やっとこさ、しつこい冬将軍が重たい尻をあげてどこかへ行きやがった感がある数日である。
 あの野郎にはえらい目に遭わされた。毎年ほとんど風邪には縁がない私に2度の長期風邪をひかせ、それから以降ロクなでもないことが起こり続けた。冬そのものが疫病神であった。
 それはともかく、最初はこんなことで本当に最後まで開催できるのかと危ぶまれていた平昌五輪もここへ来て、特に日本でえらく盛り上がっているではないか。
 オリンピックは夏冬とも、そんなに熱狂するほど関心や興味がない私であるが、夏と冬どちらをよく視るかと訊かれたら、冬の方と答えるのにやぶさかではない。
 理由はただひとつ。夏の五輪より冬の五輪の方が女子選手に可愛い子や美人がよく出てくるということ。(あと強いて言うなら、これは男子選手にもあてはまるがスポーツに必ずつきまとう「汗臭さ」というものが全く感じられないから。汗臭いのは見るからに暑苦しいし汚らしい)。
 それだけである。まったく不埒な動機で、彼女らが出る競技はニュースで後追いも含めてリフレイン視聴ってやつだ。
 カーリングの本橋麻里、スピードスケートの小平奈緒、アイスホッケーの藤本那菜、美人ではなくベビーフェイスが可愛いスノボの岩渕麗楽、そのベビーフェイスから一皮向けてすっかり大人っぽくなったスキージャンプの高梨沙羅、とまあ枚挙にいとまがない。
 私も男の末席をけがしている。ブサイク見てるよりべっぴんさん見ている方が精神衛生上非常によろしい。機嫌がええ。メシも美味い。
 女性とてそれは同じだろう。羽生結弦がもしフットの岩尾やノンスタの井上みたいな顔であったらなら、世の女子、というよりオバハンたち、あそこまでキャーキャー(いや、ギャーギャーか)騒いでいただろうか。ウン十万ウン百万もかけて、ユヅ行くところたとえ世界の果てまでもと追いかけまわしていただろうか。
 羽生結弦、たいしたもんだ。2回続けて金メダル。しかも今回のは負傷からの復帰直後という劇的さ。
 dims4年前に比べてインタビューの受け答えがいささかビッグマウスじゃないかと思わせるほど自信たっぷりだし、いい意味でのあざとさワザとらしさ(競技後、胸の上で両手をクロスするポーズ、キザだねナル入っているね、でも君は似合うから許そう。岩尾や井上がこれをやれば)を身につけ、自分の売り方のプロデュースが出来るように成長している。
 ところがやめときゃええのに安倍晋三がまたシャリシャリ出て羽生に祝の電話を入れた映像を写させた。いい意味のあざとさ、と先ほど断り書きのように書いた意味がここにある。
 安倍の場合、完全に人気取りの打算がまる見えで、実にイヤラシイあざとさがこのオヤジからにじみ出ていて吐き気がする。平昌五輪のマスコット人形まで用意して。やることクッサイねん。おっさん。Mainichi_20180218k0000m010120000c_3c0b_1
 金メダルが急に色あせて政治家という最大の俗物の汚垢をべったりと擦り付けられたように思う。秋の総裁選に向けて布石の一旦か、さっそく羽生と宇野の金銀コンビを国民栄誉賞授与を決めた。
 あんな賞、今や何の値打ちもない。政治家の人気取りのおもちゃ同然の賞などもう止めてしまえ。
「銃乱射のために先生も銃で武装すればいい」。人の教育に携わる人たちに人殺しの道具を持たせ、殺られたら殺りかえせと煽るどこかのバカ過ぎる大統領と喜々としてゴルフに興じるようなこれまた輪をかけたバカ男に首相が務まる国の政治家どもが己の思惑で「与えてやる」賞などドブに捨ててしまえ、というわけにはいかず、一応名誉なものは名誉であるから「くれるというならもらってやろうか」と羽生結弦がカマシてくれれば面白いことになりそうだが、彼にそれを期待する私がバカというものであろう。
    
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と、極道は冗談として、教師の武装についてほぼ同じ内容のことをこの人は乱射事件の遺族の前でぬかしたのである。

母に対する俺なりの喪に服したつもりだ。
