦那も常日頃のラーメン作り、その他サイドメニューの味の修練重なりの結果としての高血圧、高血糖症、高脂質症という料理人なら逃れようもない生活習慣病3Kに悩まされているという。 
時々心 臓のあたりに痛みが走り、その時は若干呼吸に乱れが生じましてね、おいおいそらあかんがな医者行ってるか、行ってることは行ってますがどないなるやら、あんたまだ40かそこらやろ気つけてや。 
ある日のことである。久しぶりの休日に件のラーメン屋をのぞきに行ったら、通常なら営業している日であり時間帯であるのだが、のれんが外に出ていない。 
「大将おってか ?」と店の奥に声をかけても返事がない。ちょうどそこへ時たま顔を見かける常連の一人がやってきて「今日は休みかいな」と僕に言うことなしに独りごちた。 
気まずい沈黙を破るかのように「もしかして!」と自然に二人は顔を合わす仕儀となり、カウンターと厨房の間仕切りと開けてすぐのところにあったレジを見にいく。 
開けっ放しの、小銭と紙幣それぞれのヒキダシはすべて空だった。 
僕らは住居部分の2階に駆け上がる。6畳と4畳の部屋。誰もいない。 箪笥の ヒキダシはすべて開けられていた…。 
警察を呼ぶ。とりあえず制服の警官に現場に留めおかれているうちに鑑識が来る。
ドラマで見た警察の鑑識のユニフォームはそのまんまやん、とのんきなことを僕は思った。 
常連や僕まで根掘り葉掘り警察の「任意」の尋問責めに遭った。 警官は常連客の中に市会議員がいたことをふと漏らした。 
数年後、店は跡形もなかった。そこには市道が拡張された1車線が横たわっているだけだった。 
この拡張工事中に女将の白骨死体が見つかった。女将の味を受け継いだ意味がそのときようやくわかったのである。 
息子の行方は杳として知れない。

西城秀樹が鬼籍に入った。
昨日の午後第一報に接した時「そりゃないやろ」と思わず口をついて出た。
といっても彼のファンでもないしなかった。
10代の頃に聞いたり見たりしたものは細部まで覚えているもので、彼の昔の楽曲ならタイトルとメロディが一致する自信がある。
それになんといっても年齢が近似。私よりわずかに3歳上の人が、その年齢に享年を付けられたのは、最近体力気力の凋落著しきことを自覚している私に少なからず衝撃と不安を与えてくれた。
そろそろ自分も終活をという思いにいっそう拍車がかかる。まこと善人、世に惜しまれる人ほど早死にするものである。
テレビは一つ覚えのように「ヤングマン」や「傷だらけのローラ」ばかり生前の彼の映像にかぶせている。
彼には「ラストシーン」という歌謡曲史に残る屈指のバラードナンバーがあることを知って知らずか。こちらの方がよほど彼を送るのにふさわしいと思うのだが。
同世代として冥福を祈る。




先週、図書館で借りてきた本2冊、同時並行で読み、まず瀬戸内寂聴の「わかれ」読了。
作家、81歳から92歳にかけてものした短編集である。タイトル通り、人生において出会う様々な別離のありようを、とても御年80以上のおばあちゃんが書いたとは思えない瑞々しい文章で描かれている。なにせ別名義でケータイ小説を書いたこともある人である。
私小説、随筆と区別がつかない作品もあるが、吉行淳之介の交遊ぶり、重信房子とかかわり、若き日の恋に対する奔放な姿勢、肉体関係がまったく成立しない若い愛人との暮らしぶりなど興味深く読めた。
本の掉尾を飾る「わかれ」。上記の若い男性の愛人がこれに出てくるのだが、こういう関係にデジャブみたいなものを感じとり、それはなんだったのかとあれこれ思い出していたら、たしか小池真理子がマルグリット・デュラスとヤン・アンドレアとの愛人関係についてエッセイで書いていたと、それとよく似たものかと思いながら読んでいくと、寂聴自身と思われる老画家と愛人であるずっと年下のカメラマンが「デュラスとヤンみたいな関係」云々のセリフを交わし合う場面に出くわし、俺の記憶力もまんざら褪せてないわと変に自分で自分をほめて苦笑したものである。
老画家が愛人と別れのメールを交わし合うラスト、「私酔ったいきおいで変なこと言わなかった」「はい、言いました。すけべな話もでました。潮吹きの時私気絶したのよなんて言ってました」との描写がある。
いま女ざかりの作家がこんなことを書くと、生々しくてイヤラシイものが先行してしまうが、92歳のおばあちゃんが書くとむしろチャーミング、年寄りはこういう時得であると思う。名人クラスの老噺家が艶噺話バレ噺をやり、それがぜんぜん卑猥に聞こえないものに通じるものがある。
瀬戸内寂聴の政治や死刑制度に対するスタンスは到底首肯出来ないが、去年だか「死に支度」という作品を読み、初めてこの作家にふれたのだが、今回のも含めてこれからも読んでいきたい作家である。小説家としての彼女をリスペクトしたい。