一週間ほど身を謹んだ。
そう、酒を一滴も口にしなかった。
それが俺が母に出来た唯一の身の処し方、ケジメの付け方である。
30年も前の昔あんたが口癖だった
「毎晩毎晩飲んで帰ってきてこのゴクツブシが」の叱咤に対する媚である。
「何をいちびってんねん」…あんたあの世で笑ってんだろが
さほどの悲しみはないけどね、ふとした心の隙間に痛い針を突いてくる。
「あんなこともあったっけ」という変哲もない思い出。それだ。
ジョン・レノンの「Mother」を聞くと歌詞の内容とは裏腹に今さらながら母を思う。
葬式の時、俺は一滴の涙も流さなかった。
長男としてあれは薄情過ぎるという声を出しやがった無知性な呑百姓の
田舎者には人の屈折した思いには考えが至るという知性はない。
田舎者の野蛮は複雑に絡みあう綾糸のほぐし方どころか、そんな存在すら気づかないだろう。
ああまた酒の勢いで狭めなくてもいい世界を自分で狭めている。そして荒れている。
お母ちゃんの声が「あんたはいらんこといいすぎやねん。気ぃつけや」とバシッと締めてくれそうなお母ちゃん。
さようなら。



 天涯孤独の身が羨ましい時がある。葬儀や回忌などの法事に親戚が集まった時である。
 注意深く観察すれば故人に対して好意的かそうでないかがよくわかり、非好意的な人らはそれとなく集いあいひそひそと陰口を叩いている。
 その中には故人生前にはずいぶんと故人に世話になったはずの人もいて、死人に口なしをいいことにさっそく手のひらを返している。死人が聴こえば思わず棺桶を勢いよく開けて「おい!今なんつった?こら」と立ち上がりたくなるようなことを平気で言う。
 人間の嫌な面が見たければ積極的に法事に出てみることだ。人間観察の場にもってこいの場所だ、人間というものは時としてこんなに汚いものであることを知っていた方がいいととくに若い人らに勧めておく。
 とくに田舎に済んでいる者が親戚にいると、それが何かにつけて容喙すると上手くいっている人間関係も壊されかねない。ものごとの揉める原因となる。
 とかく田舎者は古くて黴の生えた因習と旧弊なしきたりの世界に生きている。娯楽といえば寄れば他人はおろか身内の悪口しかない。保守的で前例破りをとことん嫌い、権力や財力を持った人になびき媚を売りといった行動をムラ中の住人全部に村全体がひとつの「ビッグブラザー」となって押し付けてくる。
 都会人が移住してくればさっそく田舎者は監視を開始する。ゴミ捨てのやり方が悪いといっては難癖をつけ、あまつさえ収集の妨害すらやる。祭りの寄付を拒否すれば道で会っても挨拶もしない。冬の雪かきや夏の草むしりなどは率先して早起きしてやらなければどんな嫌がらせが待ち受けているか知れたものでない。
 田舎者は一見愛想がよい、また親身な言葉もかけてくれる。ああ素朴で優しい人たちだなと油断させておいて、それこそ笑顔で人を畑の野壺に叩き込み皆で嗤いあうくらいは平気でやりかねない。それが楽しみでもあるのだ。
 新参者をいびり倒してイジメぬく。これも単調な生活の暮らしの中での大切な娯楽である。
 田舎において自由気ままな個人的生活など夢の夢である。あくまでムラの論理が最優先、民主主義もへったくれもない、毎回毎回同じ顔の村長と村会議員が当選する。
 教養や知性、批判的精神など都会人が持ち合わせている知的センスなど、肥溜畔道コミュティでは邪魔になりこそまったく無益なものだ。
 長いものには巻かれろ、寄らば大樹の陰、ムラオサ格やその茶坊主みたいな住民が白いものでも黒いえは黒いですと心得、朝は朝星夜夜星野良仕事に勤しみ、ムラの集会や無目的なだらだら飲み会にも顔出し怠りなく、夏の地蔵盆、秋の祭りには率先して雑用係を買ってでて5年か6年でようやくまあムラの仲間として認めてやってもええべなあ、という田舎のどこがいいのだ。
 誰が田舎に移住するもんか。芳雄のバカが。野良と酒で灼けた皺だらけの顔で笑えば金歯が光りって趣味が悪すぎる。なにかにつけて無神経でやることがまるで垢抜けてなく大雑把アバウト過ぎの分際で都会人にいちいち指図するんじゃない!