これは大江健三郎に対してもいえることで、小説はいいものを書いているのに変なことに首ツッコむなよなと天下のノーベル賞作家に不遜にもほざいている。IMG_20180506_214051
マイケル・モス「フードトラップ」。100ページほど読んできたが、アメリカの食品産業を告発するというテーマの社会性もさることながら、ケロッグ、ゼネラルフーズ、ネスレ、コカコーラ、ペプシコーラなど日本でもおなじみのアメリカの食品産業を牽引する大企業同士の熾烈なまでの競争、それにくわえてアメリカに肥満が多いのは糖分、塩分、脂肪分の摂り過ぎが原因で、この三悪を添加することで製造コストを抑え大衆、特に子供に対する巧みな広告戦術で売上を伸ばそうとするメーカーを規制しようとする連邦当局とのいたちごっこにも似た暗闘は興味津津である。
この本のおかげで「テイスティケーク」「トゥインキー」「ジェロー」なるアメリカ人のいわばソウルスイーツみたいなもの知り、「タング」なる粉末ジュースの存在は日本でも「渡辺ジュースの素」というのがあったなと懐かしいものを思い出させてくれた。
しかしどれもこれも甘くてこってり、いかにも濃厚な味覚を連想せしめるものばかりで、そらこんなもん食っておったらイヤでもデブになるわ、アメリカ人全部おデブちゃんになってしまうよ、もっと身体にいいものを食えよ、少しはロハスで生きようと思わないのか、と即席麺をすすりながら読み、よその国のことながらため息をついてしまったのである。

ジャニーズ事務所のタレントの不祥事などもう見飽きたが、事務所のトップ、すなわちジャニー喜多川は絶対に矢面に立とうとしない。
タレントはすなわち自分のところの商品。
その商品に重大な欠陥が出たら、普通なら企業のトップが、心のなかではどう思っているが知らないが、一応謝罪会見を開き、最後は左右に居並ぶ役員どもと一斉に頭を下げて殊勝なフリしてみせるあのお約束事のセレモニーすらやらない。
商品に謝らせる企業のトップという倒錯の位置にいるジャニー御大の場合、表面に出たら何かと都合の悪いことが多すぎるのだろう。
所属タレントがヘタを打てば、札束にものをいわせ、それも効き目がなければ、いろんな意味で襟のバッジに価値ある男たちがまかり出て「内々に穏便に」コトを済ませようとする。
芸能事務所とて立派な企業である。自社のコンプライアンスのガイドライン(そんなもがあるとして)を公開するくらいじゃないと、いつまで経っても胡散臭い目で見られるのは無理もない。
その年齢からして、ジャニー喜多川という人は企業経営者というより、前時代的な興行の勧進元、あるいは芸者の置屋の旦那感覚から抜け切れないのだろうか。

大のお友達のドナルド君といっしょになってキム君を「おまえには何もやらないよ」といじめていたところへ、ボクとツーカーだと思っていたムン君が「ぼくは君のともだちだから。オリンピックもいっしょにやろうよ」とキム君に声をかけてから、急にキム君とムン君がなかよくなりだしました。
「え?待てよ、ムン君」と口をあんぐり開けていたら、次にキム君はそれまで嫌っていたキンペー君にまるで「ごめんね」という態度をみせて会いに行くと、キンペー君も「いいよいいよ、僕たちもともと友達同士じゃないか」とキム君の肩を叩くばかりです。
「いったいどうなっているんだろう」とオロオロしていると、なんとこれまで親のその親の代から敵同士だったキム君がムン君のおうちに遊びに来ました。
「絶対におまえなんか入れてやんないからな」とたがいに言いあっていた壁を二人でなんとお手手つないで、かわりばんこに越えあっているじゃないですか。
それを見ていたドナルド君はもとより、時には澄ましながら時には皮肉な笑顔を浮かべて眺めていたヴァロージャ君までが「おお、よかったね。仲直りしたんだ。君たち、応援するよ」と言っているようです。
ドナルド君もムン君を通じて何かをキム君に伝えていたみたいです。
キム君はつい最近まで悪口ばかりぶつけていたドナルド君と今度会います。
おたがいに会うその日を楽しみにしているようです。
みんながみんな仲良くなっていく、誰と誰に会うんだよと友だちと思っていた人たちから何も知らされず、でもドナルド君との友情を失いたくないためにボクはキム君にはこれからももっと厳しく接しないとと思います。
「ドナルド君がいうからキム君にきついこと言ってるんだよ。ボクと君はずっとずっと友だちでしょう。ね、そうでしょう、そうだと言ってよドナルド君」とボクはすがるように願いつつ、どうも最近みんなに仲間はずれにされていそうな気がして夜も眠れません。(シンゾー君の作文より)


ほんと困るじゃないかキリンさん。ドウシテクレンネン! 