 誰がおまえを呼んだんだ。田畑広がるド田舎の、車で20km走らなければ出られない国道沿いにある「ROUND1」でビリヤードでもやって都会の匂いを嗅いだつもりでいる山猿ごときがしゃりゃり出てくるな。
 ああ田舎者など大嫌いだ。自然が豊富、空気が美味いなんてあんなもの2時間もいれば飽きてくる。あとは得体の知れない虫がウヨウヨ飛び交い、蛇やムカデにイモリに囲まれ、肥壺からかぐわしきにほひ漂い…、
 こんな田舎のどこがいいのか、田舎に移住したがる都会人が増えているが理解できない。
 田舎の地方自治体は定住者を増やそうと必死になっているが、受け入れるムラの住人の前近代的な思考方法からして変革させないと、所詮は机上の空論であろう。

   本日午前0時21分母が不帰の人となった。享年84。  
    不整脈と呼吸困難の激しい発作を起こしていると、母の入院先から連絡を受けた妹が、夜勤中の私に伝えてきたのは前日午後11時半頃。
  今病院に急いでいると話を終えた妹の声が、「死に目に会えなかった」と、日付が変わって0時30分母の死を告げてきた。
   私と妹、それに義弟の車でピッキングした父の誰もが母の妻の今際を看取れてやれなかったのである。
   それを思うと母を哀れに思う。  
     そして「親の死に目に会う」ことこだらわらないつもりであった自分が、胸底深くそれに拘泥していたことに驚く。 
     さほどの哀しみはない。急死やむろん夭折といったものではなく、高齢の母、しかもここ1年は着実にかつ確実な鬼籍入りをめざしつつ、冥土路をほとんど意識のないまま歩む母を見ていたから、それなりの覚悟は出来ていたからだろう。 
   死んだものは仕方がないという感情にどこか安堵に 似たものが入り込んでいる。
   棺の中の母の死顔をみる。ついこの間見た幽鬼のような形相ではなく、病院の好意で薄化粧を施されたそれはむしろ美しいと身びいきでなく思った。 
   閉じられた細い唇に引かれた薄い紅が可憐であった。 
  それでも不思議とこみあげてくるものはなく霊安室を出た。
    晴れた空から雪が舞っている。
   ジーンズの前ポケットの中で握っている鎖状のキーホルダーの冷ややかな感触が掌(たなごころ)にこ もる。 
  せめて桜舞う頃にと願っていたのだが、綿帽子のようにてんでばらばらに青天の宙をもてあそぶ雪舞いに送られてよかったな、と母の黄泉への旅立ちを思い至った時、泣けた。

 北風ぴゅーぴゅー今日もやたらにさっぶいさっぶい。しかし日差しの中に暖かさが占める度合いが確実に増えている。今週後半より低温は一段落、季節は寒暖繰り返しつ、確実に春のいそぎを調えていくのだろう。
 そうか、「ドラクエⅢ」が発売(1988年2月10日)されて30年も経つのか、とネットのニュースサイトで気づき少しく感慨にふける。
 実はこの時点ではファミコンは所有しておらず、それゆえ格別の感興もわかず、当時の報道番組が伝える発売直前のショップ前の長蛇の行列を「たかがゲームになんとまあ。暇なんか」と欠伸まじりに眺めていた。
 それが、その10~2年後にはいつのまにかファミコン、スーパーファミコン、ゲームボーイ(これは娘に買ってやったものだが)の任天堂人気ゲーム機トリオを揃え、ドラクエシリーズもスーファミリメイクバージョンの「Ⅰ」「Ⅱ」のパック、「Ⅲ」も含め、それでも飽きたらずソニーのプレイステーション版の「7」まで蒐めた。
 妻もゲーム好きなので結婚前の交際時代も含め、妻とともに歩んできた私のビデオゲーム史であると言っても過言でない。