結論からいおう。私、今断酒中なのに罪なことをしてくれたものだ。
こんなに美味いチューハイ、それもよりによってストロング物を出してくるとは。 
ビール以外の商品に伝統の「麒麟」のロゴマークをあしらったのは初めてという並々ならぬリキの入れ方が伝わってくる。 
断酒の身であるが、あるがしかしである、アルコール欲しさよりも、一消費者として商品モニターの視点にたち新製品を検分してみるという意義に則り、私はこの商品を手に取りレジに持って行ったのである。 
断じて「久しぶりに酒飲みたいなあ」とつい欲望に負けてしまったわけではない! 
今流行の強炭酸で来るとは予測がついた。
ステイオンタブ(プルタブ、は間違いよ)を開けると、プシュ~~~と残響すら残しながら炭酸が弾けた。 
ひとくち飲む。少しも、あの柑橘系缶チューハイ特有の不自然な甘さをまったく感じさせない、しかししっかりとレモンの酸っぱさと少々の苦みは人工ながらほどよく再現されており、炭酸の刺激に乗ってゴクゴク飲んでも飽きがこない。 
バーベキューや揚げ物などワイルドで安いアテにはよく合うと思う。 
これからの季節、ビールの代替品という今様の需要、すなわちビール(第3のビールも含め)よりも安く済んですぐに酔い心地を味わいたいという需要に十分に応えられると思う。 
ただしさすがに9%のアルコール濃度はゴクゴク飲みに強烈なお返しをガツンとやってくれる。
空きっ腹もあったかも知れないが、くらくらと早くも酔いが廻ってしまったのである。 
サントリーのストロングドライを飲んだ時に感じる気持ちの悪さがない分、私はこの商品のリピーターに…おっとと断酒してんでしょ断酒、あくまでモニター目線で飲んだだけでしょ、自分自身よ。 
くぅ〜キリンも余計なものを出してくれたものである。
こんなもん目の前にぶらさげて「ほらほら」と人の後ろ髪を引くなよ。 
これからますます暑くなっていく。後は寝るだけという日の休日の昼下がり、よく冷やしたこいつ をグビグビやってみたいじゃないか。 
ところで「断酒」である。この「断」という字であるが、断つ、にも使うが、中断の断にも使っているなあ。
なるほどなあ。そうなんだ私は今酒を中断しているのだ。うん、そうに決まっている。いや今決めた。 
中断には再開という言葉が待っている。我慢するというのはある意味酒や煙草よりも心身に悪いものなのだ。
我慢しすぎてメンヘラにでもなったらどうする。
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あの、アメリカメジャーリーグという野球界最高峰のステージで、打てば3試合連続本塁打、投げれば7回まであわや完全試合かと固唾を飲ませ、結果1安打無失点12奪三振という快投、いや神投の域か。
漫画みたいといえは漫画に失礼だが、そう表現せざるを得ない選手がついに出てきたのだ。現実にいるのだ。大谷翔平という若者が。
こんな選手、貝塚ひろしも一峰大二も川崎のぼるも水島新司も井上コオもあだち充も(なんでもいいが今の若い人ら誰も知らん漫画家ばかりだ。平成生まれは知らんやろ、やーいやーい)、草野球や少年野球ならいざ知らず、いくらなんでもプロ野球の選手として描くにはあまりにも荒唐無稽過ぎて描けなかったキャラのはず。
ただし私の管見である。もしかして私の知らない漫画にそういう選手が描かれているのかもしれない。yakyukyo-no-uta
水島新司は女の子のプロ野球(今あるような女子リーグではない)投手を登場させたが、さすがに無理があったような気がする。水原勇気は可愛いかったけど。
それはともかく。日本中が大谷の信じがたい活躍ぶりに熱狂したわけだが、その熱狂にれいの張本「喝!」爺さんが、またまたバケツに水を汲んでぶっかけてくれた。
「3試合連続本塁打なんてまぐれか、あるいはメジャーのピッチャーのレベルが落ちたのか。すごいことはすごいけどね」と言ったことに、ネットでは「余計なことを言わないで素直にすごいとだけ言っておけばいいのに。ホントにいつもムカつくジジイだ」とかまびすしい。
最近の「サンデーモーニング」は「炎上の張本」という役柄をこのジイさんに与えているような気がする。