 新婚当時はたしか「ドラクエⅣ」を二人して夜遅くまでやっていた記憶がある。ダンジョンや塔城内を攻略する際、私の傍らで妻は攻略本を手にしながら、「その宝箱はモンスターやよ」「その奥の扉の手前の廊下を右に行けば外に出られる扉があるみたいね」と、いろいろ助言を与えてくれる。
 隣の部屋にあったベビーベッドで、寝ていても放ったらかしにされているのが本能でわかるのか、まだ生まれたばかりの赤児であった娘がむずかる。そのたびに夫婦してあやしにいく…
 ファミコン版のゲームパッケージを眺めているだけで、遠い昔の委細にいたる記憶が蘇ってくる。IMG_20180212_150108
「ドラクエ」シリーズの面白さは万語を尽くしても語りきれない。「Ⅲ」を買ったのは発売後1年経ってから。プレミアム価格までついたものがすでに新品で値引き販売されていて2900円くらいで買ったと思う。
 ROMの容量が飛躍的に増え「ふっかつのじゅもん」をいちいちメモしておかなくても、電源をる前にそれまでのプレイ内容をセーブをオートで出来る機能とトレードオフのカタチでゲーム冒頭のテーマミュージックが割愛され、いきなり街のシーンで始まった。
 ジョブチェンジ、カジノのゲームインゲームのアイデアは秀逸で、とくにジョブチェンジでどれだけ遊びのパターンが拡がったか。「あそび人」ばかりのパーティを編成して武器や防具を装備させず旅に出させたりなど。
 あの頃のようにスタンドアロンでこの手のゲームを楽しみたい。
 ファミコンもスーファミもいまだ健在だが、あれらはアナクロテレビしか画像が出ない。そのことに気づかずデジタルテレビを買った際に処分してしまったのが今でも悔やまれる。

  氷雨で凍えさせられて、今日は晴れたらと思ったらまた身を切るような寒風が吹き募り。
  毎冬マフラーや手袋といった防寒具とまったく無縁なのに今年はそれらが手放せなくなっている。 
 寒いといえば平昌冬季五輪。同じアジアでの2回目の冬季オリンピック、成功裡に終わってほしいと願いつつも、その運営のダンドリの悪さと北朝鮮が横恋慕よろしく急に参加を申し入れてから以降、完全にかの国のペースで進行、政治や外交の道 具にこうまで露骨に利用されている様は寒々しい。
  選手や競技よりも、政治の駆け引きの移り行きばかりが注目されて、おそらく後世まであまり芳しくない評価でもって語り伝えられる冬季五輪になることは間違いない。
  選手村で提供される食事の内容をはじめ、運営面のあれこれを粗探し的に喜々として伝えている日本のワイドショーを見ると、またそれが視聴者に受けるのであればこの国の民度もあまりたいしたものではなく、むしろ恥ずかしい限り だが。 
 世の中には我見管見であるに関わらず、私が絶対に正義、私のいうこと間違いなしとばかりに人やそれが生み出すものへの粗探しにいそしむ暇な人が結構いるものだと変に感心もする。
  大海を知らない蛙(かわず)が井戸の奥でゲコゲコと小うるさく鳴いている滑稽さに気づかない哀れな人たちである、とひとまず自分のことは棚にあげておく。あるいは「他山の石」とせよ、か。
  イオンのPBであるトップバリュのインスタ ントラーメン「麺とスープにこだわった塩ラーメン」にありあわせのものをトッピングして食べる。
  麺はノンフライ、こしもありつるつるの食感もよいのだが、スープが魚介エキスとチキンベースであり魚介の方がおかしな具合に勝り、どうにもケッタイな味に仕上がっている。リピーターにならないだろう。    
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 某大手スーパーのポテトサラダ(以下ポテサラ)名人が、指呼の間にある独立資本の中小スーパーに引き抜かれた。  