ネットで怒っている人たちはまんまとその手に乗せられてしまっているのかも知れないが、この発言の後に大谷をあそこまで成長させたバッティングフォームの進化について、ジイさんは具体的に解説をしており、さすがに安打製造機の異名を与えられ、その「スプレー打法」は全方向に自在に球を弾き返せる超絶テクニックで成し得た通算安打数日本最高記録ホルダーの言だけあって説得力がある。
それに「まぐれ云々」の発言も冷静になって考えたら、至極当たり前のことを言っているのだ。
まだ始まったばかりである。投打で対戦したチームは2~3球団だけでひとわたりしていない。
とことんデータを積み上げ弱点を徹底的に掘り出し容赦なくつけこんでくるメジャーの底力とまともに対峙したわけではない、まだまだ未知数…。
といったことは誰でも考えたらわかりそうなものなのに、「ムラ社会」国家の民である日本人の悪い癖がこういう時に出る。
つまりみんなが「いいねいいね」と熱狂的に喜んでいることに水をさすな、みんなの和を乱すようなこと(それがたとえ正論であっても)を言うな、雰囲気を読め、エトセトラ。
別に熱狂事でもなくていい、逆のたとえば東日本大震災の時のこと、東北の人が苦しんでいることに対して日本人みんなが身を謹むべきなのに、お祝いごとや祭りなどではしゃぐとは何事か不謹慎だろという、フキンシンバカがでかい面して世の中をしたり顔で仕切りたがっていた、息がつまりそうだった全体主義にも似たアトモスフィアが日本中を覆っていたあの頃。
このどうしようもない日本人のお調子者もいい付和雷同性が、国民の自主的開催であった戦捷奉祝大行進の提灯行列となし、軍部を調子づかせ、悲劇の戦争へ突っ込ませていったのは間違いない。
あの当時、どこの町内にも少しはいたであろう、「支那とさっさと講和条約を結んでおけばいいのに、このうえアメリカ相手に戦争をやって勝てるわけがない」と冷静に判断できる人が、一言それを口に出せば、たちまちお上に密告したのは隣近所の者である。東日本大震災の時のフキンシンバカと同類の人種である。
花火大会があるとしよう。みんなが一斉に花火の上がる方向に向かい「きれい、きれい」と声を上げている中で、一人「フン!」と鼻を鳴らして背を向け漆黒の闇の中に浮遊する蛍の仄火に美しさを見出したい、そんな屈折した、めんどくせーやつだなまったく、てなジジイを目指してい私なのである。(大谷翔平はどこ行った?)

当節大流行のアルコール度数の9%の缶チューハイ。
税法上の有利さもあって、メーカー側も低価格設定がしやすく、毎日毎日大量のCMを垂れ流し、アベノミクス効果なんてオラには関係ねえだとフン!といじけざるを得ない層の薄い財布を狙い撃ちしている。
ケミカル果汁と人工甘味料をふんだんに使い、粗悪なウオッカや甲類焼酎のアルコール臭をとことん消し、口当たりよくジュース感覚で飲めるものに仕立てあげ、どんな料理にも合うよん~♪と元タカラジェンヌあたりが飲め~storong飲め~とテレビやネットで呼びかけている。
←たしかに安物の焼きそばに合うわ。Cheap to cheap。
Heaven, I'm in heaven And my heart beats so that I can hardly speak~♪
これはCheek to cheek。まあ酒飲めばまるで天国にいるような思いになるが。
それにしてもむちゃくちゃである。アルコール度数9%。
500mlのロング缶で換算すると、45mlの純度100%もしくはそれに近い度数のアルコールを一度に摂取することになる。
45mlという容積は30mlのショットグラスをテキーラやウオッカなどの高濃度アルコール酒で満たし、それを飲み干し、お代わりにもう半分飲むのと同じ。
40数年の酒歴を誇る(笑)私でさえ、ロング缶とレギュラー缶を1本ずつも飲めば、泥酔はしないが「かなり酔った~~」感を味わえる。
それにかかったコストは、スーパーで買えばわずか税込み260円前後ですむ。定価販売のコンビニで買ってもこれに100円足せばいいだけ。
しかし行きは酔い酔い、帰りは怖いストロングチューハイである。というのは、人にもよるがこの手の酒の酔い覚めのひとときの気分の悪さと行ったらない。
頭ズキズキと吐き気は我慢できても、なんともいえない、しかもわけもなくグズグズと出てくる鬱の気分に耐えられない。この不快感を抑えるために新たな1本に手を出せば一人のアル中患者が出来上がる。
それを考えると空怖ろしくなって、最近はまったくといっていいほど手を出さない。
飲みたいという欲もわかない。それには最大かつたったひとつの理由がある。
昔の青汁のCMじゃないが、ううう~~まずい!もう一杯…になるわけないほどのまずさに尽きる。
こんな代物が美味いと本気で思ってグビグビ飲める人、悪いけどあなたの舌、完全にアルコールにやられてどうにかなってます。そのまま地獄に堕ちて閻魔様にその舌を抜いてもらいなさい、とは余計なお世話でした。
ただ酔いたいがために飲むのであれば、トリスやニッカの最下位レベルのウイスキーのポケット瓶をラッパ飲みしている方がずっとまし。
不味くとも一応ウイスキーの製法に則って作られているから。
ケミカルまみれの缶チューハイよかは少なくとも身体に少しはいいし、それに昔のジュリーの「カサブランカ・ダンディ」みたいで、傍で見ていてもカッコええことは・・・・ないわな。これとてただのアル中オヤジですがね。

本当に久しぶりにノンアルコールビールを飲む。
15年ほど前に一度だけ試しに飲んだその手のビールの銘柄は忘れたが、とにかく「なんじゃこりゃ~」であった。
とりあえずはビールの味はするにはした。
しかしビールのキモである麦芽のコク、ホップの苦味、クリーミィーな泡といったものからかけ離れていて、これじゃあ濃い目の麦茶に炭酸水ぶっこんで飲んでいる方がまだ気が利いているってもんだわと呆れてしまい、それ以降まったく手出しはしなかった。
あれから時は流れ、その間、発泡酒、第3のビールといったビールテイスト飲料の製造技術が格段に進歩し、当然ノンアルもずいぶんと美味くなっていることであろうとは思っていたのだが、アルコールが入っていないビールなんて、気の抜けたそれよりもっと頼りない、酒を飲むというのは味もさることながら、アルコールがもたらす「ガツン」「クラッ」「トロ~ン」感に全官能を委ねることに意義があるので、ノンアル飲むくらいなら水飲んでいる方がましとまるで鼻もひっかけなかったのだが、齢60を超え、残りの方がどうみたって短い人生、アルコールなる悪魔の毒素の手のひらの上で踊らされるのも如何なものかと鑑みるにあたって、しかし、ちょっとビールで喉を潤したいという欲もわからなくはないので、とグダグダグダグダ四の五のぶつぶつ言いながら、ついさっきスーパーで105円で「キリン零ICHI」なるものを買ってきたのである。IMG_20180412_094727
しかし驚いた。今、日本酒からワインに至るまでこんなにノンアルものが出ているとは。知らなかった。
これまで酒売場徘徊しておれば、たしかにそんなのが目についていたに違いないのだが、まったく眼中にないものだから事実上は見ていないことになる。
店で「へ~」とか「ほ~」とかいちいち声に出して手にとって見て、家に帰ってあらためてネットで調べてみると結構な数の銘柄が出ている。
しかしまあ、日本酒やワインのノンアルって。なんかどこか違うような気がするのだ。
逆説的に言うならそこまでして飲みたいのかと言いたくなるような人が多いということだ。
「キリン零ICHI」。最初は私でもその名前だけは知っていたサントリーの「オールフリー」を求めるつもりだったのだが、キリンのは缶の上に「麦増量!」と謳っている。
「増量」や「放題」、「無料」といった言葉にすこぶる弱い私である。
増量だから少しは得した気になってレジまで持って行ったのである。
で、味だが…まずくはない、まずくはないがやはり本物のビールをグビグビやった時のなんとも言えないあの爽快感は得られない。
これは第3のビールvs「ヱビス」や「プレモル」にも言えることで、てんで勝負にならないのである。当たり前ちゃあ当たり前だが。
本物のビールへの飢餓感が増した分、断酒とは真逆の方向へ戻ってしまいそうでノンアルものは封印。

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