 職場の同僚の男性がポテサラが好きで、自分で作るのはもちろんのこと、その時間がない時は大手スーパーの総菜コーナーで買って間に合わせていたのだが、最近どうも味が落ちた。
  商店街の核となっているスーパーで、総菜も充実、特にポテサラはその旨さが人気の商品で大きなトレーに日に何回もポテサラの山を築 いてもまたたく間に売れていたというのだからたいしたものである。 
 年百年中、食卓に日に一度はポテサラの小鉢を置かないと気に済まないという同僚もこよなくここのポテサラを愛しており、その突然の味の下落に不審を覚え、店の常連の強みと厚かましさを発揮し食品売場の主任やパートのおばちゃんらにいろいろ聞き込みをして調べてみたら冒頭の事実が判明したというのである。 
「まったく。その熱心さ をもっと仕事で生かしや」と嫌味をかますと、「あほか。ポテサラは俺の命なんや。特にあの店のはそら美味かったで。わしの作ったやつには劣るけどな」「知らんがな」。
  なんでも引き抜いた方の中小スーパーの社長自ら店の幹部クラスとともに極秘裏に件のポテサラ名人のおばちゃんにアプローチし、その味うちでなんとか売らせてえな、失礼やけど正社員雇用で給金もそれに見合ったもん出します、悪いようにはせえへん、なあ頼むわ 、うちらみたいなちっこい店、各個撃破でないとあんたとこみたいな大手にお客さん取られるばっかりや人助けやと思て…等々、それこそおばちゃんの両手を取り拝まんかぎりの、まさに三顧の礼をもっておばちゃんをかき口説いたらしい。 
 おばちゃんも相当悩んだようである。 
 それはそうだろう。長年世話になった店の目と鼻の先で同じ仕事をやるのだから、よしんば裏切り者、恩知らずと世人の謗りを受けても甘んじて受けなければ いけない…と考えるのは日本人の悪いところであると思う。 
 美味しいポテサラを作る能力に今より高値をつけて買ってくれたわけだ。いわばポテサラのプロフェッショナル冥利に尽きるというもの。なにを斟酌や忖度することがあろう。 
 無能力者や負け犬ほど、仕事とはなんの関係もない人情絡みのこと、恩だの義理だのとつまらないことで騒ぎたてるものである。 
 言い換えれば弱いヤツらほど人間関係にすがりつき群れたがるとい うことだ。
 アメリカの特に金融、ファンド業界やIT業界では仕事が出来るビジネスパーソンが引き抜かれ、昨日まで自分がいた企業の強敵となることなど日常茶飯事。 
 それが人材の流動の活性化につながり、世界中から資金と有能な人材、技術を集めている。
  ポテサラとて同じことだ。ポテサラほど奥深い総菜もない。ちょっとした塩やこしょう、マヨネーズなど調味料の 加減、ジャガイモの品種、それのマッシュ具合、いっしょに混ぜ込むきゅうりやにんじんの鮮度、それらがわずかでも違うだけでまるで別の味になってしまう。 
 コンビニやおおかたのスーパーは総菜専門の工場を持ち、ポテサラも一括して生産、各店へ配るのが普通だが、スーパーによってはバックヤードでおばちゃん(べつにおっさんでもいいのだが、ポテサラ=おばちゃんのイメージが強すぎる)が大きなボウル相手にせっせこせっせこ 作っているのが店内から見えることがある。 
 ボウルを大きなしゃもじでかき混ぜているのをよく見かけるが、あのかき混ぜの力の入れ具合にも上手い下手があって、こういうところにも美味と不味さの分岐点がある。
  これに似たものに肉屋のコロッケがある。店々のレシピにしたがって、まったく同じ素材を使って同じ時間をかけて揚げているのに作る人によって美味しさが変わる時がある。
  たかがポテサラ、されどポテサラなのだ 。
  私の好みだが、あれは総菜売場にあるのだが、めしのおかずにどうも不向きである。
 おかずにする場合はポテサラの上にマヨネーズをさらに自分でかけまわし味を濃くしてしまう。めしのおかずは濃い味が好きで、とはお里が知れるが。 
 私にとってポテサラは酒のアテである。ワインやリキュール関係以外のたいていの酒に合う。 「とりあえずビールと枝豆、お、ポテサラあるのか、それも」でもいいし、「ちょっと腹にたまるやつが欲しいな、お、ポテサラあるのか、それ頂戴」と日本酒(冷酒、燗酒どちらでもOK)の相手をさせる。
  適度の塩気とマヨネーズのコク、ジャガイモのマッシュしても残っているねっとりほくほくの食感が、甘くもなく辛くもなくほどよい加減で酒と快く踊っている。
  そこへ、きゅうりの青味、かすかに残るあの手の野菜の日向臭さが舞踊を要所要所で引き締めのステップを刻んでくれる。
  きゅうりがマヨネーズのくどさを緩衝さ せて食感からくるある種のしつこさに清涼さを与えて、刻みきゅうりがポテサラに果たす役割は実に大きい。
  てなことを念頭において作っておられるのかと、よしんばポテサラ名人のおばちゃんに訊いたところで「いんや。そんなこと考えてたら悩むだけやわ。適当に作ってるんよ」と奥ゆかしき答えが返ってくるだけだろう。 
 プロがいう「適当に」が素人には絶対出来ないのだ。
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 今日は寒気いくぶんやわらぐ。福井県のインフラも少しずつ復活してきた模様が、妻とかの地の住む友人との通話から漏れ聴こえてくる。よかったよかった。
 平昌のオリンピック、今日開会式であるが、すでに競技ははじまっておりNHKが伝えている。
 いずれにしても現地の雪少なすぎ。ちゃんと最後まで出来るのか気をもむ。
なぜ、日頃夏冬かかわらずオリンピックを腐しがちな私が平昌五輪にこだわるかというと、まことに単純な理由である。
「冬のソナタ」のスキー場のシーンはここで撮られたから。それだけである。
 今から15年前、NHKの地上波で初放映されたあのドラマの虜になったのである。
 チェ・ジウ扮するキャリアウーマンの典型みたいな女性が、ペ・ヨンジュンが演じる青年実業家と恋仲になる重要なシーンが散りばめられていたからである。 
 あのドラマは今思っても実に意表を突いて来た作り、というより「恋愛ドラマは所詮はこういう単純ご都合主義の方が盛り上がる」という当たり前の真実を知らしめてくれたドラマでもあった。
 少女漫画やラノベの乗りである。ラブストーリーに小難しいことはいらない。
 色恋沙汰にいちいち苦悩が原罪がとうじうじと悩み、抱擁からキスに至るまでの心理描写を延々数ページにわたって書き綴るなど所詮純文学作家の自慰、ただしいくばくかの金になる自慰にすぎない。
 当時の日本の脚本家や監督、プロデューサーはこのことに気づいていなかった。
 おいおい、それってな~んか韓流とかラノベとかバカにしていない?と言われそうだが、あの当時46歳のオヤジを夢中にさせたのは奈辺にあるのかを考えたら、前述の「恋愛ドラマは云々」に至る。

 嫁の友だち、福井県在の彼女はちょくちょく我が家に遊びに来てくれるのだが、ここ数日の雪被害に嫁ともどもやや心配である。
 嫁は昨夜からメール、電話、娘の力を借りてLINEで連絡をとっているのだが不通が続く。
 なにせ、かの地は平年の8倍の積雪量。福井県から石川県へ抜ける国道8号腺、ここで立ち往生の車がかれこれ50時間近くの身動き出来ずの苦境に落ちている。
 そこへこの国道沿い(であろうと思う)にロード店をかまえる「餃子の王将」(関西人に言わせれば「京都王将」)が餃子や天津飯、その他もろもろの中華料理のレギュラーメンバーを立ち往生の運ちゃんたちに無料で差し入れた。1064765af1ce9965087c8e2494b648c6_tb
 そのうえ地元の人たちが手づくしのおにぎりや漬物を「よかったら」と持ち寄ってくる。
 変なマスゴミが美談扱いする以前に「フツーにいい話じゃん」、である。
 私この記事見て「いい人はまだまだいるんだ。日本も捨てたもんじゃないなあ」とそう素直に思った。
 でもね。こういうことに対してネットでいろいろケチをつけている人がいる。
 やれ「王将の宣伝費に換算すればこんな安い偽善費もないな」「他人が握ったおむすび、もらった時にはえびす顔、くれた人が去ったら窓から捨てている」「田舎の漬物なんてゴミ食えるか」etc
 文句言ってるやつはよ、「今は雪で大変だけど、動かせるようになったら何かいいものでも食ってくれ」と運ちゃんにたとえ1万円ずつでも配ってから言ってみな。
 無償の善意にいくらでもケチはつけられる。王将の善意は広告宣伝費とひねくれて考えてみても、こんなことすぐに忘れられるは当たり前。
 運ちゃんに手作りのおにぎり差し出したおばちゃんらの暖かささえ否定したら、世の中というより人として終わってまっせ。
 ソフバンの吉野家の牛丼タダ配りとまったく違う次元なんだよ、と私が書いた記事にメッセージ送ってきたあなたへの回答を兼ねてここで擱筆。

 朝の早よから寒い。言っても書いても詮ないが寒い。
 テレビをつけてもニュースはどこも「日本海側を中心に今日も積雪すさまじく」がトップに来る。
 降らなきゃどうしようもなく困る韓国平昌に降らずというところが、性悪すぎるシベリア寒気軍団である。
  平昌というところ、常からやたらの豪雪地帯でもなく、ただやたらに低気温な場所らしい。
 先日だか、洗ったばかりのジーンズを立てるように干していたら、しばらくしてそのまま立ったまま凍りついた、その後ずっと立ったままという画像が紹介されていたが、どこまで寒いんだ。それでも氷点下18℃。
 氷点下40℃を越す、人が住んでいる場所としてでは世界一の寒極地シベリアのオイミャコン村の寒さなど想像を絶する。おそらくカップラーメンなど湯を入れるはたから凍っていくのではないか。
 なんでもこれくらい寒いとむしろ風邪をひかないという。風邪の因であるウィルス自体があまりの寒さに生息できないかららしい。ここまでくると「ほんまかいな」的笑い話だ。
 昨日は仕事はなし。喫緊事態出来風雲火急告げし連絡事もなし。久しぶりにのんびりと過ごす。
 ろくに金もないのに外出しても寒いだけ。とにかく布団の中がパラダイス。本や雑誌をパラパラめくり→ブログの記事書き→スマホでネット→うたた寝、このパターンをだらだら繰り返す。
 夕方仕事を終えた娘と近くのスーパーで合流、家族で夕食の菜を選ぶ。豚肉の白味噌鍋に決まる。私には牡蠣生食用が安かったのでおまけに付けてくれた。
 さすがにスーパーでパックで売られている牡蠣を、いくら生食用と表記してあってもそのまま生でという勇気が私にはない。生牡蠣の食感が残るように沸騰した湯でさっと煮てポン酢をかけまわして、葱ともみじおろしを散らして、熱燗でやる。
 燗で呑むために容器ごとレンチン出来るものが純米酒として月桂冠より出ていたので買う。ただし熱燗は耐熱性の問題もあり無理、1分以上加熱厳禁となっていた。
 ぬる燗であるが牡蠣が安いわりにはさすがに旬とあって身も大きくぷりっと締まっており、牡蠣独特の潮の匂いが濃い旨味汁と日本酒の相性の良さもあいまって満足。
 鍋で麦焼酎の梅干し入りお湯割りに切り替える。杯を重ねる間中、グラスの底で焼酎に揉まれた梅干しがふやけて、酒の旨さも染み込み、これはこれで中々の酒肴になった。
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